企業診断を読む(2001年12月号)

作成日:2001-11-29
最終更新日:

提言 中小企業のためのミニマムレベルの「企業内英語力武装」のすすめ

この標題を見て「ああ、また英語か」とため息をついた。 でも、英語嫌いの者としてはしつこくいうべきことは言わないといけない。

著者の北川さんは、「はじめに」で次のように言う。「職場の改革が進むと、社内のみならず、 外部企業・社会ともコミュニケーションをとる必要が増える。そして、国内在住の外国人や Web を介する海外との接触が増えれば、英語が不可欠となる。」 この論点から、中小企業といえども英語力を武装することが必要であること、 しかしその武装は大手企業並みに経費をかけなくとも必要なだけの英語力は養えることを 解説している。この論はもっともなところもあるが、本当に現実を把握しているのか、 確かめてみたい。

第1章では、北川さんは次のように論を立てる。「一国の経済力と言語の力は比例する。 1995 年以降の日本経済は地盤沈下しているから、日本語じたいの経済力も低下している。 したがって、日本人は自らの言語に頼ることなく、世界に近付く努力が必要である。 しかも、英語を母国語としない国どうしがビジネスを行う時には、 中立的な英語を用いることが多くなる。しかも、IT 化により英語の力はますます大きくなっている。 従って、どの企業・個人にも最低の英語力武装が必要だ」

日本語自体の経済力は低下するのは間違いない。しかし、それと日本語自体のもつ魅力は別である。 ひょっとしたらではあるが、経済が衰えても日本語自体のもつ魅力で商売ができるのではないか。 それはともかく、世界に近付く努力をしていないことは私も認める。 しかし、それが英語一色であっていいものだろうか。国際貿易で、双方のことばから中立な 「橋渡し言語」が英語であるということはいえるのだろうか。完全に中立なことばはありえないから、 相対的に中立な、という意味に介しておこう。 そうしたときでも、アジアの諸国語と欧米の諸国語との間に英語をはさんでみたところで、 英語が中立といえるだろうか。これはいえない。 北川さんが例に出しているのはヨーロッパ周辺国の中小ビジネスであり、 日本を含むアジアのそれにはあてはまらない。 アジア内の諸国語間ではどうだろうか。英語が橋渡しとなることは十分考えられるだろう。 否、事実そうなっている。私が体験したいくつかの事例でも、アジアの人とのやりとりは すべて英語だった。それは残念ながら事実である。

私は英語が世界を席巻していくと事実を認めたくないからエスペラントをかじっている。 しかし、わたしはエスペラントにも絶望している。 一度エスペラントでオーストラリア人と電子メールをやりとりしたときに、 自分の語学力のなさがあからさまになっていくのに気がついて愕然とし、あきれてしまったからだ (エスペラントが悪いのではない。私の伝達能力がないのだ)。 だから、英語は受け入れざるを得ない。ただし、必要悪として。 そうしたときに、必要悪としての英語はどうあるべきか。

第2章では、「英語によるアイデンティティ表記」を勧めている。アイデンティティとは、 レターヘッドと名刺のようだ。名刺の肩書にはこだわるようにいっている。 ここは特に何もいうことはない。このあたりは英語で考えてもいいのではないか、と思っている。

私は実は軽視していたのだが、たびたび出てくるサリタナ株式会社の小池社長は実によく考えていた。 サリタナのスペリングはいいとして、株式会社に相当するのは Co., Ltd.か、Corporation を 一生懸命になって考えていた。しかし、レターヘッドは見ていない(作っているかも知らない)。 一方、名刺は見せてもらった。私はただの "President" でいいんじゃないの、といったが、 小池さんは、いややはり自分の肩書には CEO がないといかん、というので英語名刺は、 President & Chief Executive Officer になっている。偉い。

第3章では、「現代に求められるビジネス英語とは」という標題で、いくつか提言をしている。 発想の転換から始める、専門用語をマスターする、スペルミスは致命的と心得る、 On the Job English 教育を試みる、がそれである。

発想の転換では、 「結論を先に言う癖を身につける」こととある。これは英語に限らず日本語でも、とある。 商売のことであれば、私は賛成する。 ただ、その後の「英語らしい英語を書くには、英語的発想を知ることが重要である」 と一文には疑義がある。なぜ、ここで、英語らしい英語を書かなければいけないのか。 日本語でも結論は先にいう、といっておきながら、なぜ英語らしさにこだわる必要があるのだろうか。 必要なことを簡潔にまとめ知らせるのは商売上のことであって、語学上のことではない。 英語らしい英語、といったその瞬間に、標題のミニマムレベルは越えてしまっている。 英語らしさと日本語らしさには、専門の学者が苦闘してもなかなかこえられない壁がある。

専門用語をマスターするのは、仕方がないがこれは必要悪だと思ってあきらめる。 しかし、必要な語彙を徹底的にマスターする、とあるがどこまで徹底すればいいのだろうか。 やっぱり、ミニマムレベルというのは存在しないのではないか。

スペルミスは致命的と心得る、とある。私には、これがわからない。 コレポンレベルではあるかもしれない。 しかし、電子メールで技術的な内容をやりとりするぐらいのことで、 いちいちスペルミスにめくじらを立てることはない。だいたい、電子メールなんてそのように 使うものだ。 もちろん、Netscape Messenger などは無料で入手できる上にスペルチェック機能もある。 ごく自然に使えるから、使うのはいいだろう。

コレポンを書いていたつれあいがいうのには、たわいのない綴りのまちがいは問題ではないそうだ。 むしろ、三人称単数現在の s を平気で忘れ、しかもその所行をくり返す人こそが 問題となる、ということだった。そして、三単現の s の抜けは、スペルチェック機能は使えない。

老婆心ながら付け加えると、「スペルミス」ということばは和製英語の疑いが大きい。 少なくとも綴り字のことを「スペル」とはいわない。「スペリング」である。 私は昔中学時代に続基礎英語を聞いていたが、そこで安田一郎先生がいっていた。 また、手許の「ジーニアス英和辞典」にも書いてある。 つれあいが貸してくれた、現地の高校生が使う教科書には、 "spelling errors" とか、"misspelled words" などと書いてある。

On the Job English 教育を試みる、これが一番効果があり、しかも難しいと思う。 私のいた職場で、新人研修や中堅研修で英語のクラスに参加したことがあったが、 実務とは決定的に相容れない。クラスに参加してついたのは度胸だけであった。 計画をたてるのは難しいが、それだけにうまく計画通りに実現できれば成果も大きいだろう。

第4章では TOEIC について触れられている。 北川さんは、こんな書き方をしている。受験者がある程度の点があれば、 その者は努力をしただろうこと、 そして「潜在的」に英語が上手に使いこなせる能力と適性をもっている、と。 そして続けて、TOEIC の点が高いことと実務英語を習得したこととは違う、と言っている。

先に出てきた、私とエスペラントでやりとりをした オーストラリア人は「TOEIC は百害あって一利なし、 少なくとも TOEIC は英語の試験ではない」 と物凄い悪罵を投げ付けている。

私自身は、もう TOEIC は受ける気がしない。ただ、ある人の英語の力を評価するために、 TOEIC の点数のみで計る、というのは絶対にあり得ないことである。

まとめでは、「コミュニケーション力」の認識と英語武装に関しての関連が述べられている。 英語はコミュニケーション力と関係はあるかもしれない。しかし、コミュニケーション力は 英語力だけではない。仮に英語力がコミュニケーション力の大部分を占めると仮定したとしても、 英語力とはいかなるものかは、その企業の性格や組織風土に依存する。 そして、組織が、人物がもっている英語の能力をどのように評価するか、 それを決めることがとりもなおさず英語を活かす道であろう。その結果、英語を捨てる、 当分は英語と付き合わない、外部の英語屋さんを使う、その他の選択肢がいろいろある。 その結果できめればいいことだ。

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