アメリカ版TENNIS
1995年9月号
取り逃がしそうになったマジック
文:Mike Lupica





電話が鳴ったのは、昨年のUSオープン2週目の火曜日、午後5時頃だった。その日はオフの予定だった。休みを取るのにちょうど良さそうだったのだ。唯一の興味深い試合はピート・サンプラス対ハイメ・イサガ戦であったが、サンプラスが負ける筈のない試合だった。そこで私は3人の息子と出かけ、夏の終わりの休日を楽しんでいた。1日じゅうテレビやラジオには近づかなかった。その後、自宅のオフィスに入ると電話が鳴っていた。契約している新聞からのものだった。

編集者が言った。「私達は1時間、あなたと連絡を取ろうとしていたのよ」
私は彼女に外出中であったと言った。
「どうだい?」
「サンプラスが負けるかもしれない」
「サンプラスはハイメ・イサガに負ける訳がない」
「テレビをつけて」

私はそうした。サンプラスは足を引きずっており、明らかに苦痛を抱えていた。そして第5セット2-5とイサガにダウンしていた。彼が負けるとは思われなかった試合---そしてUSオープンで。

「もし彼が負けるなら、あなたに何か書いてもらう必要があるわ」
私は受話器を置き、メモを取りながら試合の最後まで観た。サンプラスの何が思わしくないのかハッキリしなかった。私はクイーンズのUSTA 国立テニスセンターから約1時間の所にある、コネチカットの町に住んでいる。交通渋滞はない。

試合後、オフィスからすぐに電話があった。イサガが第5セット7-5で勝利したのだ。テレビでは、サンプラスは介添えなしではコートを去る事ができないかのようだった。

サンプラスが会場と1994年USオープンから去る前に、車でフラッシング・メドウに到着できるかどうかやってみると伝えた。たとえ遅く始めるにしても、この種の仕事には最高の日である。

午後6時頃、テニスセンターに向けて出発した。車には電話があった。私はCBSテレビのオフィスに電話し続けた。そこはUSオープンのたびに自分のオフィスとして利用しているのだ。誰かが私に、サンプラスはコートから出るとすぐに、隣のオフィスで倒れ込んだと伝えた。イサガは既にインタビュー・ルームにいた。

折り返し電話をし、マリー・カリロを捕まえた。彼女はテレビで働く最高のテニス・アナリストであり、最高のレポーターでもある。1時間かそこら前に電話を受け、今Merritt Parkwayを、デビッド・レッターマンのスピード記録を破る勢いでそちらへ向かっていると、彼女に事情を話した。

カリロは「もしあなたが間に合うなら、ヴィタスがあなたに話をできると思うわ」と言った。

彼女は故ヴィタス・ゲルレイティスの事を話していたのだ。彼は私の20年来の友人で、カリロとはポートワシントン・テニスアカデミー以来の、生涯の友人だった。ヴィタスは同じくCBSの仕事をしていたが、去年のオープンでついにテレビスターとなったのだ。

「ヴィタスは何をしていたの?」
「彼は試合が終わった時からずっとピートと一緒よ。彼はあなたに全てを話せるわ」とマリーが言った。

「もしヴィタスが会場を去ろうとするなら、捕まえといてくれ」
私は7時11分にスタジアム真向かいの駐車場に車を乗り入れ、CBS放送トラックの隣に着けた。私がその時刻を覚えているのは、それが私にとって幸運を意味しているよう願ったからだ。
私は幸運だった。
車から飛び降りた時、トラックの真向かいには栗色の送迎車があった。車に近づくと、集まった人々からの拍手喝采が聞こえてきた。ティム&トム・ガリクソンは既に乗車しており、ゲルレイティスは---神よ、彼の魂の安らかならん事を---サンプラス、去り行くチャンピオンが車に乗るのに手を貸していた。

送迎車はインフィニティで、No. 17と脇に書いてあった。ティム・ガリクソンはサンプラスのコーチである。その年が終わる前に、彼は脳腫瘍と診断される。彼は病に倒れ、ヴィタスは亡くなる。ニューヨークのサウサンプトンにある友人の別荘で、ひどい一酸化炭素中毒の事故で亡くなるのだ。スポーツ界には夜と昼のような思い出がある。様々な理由で、全て良い思い出とばかりはいかないのだ。ティム・ガリクソンはフロントシートに座り、彼の兄弟のトム、サンプラスのデビスカップ監督は後部に座っていた。
ヴィタスはサンプラスを出入り口まで連れてきて、それから彼を1人で行かせた。チャンピオンにはルールがある。敗れた時にも。傷付いている時でさえも。それでサンプラスは、フェンダーに手を付いて身体を支え、助けなしで車の後ろ側を回ってきた。それはUSオープンで、サンプラスについて彼のハート以外の全てが作動しなくなった日であった。車は走り去った。オープン第2週の火曜日、午後7時15分頃だった。ゲルレイティスとカリロは大統領席の入口近くに立ち、車を見送った。

「あんな足は見た事がない」ゲルレイティスは静かに言った。「足の裏は全て皮膚がむけていて、内側の真皮がむき出しになっていた」

オープン出場にあたり、サンプラスは足首の具合が悪く、44日間テニスをしていなかった。そして世界23位のタフで小柄なストローカー、イサガとの5セットで、サンプラスはただ衰弱したのだ。彼の背中は硬直し、終わりまでには左側全体がケイレンを起こしていた。そして彼の足は皮がむけていた。

そしてサンプラスは試合を投げなかった。

イサガは彼を3-6、6-3、4-6、7-6、7-5で破った。試合が終わった時、ティム・ガリクソンとゲルレイティスはコートから約50フィートの所にある審判員のオフィスに、サンプラスを連れていった。そして彼のために床にタオルを敷いた。サンプラスはソックスと靴を脱ぎ、オフィスの床に横たわった。そして人々は彼と彼のコーチ、友人だけにした。ガリクソンがタオルを巻いて枕を作っている間、ヴィタスは彼の頭を支えていた。1つの部屋の中に溢れる慈愛。

「彼は私の友人だ」とヴィタスは後に言った。その言葉は何よりも全てを説明していた。

サンプラスの気分がかなり回復した後、ガリクソンは彼をロッカールームに連れていった。数分後、 ゲルレイティスは審判員のオフィスからサンプラスのラケットを集めてロッカールームまで運び、サンプラスのロッカーに置いてきた。

「ラケットを運ぶ者を必要とし、私はただ競技者だった日々があった」と、ゲルレイティスはその日私に語った。「今日、私はチャンピオンのラケットを運んだ」

ヴィタスはそれを特別な事としなかった。そして今、それは私が彼について思い出す最良の意思表示の1つとなるだろう。それは彼を何よりも物語っているからだ。彼が儲けた全ての金、あるいは後の人生で抱えたドラッグの問題、全ての車や大邸宅、大試合よりも。

サンプラスが自分でそれをできなかった日に、サンプラスのためにロッカールームにラケットを運ぶ事。

その夜7時20分頃、ナイトマッチの席が埋まり始め、ヴィタスはスタジアムコート裏の廊下で壁に寄りかかっていた。今ヴィタスは自分のラケットを持っていた。彼はベテラン・ダブルスに出場しており、その夜グランドスタンド2番目の試合に予定されていた。私はノートを取り出し、彼はここに書き記してきた細部について話し始めていた。カリロは彼と一緒にいて、友人に微笑みかけていた。彼らが10代の時から、彼女はそうしてきた。ヴィタスの名前が出るたびに、彼女は今後もそうするだろう。

「それでとにかく」ヴィタスは言う。「ガリーと私は彼を審判員のオフィスに連れていった……」
私は彼を止める。「どっちのガリー?」と尋ねる。

私はペンを構え、ヴィタスが手助けしてくれているこのコラムに、もう1つのメモを書き取ろうとする。
ヴィタスはちょっと思案する。
「どっちのガリー、ヴィタス?」私は繰り返す。
ヴィタスは眉をひそめている。

ついに彼は言う。「どっちがピートのコーチで、どっちがデビスカップ監督?」
カリロは笑い始める。「それが目下の問題よ」

その日の終わり、我々全員は廊下で笑う。ヴィタスがいる場所は、どこでも大体そんな感じだった。サンプラスはこの試合に負け、連覇のチャンスを失った。しかしその日、彼は何らかの形で人々の称賛を勝ち取ったのだ。彼が試合を投げなかったから。今、彼のオープンは去り、送迎車は会場から去った。そしてヴィタスは練習へ向かう途中であった。彼は40歳で、彼の先には全てがあった。かつてテニスでそうだったように。

彼は夜の中へ歩み去った。ニヤッと笑い、我々にあてつけて呟きながら。
「ティムは彼のコーチ、トムは彼の監督。ティムは彼のコーチ、トムは彼の監督……」

もう1つ笑いを取ったか確かめるため、彼は肩越しに振り返った。それが彼に会った最後の時の1つであった。彼はチャンピオンのラケットを運んだ日に、自分のラケットを運ぶ。思い出は面白い。物事の成り行きは面白い。ヴィタスが物語になる予定はなかった。全くもって彼の日になる事にはなっていなかったのだ。


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