南南四龍旧下水処理施設・一角
0231日 時刻1800時
漂平と和衣は再び、昨夜、目標を閉じこめた施設前にいた。
日はもうじきに沈む。どこか見えないところで、何か季節はずれの虫が鳴いている。
和衣は手にした磁力捕虫網…これで奴を捕まえる…を点検した。
漂平の方は腰につり下げたムチの柄にはめ込まれたダイヤルを、手袋をはめた大きな手でいじっていた。
「梅崎、準備はいい?さあ、始めるわよ。」
「何をすりゃいいのか教えてくれ。」
和衣は男を睨み付けたが、別に相手が皮肉で言ったのではないと判断して、ちょっと口調を和らげて言った。
「夕べと同じ手順でやるわ。とにかく目標を見つけださなきゃ話にならない。見つけたら、発信器をつけて位置がわかるようにする。後はネットでとっつかまえるだけよ。」
「あいつは俺達に向かってくるようなことはないのか?ずっと隠れてる?」
「梅崎、あんた、浮遊生物に関しては素人だと言ったわね。あいつらについて、どのくらい知っている?」
「たいして。ハンター免許本にちらっと出てたのを読んだことがあるくらいだな。」
「例えば?」
「浮遊生物、別称はエクトプラズム。空中を浮遊移動し、実体はあるが、視覚確認できない場合が多い生物だ。世間じゃ幽霊なんぞと呼ばれてるが、別に霊魂ってわけじゃなく、ワーウルフと同じように、月光力の影響で変異したと思われる生物の一種。特に人間・家畜に実際的に害をなすものではないが、中には体液を吸ったり、人の精神状態を乱す危険な種類も存在する。捕獲するには特殊な磁力ネットでくるんで動きをとめる…こんなとこでどうだ?」
和衣はちょっと肩をすくめた。
「そんなもんね。ハント仕事で実務上必要な知識として補足させてもらう点は、昨夜も言ったとおり、奴らには匂いがあることが多い、発光することもあるってこと。」
さらに続ける。
「嫌光性があるわ。明かりを嫌がるの。日中は動けなくなるのよ。それから嗅覚が優れている場合が多い。特定の何かに引きつけられることもあるわ。浮遊生物同志、集まりたがる傾向もある。群れたがるのよ。」
「ふむ。視覚確認できる場合はどんな風に見える?」
「大抵、燐光を発するの。それが人の顔に似ていることが多いわ。狐や犬、鶏に見えるときもある。蛇だったというケースが10年前に3件報告されているけど、それっきり。」
「へえ…。まさに幽霊だな。そんなもんに、夜出くわしたら、たまらん。なあ、恐かないか?」
和衣は軽蔑したように、ジロリと漂平を見た。
「別に。恐い物なんてないわ。浮遊生物なんて、ただの飛んでる透明な生き物よ。」
「外見に例外はないのか?例えば…その、人面ではなく虫だとか。」
「今だかつてそういう虫形態の個体は報告されてないわ。魚なんかも報告なし。狩猟結果報告例の99パーセントがほ乳類形態よ。でも、どうして?」
「なんとなく、な。昨夜、俺の脇を通っていったんだが、なんというか、ゴキブリが飛んでいったような感じだったんでな。ま…良かったよ、俺は虫は嫌いなんでな。」
ふうんと和衣は、あまり気にも留めず、うなずいた。
「飛んでるゴキブリだったら、スリッパでたたき落とすわ。それより、あんた、そのムチで奴を捕まえるつもりなの?」
「ああ。追加オプションをセットしてきた。うまく相手に巻き付かせることが出来れば、あんたのそのネットと同じ効果を持つはずだ。それから、まだ試作品段階だが、こいつを使うつもりだ。」
漂平がバシンと手を打ち合わせると、黒い粉が飛び散った。
「磁力グラブ?どっから借りてきたのよ、そんなもの。あいつら、すばしっこいのよ。空間を少しすり抜けて移動することもあるから、動きを読むには経験が必要だわ。手でつかむのは無理だと思うけど。」
「なんにせよ、まあ、やってみるさ。」
「ふうん。」
和衣と漂平は乗ってきた箱バンの荷台から、強力な設置用ライトを何台か降ろした。
手元のリモコンスイッチで照明のオンオフ、照射角度などが調節できるものだ。
二人は、破れたシャッター穴をふさいでいた鉄板をどかして、施設内をのぞき込んだ。
まだ日は落ちきっていないので、高い天窓や、破れた壁の隙間から、西日がうっすらと差し込んで、建物の中を薄暗い明かりで照らしている。バスケットのコートなら10面ほどはすっぽりと入る広さだった。
和衣が施設見取り図をめくった。
「ここは試験的廃水処理が行われていた実験棟らしいわ。だから、あんまり広くない。」
「これでも広くないってか?」
もともとは下水処理施設だった建物内部は、淀んだ廃水や汚泥が底にたまったままの巨大な処理漕やパイプ、タンクで床面が埋め尽くされていた。
その処理漕の上を碁盤目状に、大人独りが歩ける幅の細いキャットウォークと太さの様々なパイプラインが何層にも渡って、張りめぐらされている。
「ミニチュアの九龍区域みたいね。」
二人は、かなりサビつき金属腐敗が進んだ通路の上を慎重に歩き、和衣の判断に従い、建物の内周に沿って点々と設置用ライトを配置した。
目標に発信器をとりつけるなりして、位置が補足できるようになったら、このライトを使って、施設内を照明する予定である。
目標の動作を鈍らせるためと、自分たちの安全のためである。
奴を追いかけて、足を踏み外し、汚水みなぎる暗い処理漕に落っこちるのは願い下げだからだ。
ライトを配置し終え、入り口のシャッターを中から閉じた時、日が落ちた。
微かに窓から差し込む月光をのぞけば、他に光は入らない。真っ暗だ。
ピチャン。ピチョン。
あちらこちらでしたたる水の音が、急に喧しく感じられ始めた。
「…しかし、かなり匂うわね。」
和衣が鼻をしかめた。
「ああ、建物自体がこう臭くっちゃ、奴の存在に気づきにくい。」
「本当。もうなんだか慣れてきちゃって困る。鼻はあまりあてにしないで探さないと。あいつ、ホタルイカみたいな緑色の燐光を発しているっていったわよね。それに注意しましょう。」
二人はバラバラに探索を開始した。
和衣が南側、漂平が北側担当である。
赤色ライトで周囲を照らしながら、耳を澄ませて慎重に、浮遊生物の存在を探る。
かなり時間が過ぎて、和衣は焦り始めた。
見つからないのだ。この建物の中にいることは確かなのだが。
自分と反対側の方に目をやると、闇のなかでちらちらと赤い点が頼りなげに動いているのが見えた。
漂平の赤色ライトの灯りである。
「あの男もまだ見つけられないみたいね。」
発見した場合、発信器を打ち込んでから、トランシーバーで連絡をとる手はずになっている。
(どうか目標が、こっちにいますように。)
なんとなく、和衣はあの男よりも先に浮遊生物を見つけたかった。
なんといっても自分は浮遊生物の専門家なのだ。
和衣は気合い新たに、探索を再開した。
「そういえば、私、上ばかり気にしていたわ。浮遊生物だからって飛んでばかりいるとは限らないし。」
和衣は一段下の通路に降りてみることにした。
「どうして、全部、水を抜いちゃわないのかしらね、まったく…」
手摺りからちょっと身を乗り出し、浅い水たまりの中に何気なくライトを向けた和衣の血は、そこに見た物に凍った。
「キャーアアアアアアアア」
工場内にたまぎるような悲鳴が響き渡り、漂平はライトを取り落としそうになった。
和衣の悲鳴と激しい靴音が、広い施設内の天井やタンクやらに反射し、妖怪の叫び声のようにエコーしはじめた。
「どうしたどうした?」
「キャーッ!イヤアアアアアアアアーッ!!」
「なんだなんだ?!」
慌ててキャットウォークの上を、声のする方に引き返していた漂平の方に、和衣がオリンピック選手も真っ青な勢いで走ってきた。
そのまま避ける間もない漂平の胸に、和衣は飛び込んだ。
いや、飛び込むと言うよりも、凄まじく加速のついたタックルのようなものだった。
咄嗟に腕を広げて、重心を前にかけ、相手を受け止める体制をととのえた漂平でなければ、もろとも手摺りを越え、下の汚水漕に転落していただろう。
二人の代わりに、和衣のライトが汚水漕に転がり落ちていった。
漂平は太い腕でがっしりと女をキャッチした。
「イイヤーイヤイヤイヤッ!!」
和衣は漂平のシャツを捻るように握りしめ、しがみついてくる。
突然の役得だ。
「おいおい、和衣、落ち着け。何があった?恐いものでもいたか?」
「あー、足!足!足ッ!」
「足?」
「あいつ、長くて、足がいっぱいあったのよ!あああ、最低!」
叫ぶなり、何も見たくないというように、顔を漂平の胸に埋めてしまった。
ライトをつけようとした漂平は、自分がもうそれを持っていないことに気が付いた。
漂平のライトも、どこか汚水の中に沈んでしまっていた。
ぶるぶる震える和衣の肩を無骨に叩いて慰めながら、暗闇の中で漂平は大きく溜め息を付いた。
「足か。そうじゃなけりゃいいと思ってた。」
(次回・第四回・「そんなこったろうと思ったわ」)
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