テニス・ウィーク
1995年12月21日号
アメリカの即位
文:Bud Collins



「大地は動いたのか?」
ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』からよく引用される台詞は、ロバート・ジョーダンが口にした質問だ。故国から、そして彼の本分から遠く離れた勇敢なアメリカ人が、初めてのあいびきで感じた地面が揺れ動くような忘我の境地について、スペイン人の恋人へ尋ねた言葉である。

スペイン戦争における軍人の勇敢さをテニス選手のそれと比較する事は、当を得ないだろう。ピート・サンプラスもまた不適切な地域にいたが、ジョーダンが小説の中でしたように、僚友と大儀のために命を投げ出しはしなかった。それでも3日の間、通常は敵意あるヨーロッパの大地は彼のために動き、彼の勇敢で苛酷な偉業に道を譲ったように見えた。

それはデビスカップ優勝の危機に、敵地においてアメリカ人が成したどの功績にも並ぶものである。少なくともスタン・スミスが23年前にブカレストでルーマニアを下すために挙げた3勝以来。

ピーター大帝は、あるいはロシア史で最も立派な人物であり、成功者・革新者・戦士で、1725年まで43年間にわたり国を統治したが、その彼も現在のピート大帝(「僕をピーターと呼ばないでくれ」)を称賛したかも知れない。

彼の治世は3日間だけではあったが。しかし恐らく、赤の広場近くの墓所でガラスケースに収められた故・同志レーニンはきりきり舞いさせただろう。

この街ではレーニン(彼の青い水玉のネクタイは粋だが)とクレーコートほど機能していないものはなかった。このコートはアメリカ人の死体を(レーニンのように)防腐処理するため、特別にあつらえたのだが。

しかしサンプラスは全く予想していなかった3連戦で、アンドレイ・チェスノコフ、次にエフゲニー・カフェルニコフ、その間にトッド・マーチンと共にアンドレイ・オルホフスキー/カフェルニコフを彼のトロイカで追い立てた。

ピートはトム・ガリクソン監督の軍団にとって、3重の切り札であった。合衆国がそんな風に1人に依存するのは、スタン・スミス、ジョン・マッケンロー以来なかった事だった。彼の3勝はまさに充分であった。

「 triple-threat―――3重の脅威(切り札)」という表現は、専門化する以前の、より個人技が重視された時代におけるフットボールの偉人たちに当てはまるものであった。ランニング、パス、パント共に優れていた Sammy Baugh のようなバックスに使われた表現である。テニスにおける「 tripler 」とは、ピートがしたようにシングルスとダブルス両方に勝つ事で、デビスカップでは価値を重んじられる。大いなる何でも屋、マーチンの頼りになるアシストも見過ごせない。

この偉業によりピート・サンプラスは突如、デビスカップにおける合衆国の主役となった。それ以前の3年間、世界1位の男はより荒っぽい分野、もしくはスマートなATPコンピュータの及ばぬ世界では、そこそこの結果を挙げるだけの予測できない男でしかなかったのだ。

サンプラスは、その後「僕は子供の頃、デビスカップについて考えた事がなかった。ジュニアの頃も、それについて知ってさえいなかった」と語ったが、オリンピック・スタジアムと呼ばれるモスクワの騒々しくだだっ広い建物で大地を揺るがした時、まさにドワイト・デイビスの銀の安ピカ物とのロマンスを始めたのかも知れない。彼が3-2の勝利で合衆国を31回目の優勝に牽引する間、彼のショットメイキングと闘争心から生み出されるぞくぞくするような恐怖は、すべてのロシア人を圧倒した。選手も後援者も。

「僕は本当に打ち込んだんだ」と彼は振り返って語った。「巨大な群衆、騒音と国旗、他のいかなるテニスとも全く違った。僕は他の人々のためにプレーしていた。コーチのティム(ガリクソン)、トム(ガリクソン)、そしてチームメイト………自国のために。勝利は僕の肩にかかり、そしてそれが好ましかった」

彼は1991年の散々な洗礼をよく乗り越えてきていた。あの年、「不安と観客に圧倒された」騒々しいリヨンで、彼はアンリ・ルコントとギー・フォルジェに敗戦を喫し、フランスは3勝1敗の勝利を挙げたのだった。モスクワまでピートは国家主義的な大騒ぎにはとりたてて熱意を示さず、シングルスは9勝5敗という、偉大な選手としては並みとさえ言いがたい成績であった。

「僕はジョン・マッケンローのように、可能な限りいつでもデビスカップのためにプレーしようとはしなかった。93年オーストラリアに負けた時のように、プレーしなかった時には多くの非難を浴びた。しかし僕は自分自身のスケジュールをより考慮していたんだ」

うすら寒い、雪の散らつく12月の初日、42,000席もあるコンクリート製峡谷の中で、2段のバルコニーのある、コートを囲むカーテンで仕切られた区域に16,000人の熱狂的で騒々しい国民が詰めかけるにつれて、その気持ちは変化したようだった。コートとレーニンはともかくも、私の乗った英国航空の飛行機がモスクワに降り立った時、死んだような雰囲気はいささかもなかった。

アメリカとロシアがテニスにおいて初めてぶつかり合うという事で、数日の間かつての冷戦時代の競争意識がよみがえっていた。10〜50米ドルの(ここでは米ドルは重要な現金なのだ)チケットは何週間も前に売り切れ、民衆はアメリカ合衆国を打ち負かす事を渇望していた―――何についてであれ。

レフェリーのステファン・フランソンは、ぬかるみ男チェスノコフを助けるためコートを水浸しにしたりはしていないと請け合った。準決勝ではそれをやって足元をドロドロにし、ドイツを唖然とさせる事に役立ったのだが。チェスノコフのチャーミングなコーチ、タチアナ・ナウムコは、びしょびしょな状態に関して責任があったのだが、微笑んでそのすべてを否定した。「屋根に雨漏りがあったに違いないわ」

しかし内部にあるクレーの長方形の存在は、政府支持者にとってはサンプラスを動転させるに足る意地悪な罠だと思われた。彼らはピートが1995年、クレーではカモ(5勝5敗)だったと知っていた。ローマとパリではファブリス・サントーロとジルベール・シャラーとかいう奴に1回戦で負け、そして彼はいま(ウィンブルドンの)センターコートやフラッシングメドウとは異なる世界、彼の1位の順位もサハラ砂漠における水泳の金メダルと同じくらいの意味しかない、セピア色の土で仕掛けたスピードの罠にいるのだと知っていた。

観客は手練手管を備えた不死身のロシア熊チェスノコフを彼らの代理人として、サンプラスに襲いかかろうとしていた。その男はエリツィン大統領から名誉の叙勲を受けていた。通常メダルは軍人の英雄のためにあるが、ミハエル・シュティッヒに対して9つのマッチポイントをしのぐという非現実的なまでの離れわざを演じ、圧倒的優位と見なされていたドイツを3-2で潰滅させた後、それはチェシーのものとなった。

彼らはアメリカ人が倒れるのを見たいと望んでいた。そしてピートはドラマチックにその願いをいれた。おそらく彼らの啓発には1〜2秒遅すぎたが。血気盛んなチェスノコフにとっても同様に。勝利の握りこぶしを振り上げた刹那、彼は突如としてケイレンにより倒れ込んだのだった。

彼の脚は………くずおれ(going)、―――そして突然、彼は連れ去られた(gone)。グッタリした戦士はトレーナー達によって更衣室に運ばれていった。それは二重の意味において途方もないノックアウトであった。 3-6、6-4、6-3、6-7(5)、6-4という5セットの勝利がサンプラスに行き、5連戦における1-0リードを合衆国に与えさえしなければ。

「多分………もし僕があの最後のショットを返せていたなら」と最高に気高いロシア人、チェスノコフは語った。彼はシリーズ最年長の29歳で、1983年から母国のためにプレーしてきて、全身でもって奮闘したのだ。「多分………でも僕は返せなかった」

3時間40分の厳粛な闘いが最後から2番目のポイント、すなわち5-4、40-15サンプラス・サービングを迎えるまでの展開の間、チェシー応援団は彼がしがみついているよう切望していた。あたかもサンプラスがタイタニック号の救命ボートであるかのように。9月にはもう1人のウィンブルドン・チャンピオン、ミハエル・シュティッヒに対してそうやり、沈没させたのだ。サンプラスはチェスノコフのバックにサーブを打ってネットに突進したが、バックハンドのボレーを失敗した。

どよめき、角笛、叩き棒(バゲットのような膨らんだプラスチックのチューブで、2本を打ち鳴らすと錫の鍋のような音を立てた)が屋根まで響き渡った。赤・白・青の国旗が狂ったように翻った。ロシア・バージョン、そして比較的少数のアメリカ応援団のもの双方が。彼らは星のスパンコールをつけた帽子を被り、バージニア州Renee Rucker of Gladysの疲れを知らない角笛吹き、銀髪のガブリエラに鼓舞されていた。

チェシーは再現するのか? シュティッヒを断固として阻んだ頂点における1ゲームは果たして存在するのか? 20分、24ポイント、9回のデュースをかけて、第5セット第14ゲームはドイツから離れ、準決勝の勝利はチェスノコフとロシアへと向かった。繰り返し繰り返し、ドイツで行われたであろう合衆国との決勝戦へもう1ストロークまで、シュティッヒは漕ぎ着けた。

9連続マッチポイント:チェシーはすべてをはねつけた。ロシア軍が1941年にモスクワ郊外でドイツ軍を止めた時ほど猛烈ではないとしても、少なくとも同じくらい決定的に。サンプラスと全く同じくバックハンド・ボレーをミスし、シュティッヒの苦しみは始まった。前兆?

いま、サンプラス2回目のマッチポイント、目を見張るようなラリー、ピートは相手の弱点をつき、チェシーは信じがたい返球で対抗し、ひたすら打ち合う。それはサンプラスのスマッシュで終わるかに見えた―――しかし疾走するロシア人はそれを素晴らしいロブに変え、そして22番目のストロークへと進んだ。サンプラスにとってイチかバチかのショットはアウトになった。

ケイレンは第5セット3-3頃から始まり、ピートはそれを乗り越えなければならないと承知していた。―――「もっと攻撃的になるんだ!」チェンジオーバーの際、ガリクソン監督がせきたてた。彼はネットをかすめるフォアハンドを放って最後の突進をし、そしてチェシーは走る、走る………なんとかボールに届く………触れる………しかしピートのコートの中に返す事は不可能だった。

「もし彼が………僕には分からない。僕は自分の中にもう1ショットがあったとは思わないよ」とピストル・ピートは振り返った。彼の弾倉は空っぽだった。試合は終わり、そして彼もそうであった。「いままでコート上で、こんな妙な感覚を経験した事はなかった。右膝後ろの腱と左股つけ根のケイレン。僕の脚はコントロールを失い、次の瞬間には僕は引きずられていた」

チェスノコフが握手すべき相手を探している時、チームドクターのジョージ・ファリード博士とトレーナーのボブ・ラッソはピートを引き受け、治療のために彼を移動させていた。ピートの脚は彼を見捨てたが、彼のハートは見捨てなかった。

「それがデビスカップだ」と彼は言った。あのようにすべてを絞り出す事を経験した者なら誰でも納得できる声明であった。「感情的、そして肉体的な奮闘と極度の疲労、集中力をかき乱す観衆………もう1ポイントをプレーできたかどうかは全く分からない。僕はもっと早く勝つべきだった」

まさにその通り。彼はチェスノコフとしっかりベースライン・ラリーをし、第4セットの4-2、40-15では断固としてネットに詰めていた。ダブルフォールトがタイブレークにまでもつれ込むきっかけとなり、彼のゆっくりした歩きに奇妙なタイム・バイオレーションが取られた。タイブレークでは1-5から5-5―――勝利まで2ポイント―――までスパートをかけ、そしてダブルフォールトでそれを取り逃がした。

第5セットでケイレンが彼を襲い、チェスノコフと群衆が強まってきたが、ピートは4回のデュースを切り抜け、ブレークポイントを逃れて3-3とした。最後の一押しに対して気構えをしっかりと持ち、3-4から彼は連続して10ポイントを勝ち取った。そしてホーム(ロシア)を困惑させた。

合衆国に1ポイントが入った。しかしこれは94年スウェーデン戦の再来となるのだろうか? なんとかマグナス・ラーソンは倒したものの、サンプラスの脚の怪我で、合衆国の2-0リードが無に帰したのを覚えているだろうか? 3日目、無分別にも彼はステファン・エドバーグと対戦しようとし、あっさりと途中棄権した。勇気はあるが徒労だった。ラーソンはトッド・マーチンを倒し、そしてスウェーデンはモスクワへと向かい、カップを勝ち取った。サーフェスは通常ATPツアーのクレムリン・カップに使われる高速のカーペットだった。

1年前は貧しくて、カーペット切り裂き人のエドバーグに対してより遅いコートを用意できなかったが、 現在ARTA (全ロシア・テニス協会)には、スポンサーからの後援金がどっさりある。かくして大地は本当に動いたのだった。何トンもの土が各々7万ドルを費やしてスウェーデンから運ばれ、ドイツ、そしてアメリカに対し、危険で油断のならない土地で冒険を仕掛けた。

ホームコート・アドバンテージのための即席工事は、なんら目新しいものではない。アメリカ合衆国は、決勝戦のためにずっと芝生を用意してきた(決勝戦の内20回)後、1964年クリーブランドではオーストラリア、つまりロイ・エマーソンとフレッド・ストールを封じるためにクレーコートを作った。それは効果がなかったが。その後、1969年と1970年には同様のつぎはぎを高速ハードコートに変えて、ルーマニア(イリー・ナスターゼ、イオン・ティリアク)とドイツ(ウィリー Bungert、クリスチャン Kuhnke)のクレー巧者を成功裏に片づけた。

1990年には突如としてクレーの才能が横溢し(アンドレ・アガシ、マイケル・チャン)、セイント・ピーターズバーグのサンドーム内においてクレーコートでプレーする事にし、合衆国はオーストラリア最高の攻撃的プレーヤー、パトリック・キャッシュをシングルスのラインナップから外させ、やすやすと優勝した。

このホームコートの土壌は、サンプラスが2マイル離れたボリショイ劇場にいるミハイル・バリシニコフの向こうを張るには、適切なステージではなかった。実際、我々のヒーローは、初日で徐々に衰えていき、むしろ最愛の演目「瀕死の白鳥」を踊る地元の史上最高バレリーナ、アンナ・パブロワのようだった。しかしパブロワは常に生き返った。そしてセンセーショナルなアンコールに向けて、ピートもまた然りであった。

「僕はスウェーデンでのように怪我をした訳じゃない」アイシングをし、ケイレンを和らげるために水分を補給した後、彼は言った。「僕はまたプレーするだろう」

どれくらいすぐにかは、ほとんど誰も推測できなかった。しかしジム・クーリエはタイブレークでの不振に苦しみ、カフェルニコフが第1セットを勝ち取る事で自信を膨れ上がらせてしまった。その後、好調な21歳の金髪の若者は伸び伸びとくつろぎ、彼の輝かしいショットメイキングはジムを快適な領域から遠ざけ、7-6(1)、7-5、6-3の勝利で初日を分けた。

それは、ガリクソン監督が言うには、中日のダブルスを「重大な」ものにした。そしてアメリカチームにはデビスカップに慣れたコンビがおらず、一方カフェルニコフとオルホフスキーは5勝2敗の戦績である事を考えると、彼の心配を相当なものにした。

今季を通したデビスカップの筋書きを振り返ると、ピートがカップを取りにいったという事が、どれほどありそうもなかったか分かるだろう。アンドレ・アガシはコートサイドに頼りなげな見物人として顔見せしていたが、シングルスの一翼を受け持つ事になっていた。しかし、スウェーデンを破った準決勝でマッツ・ビランデルを負かした時に胸筋を痛め、戦列から外れた。

彼は12月までにプレーする準備ができていたのか? 「ノー」と言うアンドレだけが知っている。チームメイトは懐疑的であった。論理的な代役とは何か? 冷静で、プレッシャーを無効にするマイケル・チャンが挙げられる。彼は招集された時はいつでも猛烈に競い、1990年にはクレーでカップを勝ち取った。他のいかなるプロスポーツでも、可能な限りの手助けを得ようとするものだ―――手のあいているピッチャー、クォーターバック、ポイントガード。
誰でも。

そうだろうか? ノーとガリクソン監督は言う。「私はここまで私を連れてきてくれた男たちと一緒にやる」監督の誠実さは「皆にとても称賛されている」とサンプラスは言った。「僕たちも同じように感じている」

尊敬すべきチャンは、どのように再編成から漏れたのか?「我々は最初の2試合(フランスとイタリア)をプレーするよう彼に呼びかけた。そして彼はそれを断ったのだ」とガリクソンは語った。「翌年は変わるかも知れない。明らかに、マイケルはチームにいてほしい男だ」

チャンの陣営は必ずしも同じ見方をしていない。イタリア戦の前、彼の意向を聞く事なくアメリカ・テニス協会会長レズ・シュナイダーが「最後までピート、アンドレと共に」という協定を作り上げた時、マイケルは置き去りにされたように感じた。明らかにシュナイダーは、モスクワの泥沼での乱闘よりも、ドイツにおける高速レーンの決勝戦を想定していた。しかしながら、ピートの離れわざはすべてを空疎なものにした。

しかしガリクソンは語った。「我々がベガスでスウェーデンを負かし、そしてロシアがドイツに予想外の勝利を挙げた後、シングルスの最有力候補はアンドレとジム・クーリエだと考えていた。私はピートに話をし、彼がダブルスをプレーするためだけにモスクワへ行ってくれるか尋ねた。彼は考えなければならないだろうと言ったが、『何のためであろうと、僕はあなたのプレーヤーだ』と戻ってきてくれた」

「僕はガリーをとがめられなかった」とサンプラスは1日の特別出演を厭わずに言った。「客観的に言って、僕もクレーならおそらくアンドレとジムを選ぶだろう」

ガリクソンは言った。「オーケー、アンドレは抜ける。そうなると当然シングルスにピートだ。彼はクレーで、今年の結果より良いプレーができる事を私は知っている」

初日である金曜日の夜になり、サンプラスは膝裏の腱に痛みを抱えていたが、ガリクソンに言った。「もしあなたが望むなら、僕はダブルスをするよ。必要な事はなんでも」

「一晩寝て考え、明日の朝に話そう」それがガリクソンの答えだった。前もって発表されたチーム(この場合はリッチー・レネバーグとマーチン)を期限である午後1時の1時間前までに変更するのは、監督の権限である。マーチンとレネバーグを起用するという事は、負けを承知しているのだとロシアチームが発言した事を不愉快に感じていたが、ガリクソンもまた、彼らは正しいかも知れないと承知していた。そして彼は試合を勝ち取らなければならなかった。

「我々はダブルス(に負けた事)でカップを失った」とカフェルニコフが後の記者会見で語った事も、また正しかった。

通常ダブルスはエリートには無視されており、ケン・フラック/ロブ・セグソ、リック・リーチ/ジム・ピューの時代以降は、合衆国にとって賭のようなものであった(勝敗結果は、1992年の最後のカップ以降4勝4敗)。

「我々は全員で話し合った」とガリクソンは言った。「レネバーグは素晴らしいチーム・プレーヤーで、自分のエゴを入れず、とにかく最も強いペアを選ぶよう私に勧めてくれた。

私は2人のビッグサーバー、トッドとピートが望ましいと決定した。しかし彼らが土曜日の朝にヒッティングをするまで私は待った。ピートの身体は強ばっていたが、ダブルスを戦えると言った。12時30分に彼らの名前を発表した」

「初め僕はとても緊張していた。そして多分ピートの身体がほぐれるまで、僕は意気込みすぎてしまったんだろう」とマーチンは語った。彼はいきなりブレークされてしまったのだ。にも関わらず、このそびえ立つ控えめな6フィート6インチの相方は、かつてなく丈高く立ちはだかった。彼はアガシの代理としてトーマス・エンクウィストを倒し、準決勝勝利を確定したのだが、それは合衆国にとって、代役がきわめて重大な試合に勝った初めての事だった。

トッドは間もなく左コートから両手バックのリターンを容赦なく放つようになり、落ち着いた。ピートのリターンは唸りを上げ始め、彼らのボレーは優れていた。彼らの爆発力はロシア・ペアの経験を上回り、ピートとトッドは7-5、6-4、6-3の勝利で、重大な先行ポイントをもたらした。

カフェルニコフがダブルフォールトし、次にボレーをふかしてアメリカチームが4-4に追いついた。サンプラスはエースでブレークポイントを退け、6-5とした。カフェルニコフは、再びダブルフォールトを犯した後、セットポイントでマーチンのリターンにやられ、沈みがちで無力になっていった。

「トッドは腹部の筋肉を痛めていたが、重要なサービスゲームではそれを忘れた」とガリクソンは褒め称えた。それは第2セットで見られた。マーチンは15-40からサーブを叩き込んで5-4としたが、その内2本はエースだった。

3幕物の一人芝居の主役という役割は、2週間前には考えてもみなかっただろうが、カフェルニコフに対して6-2、6-4、7-6(4)という、ピートの無傷の優勝決定試合で終わった。彼は「デビスカップ、カップが多分僕の肩にかかっているという状況を考えても、これはクレーでの僕のベストの試合だった」と試合を評した。

全くその通り。

彼はいつもより攻撃的な心構えで臨んだ―――「ヨーロッパのクレーで勝ちにいくなら、僕はそうしなければならない」。彼のサーブはマンモス級で(16本のエース、15回のサービスゲームで各3本のサービスウィナー)、フォアハンドは殺人的だった:ダウン・ザ・ライン、クロスコート、インサイド・アウト(19本のウィナー)。カフェルニコフはピートのサービスゲームでは第1セットで2ポイント、第2セットで5ポイントしか取れず、第3セット第2ゲームでようやく5つのブレークポイントを掴んだ。しかし何もできなかった。

「ピートは疲れてきていた」と彼は言った。「もし僕があの第3セットを取れていたら、どうなっていただろう?」と。ピートは同意した。「彼に取らせるわけにはいかなかった」―――そして取らせなかった。サンプラスは56.8パーセントの確率でサーブを叩き込み、111 獲得ポイントの内64本がウィナーだった。

これはウィンブルドンの滑らかなサンプラスだった。急回転するタッチボレー、エレガントなランニング・フォアハンド、厄介なスマッシュとサーブ。同時に泥を蹴散らすピカ一の伊達男でもあった。充分に辛抱強く、バックコートからペースとスピンを絶妙に組み合わせてフォアハンドを叩くところまで持っていき、そしてネットに突進した。

1982年フランスでジョン・マッケンローが2つのシングルスとダブルス(ピーター・フレミングと)に勝ち、5-0で優勝して以来、決勝で3勝したアメリカ人はいなかった。そればかりか、1人による3勝がすべてのポイントだった例も、デビスカップの歴史で10回しか記録されていない。1931年のアンリ・コシェが最初で、フランスが3-2でイギリスに勝利した。1972年のスミスが5番目で、ルーマニアに3-2、1981年のマッケンローが9番目で、アルゼンチンに3-1、サンプラスが10番目であった。

2人は気が合う(充分にではないが)。しかし3人では勝利する仲間割れ、そしてピート大帝はコサックの群のように押し寄せ、そのつなぎ目を一掃した。
訳注:原文は「Two's company (but not enough). Three's a winning crowd,」リーダーズ英和辞典には、Two is company, three is none [a crowd]. 《諺》 2 人は気が合うが3人では仲間割れ 《しばしば 短縮して Two's company. という》とあり、ここから来ているのかな?とも思いますが、意味がよく分かりません。

ドワイト・デイビスはハーバード大学の裕福な学生で、1900年に褒美を提供したが、彼は多数の国が参加して、カップの勝者が大地に広がる事を夢見た。

始まりはイギリスと合衆国で、1995年には参加国は115カ国にまで増えた。ああ、カップを勝ち取った事のある国はたった9カ国だ。そしてロシアは待たなければならない。

デイビスの立派な才能である釣り合いの取れた見方をすれば、合衆国の31回目の優勝よりロシアの躍進的な勝利の方が望ましいストーリーで、問題を抱えた新しい民主主義国家を勇気づけた事だろう。勝利のシャンパンが満たされた事もあるカップから、エリツィン大統領は彼のチームと共にウオトカをがぶ飲みする事もできたであろう。

彼らには残念だが、ピート大帝は自身の夢にのみ興味を持ち、ふらつきつつも厭わずに、大地を自分と自軍のために動かしたのだ。


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1995年12月?日号
ピーター大帝


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