スポーツ・イラストレイテッド
1995年12月11日号
ピーター大帝
文:Leigh Montville


ロシアを破った合衆国のデビスカップ優勝は
「星条旗とサンプラス永遠なれ」であった

ピート・サンプラスの英雄伝説の限界は、アンドレイ・チェスノコフ戦の最初の30分で明らかになった。それはモスクワ室内オリンピック・スタジアムで、先週の金曜日の午後に行われた。

会場では拡声装置を通して、英語で観客に協力が求められた。「選手への配慮として、携帯電話の電源を切ってください」

テニス界1位の選手は、イデオロギーのドラゴン・スレイヤー(竜殺し)となるには、あまりにも遅れて現れたのだ。観客は皆、ブローカーと話をしていた。

事実は事実。これは携帯電話による資本主義の表れであった。

10、20、30年前、少なくとも6年前までだったら、今年のデビスカップ決勝でロシアに対し、合衆国を3-2の勝利に導いたサンプラスの先週末の行為は、冷戦時代の1980年合衆国オリンピック・ホッケーチームの栄光と同じくらい、高く評価されただろう。彼は国産の、自由競争システムとアップルパイの美徳の良き証人だったであろう。

その代わりに、彼はただ勇敢な戦士でしかなかった。途中で投げ出す事を拒否し、チェスノコフと3時間38分戦って5セットの勝利を収め、最後は引きずられてコートを去った。

ケイレンを起こし傷ついていたが、それでも翌日にはトッド・マーチンと組んだダブルスで勝利し、さらに次の日にはロシア最高の選手、21歳のエフゲニー・カフェルニコフを6-2、6-4、7-6で下し、ほぼ無敵の男となった。

スポーツファンの大統領リチャード・ニクソンも、60年代あるいは70年代ならニンマリしたのではないか? ロナルド・レーガンも、80年代のスター・ウォーズ時代なら、このような勝利に対し、すぐにホワイトハウスに招待しただろう。

しかしハンマーと鎌が消えてから久しい。そして現在、セクシーな二重スパイの娘たちは、鉢植えの陰に隠されたマイクロフィルムを探すかわりに、コカコーラとウオツカの無料サンプルを配る。緊張緩和は世界的には良い事かもしれない。しかしスポーツのドラマから鋭さを奪ってきた。
訳注:セクシーな二重スパイとは、マタハリの事と思われる。

「今は、我々はみんな同じだと思う」と合衆国監督のトム・ガリクソンは語った。「我々はみんな、同じドルを求めているのだ」

サンプラスは今年、他のいかなる選手よりそのドルを獲得してきた。しかし彼はそもそも、決勝戦の重要なファクターになるとは考えられてさえいなかった。ロシアチームがクレーを選んだ段階で、彼はガリクソンに、遅いサーフェスにより適したゲームを持つアンドレ・アガシとジム・クーリエがシングルスに出場する事を提案していた。

サンプラスはマーチンと組んで、ダブルスだけに出るはずだった。しかしながら、アガシは9月下旬のデビスカップ準決勝・スウェーデン戦で傷めた胸筋が治りきらず、計画は変更された。サンプラスはシングルスに移り、ダブルスでマーチンとチームを組むため、リッチー・レネバーグが呼ばれた。

「これはチームの戦いだ」とサンプラスは語った。「とにかく可能な限り最良の方法で、3勝する事。僕はトムに、彼が望む事は何でもすると話したんだ」

ロシアチームは、クレーは彼らの大きな味方になると判断していた。昨年、彼らはホスト国として決勝でスウェーデンと戦ったが、ハードコートで4-1で負けていた。今年は世界6位のカフェルニコフと、クレー・スペシャリストのチェスノコフをシングルスに持ってきた。

彼らは1980年オリンピックのために作られた、巨大なスタジアムの床半分に土を盛った。それは効果があった。遅いテニスは良かった。より遅いテニスはもっと良かった。対ドイツの準決勝前夜には、コートを重くするために水をまきすぎ、プレーを不可能にしたかどで、国際テニス連盟が25,000ドルの罰金を科したほどだった。

審判はコートを乾燥させるよう命じた。しかし唯一の利用可能な乾燥機は、隣のオリンピック・ペンタ・ホテルから借りてきた6つのヘアドライヤーであった。ヘアドライヤーの延長コードはなく、コンセントも2つしかなく、コート上では愉快でノロノロした混乱が続いた。チェスノコフがミハエル・シュティッヒを5セットのマラソンで下し、ロシアは3-2で勝利した。

サンプラスが入り、アガシが抜けた―――彼はベンチに座って声援するために来はしたが―――事は、ロシアにとって良いニュースだと見なされた。アメリカチームはダブルスを「見捨て」、大きい心配事はクーリエだけだとカフェルニコフは語った。

おやまあ。「なぜ彼がそういう事を言うのか分からない」とガリクソンは語った。彼の双子の兄弟ティムは脳腫瘍と闘っているが、サンプラスの長年のコーチである。「彼らにはピートが分かっていないんだろう。私なら1対1のテニス、2対2、3対3、どんなサーフェスでも自分の側に彼をもってくるだろう。ゴルフでも彼を連れていくだろう」

サンプラスのグランド・ランは始まり、そしてチェスノコフを破ったところで終わりそうになった。3-6、6-4、6-4、6-7、6-4での勝利の最終ポイント後に倒れた時、サンプラスは長い間再びプレーできないかも知れないかのように見えたのだ。

彼はアメリカチームの2人のトレーナーに両腕を抱えられ、引きずられてコートを去った。あたかも雪の日にバーモントの小屋に向かう四輪駆動の車のように、彼の爪先はクレーの上に跡をつけた。

ガリクソンは、こんな事は一度も見た事がないと言った。そのシーンを思い出し、彼の目はうるんだ。もしチェスノコフの最後のショットがネットにかからなかったら、どうなっていたのだろうか? サンプラスはもう1ポイント、プレーできたのだろうか?

「彼は感情を見せないから、皆が彼を見くびる」とガリクソンは語った。「しかしこんな試合の後に、どうやったら彼の情熱あるいは勇気を疑う事ができる?」

驚くべき事に、サンプラスは30分後に記者会見に現れ、大丈夫だと言った。彼の身体はただケイレンを起こしていた。左腿のつけ根と右膝後ろの腱が、同時にケイレンを起こしたのだ。マッサージと筋肉をリラックスさせる治療で、彼は快復した。 どれくらい?

第2試合でクーリエがカフェルニコフに7-6、7-5、6-3のスコアで負けたため、アメリカチームは困難な状況にあったが、24時間も経たないうちにサンプラスはマーチンの横に立ち、対カフェルニコフ/アンドレイ・オルホフスキーのダブルスで、7-5、6-4、6-3の勝利を収めた。その勝利で、アメリカは優勝まであと1勝となった。

「彼がダブルスをプレーできるかどうか、試合のおよそ1時間前まで分からなかった」と、ガリクソンは語った。「彼の身体は強ばっていたが、やれると言った。それで我々はメンバーを変更したのだ。もしチームに世界最高の選手がいて、プレーできるなら、おそらく彼を使うだろう。私は彼に自分の白いシャツを2枚与え、そして白のショートパンツをホテルに取りにやらせなければならなかった。すべてはそれほどギリギリの時点で決まったからだ」

サンプラスが日曜日に現れ、まだ強ばりを感じると言った時、 ガリクソンは「そりゃ結構」と言った。そしてサンプラスは「いままでの人生で最高のクレー試合」と呼んだプレーをした。通常ビッグヒッターは彼ら特有の性急さで、クレーではうまく行かないものだが、彼はカフェルニコフを慎重に攻め、打ち破ったのだ。

彼の打つショットは、カフェルニコフのとは異なる響きを立てさえした。ロシア人の柔らかいパシッという音に対し、より強烈なバシッという音だった。カフェルニコフさえも相違を認めた。


「最初の2セット間、ピートがフレッシュで疲れていなかった時には、彼のサーブは完璧だった。第3セットで彼のサーブは少し落ちてきたが、それでも僕はコート上に彼を引きとめられなかった。それがプランだったんだが―――コート上に彼を長くいさせる事が」

ガリクソンは語った。「最初の2セットは、いままで見た彼のプレーの中でも最高のものだった。エラーもほとんどしなかった」

ロシアの観衆は―――立ち見席だけでも毎日平均13,000人だったが―――結果にあまり煩わされなかったようだ。愛国的労働者が群がる古いロシアではなかった。これは旧体制の党集会というより、ラスベガスのボクシング観戦により近い、社交的な集まりであった。

女性は髪染めリンスとピンクの口紅を用いなくなり、男性は身体に合わないスーツをもはや身につけていなかった。観客はアルマーニを身につけ、お抱え運転手つきのメルセデスベンツを外に待たせる人種だった。政治家、ドルを稼ぐ企業家、ギャング、ボディガードが同じ場所を歩き回っていた。

資本主義が押し寄せた事は、そこらかしこに見て取れた。「VIP席」、セット間に演奏されるロックミュージックから、来たる選挙で議会の支配権維持を望む「Our Home Is Russia」政党に署名するスポンサーまで。彼らは大イベントの観衆で、クレムリンでダイアナ・ロスのショーを見たり、今週モスクワのファッション・ショーでクラウディア・シェファーが香水を売るのを見るであろう群衆と、何ら違いはなかった。

「もし6年前に今の状態を予想されたら、『有り得ない』と言っただろう」と、ロシアの雑誌「Tennis Plus」のコラムニスト、ユーリ・Zakharyouは語った。「しかし今は? これは予想されたと言うよ。これが人生さ」

それはサンプラスにとっても同様である。「この週末の出来事は、どこでだって同じだよ」と彼は言った。「赤の広場を訪れ、レーニン廟を見た事を除けば、ここでの僕の過ごし方は、ホテルの部屋でルームサービスを頼むか、あるいはコートにいただけさ」

噂によれば、サンプラスは3日間の仕事で25,000ドル受け取ったそうだが、今週ミュンヘンで開催されるグランドスラム・カップ出場が予定されていた。そこでは、少なくとも1試合すれば10万ドルを保証されている。もし優勝すれば、100万ドル以上を持ち帰る事ができる。カフェルニコフもまた、多くの金を儲けにミュンヘンへ行く予定になっていた。ハンマーはなし。鎌はなし。なんの違いもない。

最後の記者会見の終わりに、1人のロシア人テレビ・ジャーナリストが「銀のトロフィーと共に」と、ガリクソンに金魚の入った鉢をプレゼントした。ジャーナリストは魚が幸運のお守りであると説明し、ガリクソンとチームの全員に、願い事をするよう言った。

サンプラスは健康と「多分100万ドルを勝ち取る事」を願ったと言った。他の選手達もそれぞれ願い事をした。ガリクソンは魚とジャーナリストを見て微笑んだ。
「タルタルソースかな?」


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