南四龍旧下水処理施設・屋外
時刻2150時
「…初めてのケースだわ。あれ、新種の浮遊生物だと思う。」
乗ってきた箱バンの荷台に座って、持参した魔法瓶からコーヒーを飲みながら、和衣が呻いた。
とりあえず、ヒステリー状態の和衣を落ち着かせるために、施設の建物から出てきたのである。
和衣はまだ少々青い顔をしているが、既にいつもの落ち着きを取り戻していた。
「もう、平気か?」
「ええ、大丈夫。…ありがとう。お礼は言っておく。」
和衣は小さい声で呟いた。
漂平が狭い荷台に乗り込んできた。ギギイと車体が沈み込む。
「で?」
「あいつは、汚水だまりの中に潜んでいたために、サビや汚物が付着してしまったらしいのよ。それで、身体の輪郭が見えるようになっていた。あれは、その…あれは…そう、ハッキリ言って、アレに似てたわ。」
「全然、ハッキリ言ってないみたいだがね。」
「ああ、分かったわよ、言えばいいんでしょ、ムカデよ、ヤスデよ、ゲジゲジよ!!」
おぞましい生物名称を口にして、和衣は身体を小さくした。
「長い生物だったわ、とりあえず。それから、私の横をすり抜けていった時に、足らしきものが。そう、足がワシャワシャと私の脇腹をこすっていったのよ。」
「さっき、退出しがけに拾ってきた物があるんだが…見せても平気か?」
和衣は深呼吸をして、うなずいた。
「いいわよ。見せて。」
漂平がボトンと荷台においた半透明な物体を見た途端に、また和衣の血の気が引いた。
サビと汚泥だらけで、長さが30センチ近くあり、断面は楕円形。
剛毛が生えた肉節があり、側面には先がばらけた筆のような形をしたイボ足が左右対になって生えていた。
まがいようもなく、巨大な水棲環形動物の体節…であった。
車内灯に照らされて、まだ微かにびくびくと動いている。
「やっこさん、体のパーツを落っことしていったらしい。…おいおい、平気か?」
「わ、私…だめなのよ、足が6本以上ある生き物は!!特にこういう長い形の奴は。」
和衣はまたも目に見えて震えていた。
「…昔、ムカデに顔の上を横断されたことがあるの。縁側に干してる布団の上で昼寝してて。顔中、何カ所も噛まれて救急病院に運ばれた。毒の強い種類じゃなかったのが幸いだったけど、顔は三日間、腫れあがってたわ。顔の上を横切ったのよ、何百本という足が!」
「もう、縁で干してる布団のうえで昼寝しないことだな。」
「…義弟と釣りに行った時のことよ。餌箱から脱走したゴカイがサンドイッチの中に入り込んでた。知らずに私はサンドイッチに噛みついた。」
「もう、釣りには…って…それは…うむ…相当、運が悪かったな…」
「口の中であいつが動いたのよ!噛んじゃったのよ!?」
「まあ、落ち着け。」
「これが落ち着いていられる?!空飛ぶ巨大なゴカイだなんて!ああああ」
和衣は抱えた膝に頭を埋めてしまった。
「なあ、あんた、降りるか?」
唐突に漂平が尋ねた。
「!」
和衣はガバと顔を上げ、目を剥いた。
「なんですって?」
「この件は、俺が後を引き継ごう。あんたはウチに帰って…」
和衣が遮った。
「ウチに帰れですって!?よくもそんな事言えるわね!横からしゃしゃり出てきたワーウルフハンターのあんたが後を引き継ぐですって?」
突然、和衣にピンとくるものがあった。
「ねえ、はっきり言って。あんたがこの狩猟に割り込んできたのは…みんな、うちの祖父が仕組んだことなんでしょう?違う?」
漂平は困ったように眉を動かした。嘘は苦手らしい。
和衣は両足を荷台の床に投げ出した。
「ああ、もう、やっぱり!そんなこったろうと思ったわ。何か理由がなくちゃ、ワーウルフハンターが、報酬額の低い浮遊生物ハントなんかに乗り出してくるわけないものね。」
「…佐木枕の爺さんには、何度か免許違反を握りつぶしてもらってるんで、断りきれなくてな。いらんお世話だろうとは思ったが、あんたの護衛役を引き受けることになった。」
「最低ね、うちの祖父。ホント。大きなお世話だわ。自分の面倒は自分で見られるってのに。」
和衣は舌打ちをした。
「それに、護衛じゃなくて、監視報告でしょ?私が猟に失敗したっていう報告が入るのを、祖父は今か今かと待ってるんだわ。」
「爺さん、あんたの身を心配してるだけだと思うがね。なにせ、今回の目標はデカイ、臭いというので話題になってる奴だからな。」
「祖父は、私にはハントは無理だっていいたいのよ。私が一度でも失敗したら、親族会議を招集して、これを機にハンターをやめろってやいやい言い出すに違いないわ。
祖父は、私が祖父の薦める男を婿養子にもらって、子供の二、三人でも産んで、佐木枕家の保守安泰に勤めるようにしたい…と、こういうことなのよ。」
「へえ。名家の娘ともなると、色々、大変だな。」
和衣は醒めた目で男を眺め、肩をすくめた。
「どおりで、あんたの名前に聞き覚えがあると思ったわ。あんたが有名なハンターだから知ってたんじゃなく、祖父自身の口から聞いたことがあったんだわ、きっと。義弟の口から聞いたのかも知れない。…あんた、当然、うちの義弟のこと、知ってるわよね?」
「ああ。」
「あの子…ヨシミツ、元気にしてる?うまくやってる?」
「四日前に一緒に飯食ったよ。すこぶる元気そうだった。」
(誰にシバかれたもんだか、生傷だらけだったが…)と言う台詞を漂平は飲み込んだ。
これ以上、彼女の悩み事を増やす事もあるまい。
実際、ヨシミツの奴、えらく嬉しそうだったのだ。
「で、どうする、降りるか?仕事から降りるのは、別にどうってこたない。俺なんざ、自慢じゃないが、敵前逃亡って奴を二度やった。嫌なもんは無理するな。実際に奴に関わるのが嫌なら、猟の指示だけしてくれても構わん。そうしてくれれば、俺は助かるが。」
和衣は唇を噛みしめた。
正直言って、降りたかった。
浮遊する巨大ゴカイのハントなど、お断りだ。
親族会議など召集されても無視してやればいい。
だが、ここで降りたら、「それ見たことか」と、祖父は大喜びだろう。
和衣は今回の猟を降りることで、自分が己の弱点に負けることになるのが嫌だった。
祖父のお気に入りらしい梅崎漂平のポイントを増やしてやることになるのが嫌だった。
そうだ、漂平はきっと祖父のお気に入りハンターなのだろう。
なんせ、孫娘の護衛と監視に選んで、わざわざ南四龍くんだりまで、よこすくらいなのだから。
そう考えていたら、和衣の頭にピンときた。
(なるほど。どこが気に入ったのかわからないけど、この風呂嫌いの大男が、祖父が選んだ私の婿候補ってわけね。今回は顔合わせでもさせたつもり?禿げたお見合いキューピッドってわけ?バカみたい、どうかしてるわ。梅崎も、祖父なんかに目をつけられてお気の毒様。)
だんだん事のあらましが判ってくると、和衣はますます腹が立ってきた。
(なんでも思い通りになると思ったら大間違いよ、クソジジイ。自分の旦那くらい自分で見つけるわ。)
「負けてなるもんですか!あんなジジイの馬鹿げた陰謀に!!」
思わず、口に出してしまったらしい。
漂平がニヤリと笑った。
「よくわからんが、佐木枕家の人間関係は相当複雑らしいな。」
「あんたもそれに巻き込まれかけてるのよ、わからなかったの、この馬鹿。」
漂平は訳がわからず、ぽかんとした。
和衣は捕虫網の柄を握りしめた。
「いいわ、捕まえてやろうじゃないの、あれを。」
荷台から降りたつ。
むんずと薄気味悪い物体を片手でつかむや、呆気にとられて見ている梅崎漂平の前で、コンクリートにたたきつけ一気に踏みつぶした。
ゴカイ…正確にはゴカイの形をした浮遊生物…の切れっ端は空気に溶け込むように消えて見えなくなった。
「梅崎?」
「ああ?」
「狩猟はこのまま続行。あんたは私の指示に従うこと。」
佐木枕和衣…猟友会副会長、佐木枕一重(サキマクラ・カズシゲ)のたった独りの孫娘…柳原義満の義姉でもある…は、きっぱりと言い放った。
(次回・第五回・「ハンターの本領」)
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