第1部:USオープン
第4章 死闘とアガシ(The Agony And The Agassi)


サンプラスにはかつて−−そして今なお−−病気や怪我、あるいは試合後半の疲労困憊に陥りやすい歴史があった。時には巌ほど堅固に見えるとの名声を得るアスリートとしては、困惑するような問題である。だが1993年と94年、フロリダ州タンパに住むフィットネスの権威、パット・エチェベリーの助力を得て、 ガリクソンはそれを是正するべく努めていた。

大会と大会の間、サンプラスがハーネス(引き具)を付けて、白砂のビーチバレー・コートを走っているのが目撃された。もう片端はエチェベリーが握り、吠えたり怒鳴ったりしていた。苦しみながら歩を進め、シューズが砂に埋まるにつれて、頑丈な身体のライバルたちが謳歌するフィットネスに、サンプラスは近づいているようだった。たとえば、同じくエチェベリーとトレーニングしているクーリエに。あるいは、主に体力ゆえクレーの王者となっているトーマス・ムスターに。

シン・スプリント(脛の炎症・疼痛)と肩の問題は、かつてはサンプラスにとり、持病のようなものだった。1994年半ばまでには、それらは最小限になり、同時にサンプラスの才能は最大限まで拡大した。サンプラスはオーストラリアン・オープンとウインブルドンのタイトルを獲得し、過去4つのグランドスラムの内3つを得ていた。ATPツアーの獲得ポイントでは、途轍もないリードを楽しんだ。

ウインブルドン決勝でゴラン・イワニセビッチを破った1週間後、サンプラスはオランダへ向かっていた。デビスカップのため、ハードコートでオランダと対戦する事になっていたのだ。ヨーロッパ・クレーで打ちまくり、滑る事から、イギリスの芝生での滑りやすい課題までを経た後で、突然より固いサーフェスの衝撃を受けるのは、負担が大きすぎるとサンプラスは知った。オランダを去る時、彼の左足首は重篤な腱炎に冒されていた。

結果として、サンプラスが「失われた夏」と呼ぶ時期が続いた。秋の始まりに、彼はオープンに戻った。タイトル防衛の決意は固かったが、現実的には、ただサバイバルを試みるために。最善を望みつつも、最悪を半ば予想していた。そしてそうなった。それはハイメ・イサガという名前の男によってもたらされた。ペルー出身の愉快な男、もし彼が自分のゲームをする事を許されるなら、プレーの足枷となる。それは、相手が退屈、苛立ち、あるいは疲労困憊により諦めるまで、無慮何千億のボールを打ち返すゲームだ。

1994年ウインブルドンから94年USオープンまでの間に、サンプラスは4大会連続で出場を取り止めた。シンシナティとインディアナポリスの権威あるハードコート大会も含まれていた。中西部の真夏の暑さは地獄のようだが、フラッシングメドウが提供しうるあらゆるものに向けて、選手は準備する事になる。過酷な一連の期間である。しかし必要なもので、少なくとも簡略化されたバージョンではある。

サンプラスはその時期、タンパで家に居た。トレーニング不足を補うためにエクササイズ・バイクを漕いだ。しかし彼の心肺機能は日ごとに下がっていった。そして、足首が良い感じになるにつれ、痛みが戻ってきた。 オープンが始まるほんの2日前、MRI(断層撮影)はカルシウムの沈着を示していた。サンプラスは炎症止めの注射を受けた。翌日、彼はエドバーグと2時間、ガリクソンと45分練習をした。

足首は強ばっていた。

彼の決意もまた。

「足首、あるいは失った時間に対する緊急の治療法などないよ」と彼は言った。「そして、それについて話す理由もね。できる事で最善を尽くすだけだ。今はプレーする時だ」

テニス界、そして気付こうとする者たちには、サンプラスについて知りうる思った以上の好機だったのだ。彼のテニスの名声が急速に増すと同時に、彼は恐らくプロテニスを駄目にしているという非難の声もあった。サンプラスには問題があるという一致した見解が生まれていたのだ。彼は良すぎた。コート上でもオフコートでも。

ああ、彼には実際に個性があるという奇妙な噂があった。彼のスピーチには辛辣さがあるとの事だった。かつてのピートは常に感じが良い訳ではなかった。彼はそれなりの仲間といると、四文字の悪い言葉が飛び交った。彼はこの言葉に、特別な好みがあるようだった。1つのセンテンスに2〜3回それを使うのが得意だった。トルーマン的な「上手い」悪態つき。

第2の故郷となったタンパ周辺では、彼は時にけちんぼだという声が漏れ聞こえた。チップが少ないとの陰口があった。彼にはくだけた服装をする習癖があり、レジャー用替え上着が適切であるような時に、少しばかりカジュアルすぎる出で立ちで現れる事があった。そしてデレイナ、事もあろうに年上の恋人がいた。ある者たちには恥ずべき事で、またある者たちには刺激的であった。

だが、ああ、それだけだった。うろたえるような内容、あるいはゴシップ的な事は何もなかった。デレイナに関してはゴシップになる可能性があったが、その関係が持続するにつれて、語るべき事は殆どないように思われた。

サンプラスのごく普通の人柄は、記事のネタにはならなかった。彼が対戦相手を打ち負かす、そのやり方も。この反発の多くは、ウインブルドンで始まった。1993年のタイトル獲得途上、彼は芝生のサーフェスを、 現代のゲームにとっては馬鹿げたもののように思わせた。ロンドンのタブロイド紙は、そのサーブが多くのグラスコート・ラリーの可能性を失わしめた、ロスコー・タナー、フィル・デント、ケビン・カレンといったビッグ・ヒッターの思い出はあからさまに忘れた顔をし、彼の才能には皮相な見解を下した。

サンプラスはタブロイドの見出しに「 Samprazzz 」と書かれた。イギリス人ときたら。もちろん、アメリカの記者たちは早い時期に、すなわち91年USオープンの後、彼のイメージにダメージを与えていた。

だが少なくとも、その非難には真実があるように思われた。

それ以降、サンプラスは素晴らしい男であり、さらに偉大なチャンピオンであるという事を示す以外、何もしてこなかった。概して、それでは充分ではなかったのだ。彼には本質を明らかにする時を必要とした。それまでは、まったくの純粋な優秀さだけでは、人の心を打たなかった。

それをどう考えるべきか。90年代という時代のせいにするか。アガシと彼の「イメージがすべて」という人物像、あるいはディオン・サンダースにでも責任を負わせるか。あるいはデニス・ロッドマン、派手派手のスケープゴート、平凡のアンチテーゼに。

1994年9月7日、ハイメ・イサガ−−彼に祝福を−−との3時間34分は、有意義に働いた時であった。

*     *     *

サンプラスは足が使えなくとも、かなりタフであった。そして彼がそれなりに楽に最初の2ラウンドをくぐり抜けると、本来の状態で彼のプレーができるように見えた。実際は、USオープンは NBA ではないという事である。82ゲームの内には、惰性で走ったり、ゆっくり走ったり、ついには一晩じゅう疾走したりする事も可能だ。7回のテニスの試合は? 非常に異なっている。もし最初からフルスピードでないなら、USオープンで勝ち上がる事はありそうもない−−実質的には不可能である。スケジュール、観客、ハードコート、そして時には暑さが、他のいかなる大会よりも選手を弱らせるのだ。

グラスコートは−−恐らく、並み以下のフィットネスでも、速いポイントによって誤魔化しのきく唯一のサーフェスである。しかしニューヨークのぎらぎらする光の下では、体調が充分でない時に次から次へとボールを打つ事を強いられると、選手は剥き出しにされる。もしくは、少なくとも部分的には。

サンプラスの免れがたい不自由なステップは、3回戦でイサガと同じく厄介な相手に対して現れた。しかし異なったスタイルで。

ロジャー・スミスは1980年代終わりに、唯一の対戦である予選ラウンドでサンプラスを負かしていた。スミスのゲームには、誰をもまごつかせる要素がある。彼は堅実なテニスと、奇妙で風変わりな危険性とを混ぜる。彼はチップ&チャージも無難にこなすし、効果的なラリーをする事もできる。サービスもかなりいい。その多様さは、しばしサンプラスの脆さを明らかにした。しかしサンプラスが4セットで勝利した後は、一時的な「玉に瑕」にすぎないと、きれいに忘れられてしまった

この試合はまた、サンプラスの新しいステータスを強調した。彼は(ロッド)レーバーの再来と見なされ始めていた。その中では、ちょっとした問題でも重大だと考えられた。対戦相手の才能とは関係なく。サンプラスはより高みへと到達していたのだ。もしロジャー・スミスに1セット取る事ができたなら、他の誰かは確かに2セット取る事もできるだろう。そして、そう、3セットも。なぜなら、明らかにサンプラスは健康でなかったからだ。

「ちょっとだるい感じがしただけだ」とサンプラスは言い、足首は大丈夫で、無名選手に対してこのように苦労するのは避けたいと思っていた、と付け加えた。だが、それが助けとなった筈はない。なぜなら「オープンへ向かうに際し、僕は望んでいるような準備ができなかった」からだ。

しかも言うまでもなく、イサガはオープンでサンプラスに対し、勝利を収めた事があった。1988年、サンプラスが初めて出場したオープンの1回戦で、イサガは彼をノックアウトし、驚くべき格闘のライバル関係は始まった。彼らは全部で4試合を分けていた。バックコートからのカウンターパンチャーであるイサガは、なぜかサンプラスによくかみ合っているようだった。信じがたい事か? まあ、平凡ではあるが堅実なキャリアの様々な段階で、イサガは誰とでも上手く かみ合う才覚を身につけてきたのだ。

今回、イサガはそれ以上の、ずっと上の事を成した。サンプラスを第5セットまで引きずり込み、5-2のリードを奪ったのだ。

最初、サンプラスの体調がよくないと気付き、イサガは敏捷に始めた。そして第5セットでは、サンプラスがポイント間に呼吸を整えようと努力するのを見るにつれて、彼の自信は増大していった。

その時点で、運命が介入した。最後の45分間で、サンプラスは敗北しはしたが、以前よりもさらに確固たるチャンピオンになったのだ。

そう、彼は負けた。だから何だというのか? 男子ツアーの面々にサンプラスを恐れる理由があるなら、それはその午後に目撃したものであった。足には水ぶくれができ、足首は痛み、背中は痙攣を起こし、口は喘ぐように開かれていた。それでも彼は、最終セットの第12ゲームまで持ちこたえた。イサガは試合を終わらせるために、不意をつくようなクロスのバックハンド・リターンでもてなさなければならなかった。サンプラスはネット際でよろめいた。彼の成した事に気付くには、あまりにも疲れていた。結局のところ、彼は負けた。

テニスは勝利していた。特別な何かが起こっていた。なぜサンプラスが個性(personality)に欠けるのか、今、意味を成した。彼はあまりにも気骨(character)に満ちていたのだ。

それは引き続き試合後にも示された。サンプラスは試合後の記者会見に現れなかった。彼は具合が悪いため、そもそも現れないかもしれないという噂が広がった。イサガは記者会見場に入り、手短かに話をした。そして胃痙攣のため去った。

サンプラスの代わりに、医師団が USTA によって召喚された。彼らはサンプラスの状態について、長々しい、滑稽なほどの説明をした。医師団は、質問に次ぐ質問に返答し、ますます専門的になっていき、単調に話し続けた。「これは何なんだ、ケネディ暗殺の記者会見か?」1人の記者が囁いた。「もしこれが続くなら、『*コナリー知事が撃たれたのか?』と大声で喚き回るよ」
訳注:ジョン・ボウデン・コナリー。1963年のケネディ大統領暗殺事件時、車に同乗し、銃弾で負傷したテキサス州知事。

注意深く聞かねばならなかった。もしそうすれば、ニュースなるものを聞けた。サンプラスは疲れ果て、脱水状態だった。それだけだった。それが全てだった。

彼は記者会見場に向かう途上だった。ティム・ガリクソンに促されたのだろう。サンプラスは中に入って座り、そして礼儀正しく、弁解はせずに理由だけを語った。彼が優勝すると誰もが期待した大会から去る理由だけを。

「いろいろな事がいわば僕を襲い、そして僕には何も残っていなかった」とサンプラスは言った。「第3セットで、ポイント間の回復がだんだん遅れてきていると感じていた。両足がずきずき痛む。全身が痛い。今のところ、いい体調ではないようだ。恐らく今日は、今までに試合をした中で最も調子が悪かったかもしれない」

「僕に続けさせたのは、まあ、僕の矜持だ。彼が僕を倒そうとしているのなら、最後までやり通させたかったんだ。途中で棄権する事は考えもしなかった。棄権して、彼に勝利を得させないつもりはなかった」

イサガはまた、歴史におけるポジションを得ていた。確かに補足的なものである。しかし何事かではあった。試合後の記者会見から急いで去る前に、イサガは思慮深い話をしていた。既にそれは充分に理解され始めていた。

「彼は決して諦めなかった」とイサガは語った。「彼を祝するよ。明らかに彼は気分がよくなかった。だが、それが彼をチャンピオンにするものだ。彼は最後まで戦い続けたんだ」

サンプラスはニューヨークに居続けはしなかった。彼はアンドレ・アガシがタイトルへ向かって突進するのを見逃した。多かれ少なかれ、大会を去る前にそれを予測してはいたが。

イサガとの試合後半、空っぽの状態のまま走り続けていると納得した後は、観客に応えて、アドレナリンの力で走った。

「僕には何も残っていなかった」とサンプラスは言った。「みんなが僕を後押ししてくれたのは、嬉しかった」

*     *     *
<続く>

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