アメリカ版テニス
1995年8月号
なぜ僕はベストショットを手放したか
文:Pete Sampras、プレイング・エディター
  Alexander McNab


ゲームの仕方を変える時は、将来に目を向けよう


14歳の頃、僕は小さくて痩せっぽっちで、こつこつ励むベースライン・プレーヤーだった。バックハンドは両手打ちで、とにかく一生懸命にやり、マイケル・チャンのような感じでプレーしていた。

しかし僕は上達しなかった。そこでコーチのピート・フィッシャーは「片手打ちバックハンドにトライしよう」と提案した。

当時でさえ彼の目標は、いつか僕がウィンブルドンで優勝する事だったのだ。14歳の僕にとっては、ただの夢物語でしかなかったが。ピートは僕をサーブ&ボレーヤーにしたがっていたのだ。

彼の持論は「両手打ちで、ウィンブルドンに優勝できるほどいいボレーをした選手はいない」というものだった(ジミー・コナーズは主にベースラインからのプレーで優勝し、ボルグのボレーは片手だった)。

ステファン・エドバーグもジュニア時代に両手から片手に変えたが、彼の両手打ちは良くなかった。僕の両手打ちは良かっただけでなく、僕のベストショットだったのだ。ベストショットを手放すというのは、苛立たしく、物議を醸すものであり、冒険的でもあった。実際には変えただけの価値はあったわけだが。

僕の経験は、発達途上の選手やその両親・コーチに、もしくは伸び悩んでいる選手にさえ、有益な事例を提供するだろう。


長い目で考えよう

ピートが変更を提案した当時、僕のサーブは弱く、ボレーもできず、スライスも打てなかった。僕の体格は小さかったので、片手打ちをするほどの力強さもなかった。しかし目的は、とにかく大人のゲームを身につけ始める事だった。

挫折感に備えよう

僕が片手打ちで臨んだ最初の大会は「イースター・ボール」だった。僕は1回戦で負け、敗者復活戦でも1回戦で負けた。その後2カ月間、僕は新しいショットを練習した。最初は楽しかったが、試合は練習とは違った。僕の片手打ちはひどいもので、スライスしかできず、そのスライスも大して良くなかった。僕はなんのストロークも持たない、情けない状態だった。

その後の約2年間は、まさに悪戦苦闘だった。ほとんど試合に勝てず、自信も失っていった。つらい出発で、僕のランキングはどんどん落ちていった。しかしピートはいつも僕に言い聞かせた。「いま取り組んでいる事は、君が20歳になった時、その真価が分かるんだよ」と。僕も心の奥では、彼は正しい事を言っているのだと分かっていた。

負ける事に悩むのはやめよう

片手打ちに変えるとともに、僕のゲームのやり方もスッカリ変わった。14歳でサーブ&ボレーをやり始めたのだ―――チビの子供が、大きな大人のゲームを。それはピートの全体的な理念だった。ある試合の前に、彼が僕に言い聞かせた事を覚えている。「君はおそらく負けるだろうが、それでもファースト・セカンドサーブ両方ともサーブ&ボレーをやってほしい」

負けるだろうと初めから知るのは、つらい事だった。しかしピートは、試合に勝つよりも、僕がオールコート・ゲームのやり方を習得し、サーブ&ボレーを上達させる方を重視した。それは今日よく見られるジュニアの取り組み方とは違うものだ。とても冒険的でもある。しかし彼にとっては、国内ジュニアの年齢別タイトルは重要ではなかった。ウィンブルドンの男子シングルスのタイトルこそが重要だったのだ。

専門家を信頼しよう

僕はまだ子供だったので、何が進行しているのか、はっきりとは分かっていなかった。しかし、片手打ちへの変更から約1年たった頃、僕は両手打ちへ戻りたいと考えた。父にその事を話し、ピートにも「うまく行ってない」と言った。ロバート・ランズドープを始め、僕が習っていた他のコーチたちもみんな言った。「両手打ちに戻そう」と。

しかしピートは断固として譲らなかった。「ダメだ。君はずっと片手打ちで行くんだ。信じてくれ。これは長期間にわたるものなんだ。危険ではあるが、正しい手段なんだよ」
それでも自分の両手打ちは良いショットだと感じていたが、父と僕はピートを信頼する事にし、「分かった」と伝えた。

「これは正しい事なんだ」と言えるポジティブな人格を持たなければならない。重大な変更を行う時には、そのショットを完全に理解しているコーチと一緒に取り組む必要がある。14歳では、自分だけでそれをやる事はできない。悪いクセをつけてはならないのだ。

辛抱強くなろう

結局、片手打ちを続けるにつれて、どんどん良いショットになっていった。スライスの感覚を掴み始め、それはボレーにも役立った。

またサーブ&ボレーを続けるにつれて、ネットでの予測力も身についてきた。最も厳しかったのは、強いバックハンドを打つ事?だった。この移行期間中ずっと、僕はバックハンドでやられ続けた。

新しいショットを受け入れよう

僕の新しいバックハンドは、1987年夏、ようやくまとまってきた。8月に僕は16歳になり、チャンは国内ジュニア18歳の部で優勝したが、その夏の終わり、USオープン・ジュニアの部で、僕はチャンを下したのだ。

その年、僕はとても上達し、18歳の部の国内ランキングも6位まで上がった(僕はいつも上の年齢の部でプレーしていた)。チャンに勝った時、うまくやって行けるショットを身につけたと知った。僕の片手打ちは攻撃的ではなかったし、それほど自信も持っていなかったが、徐々に良くなっていった。

ひとたび何人かに勝ち、自信もついてくると、僕はこのショットでずっとやっていくんだと受け入れる事ができた。年齢が上になり力強くなるにつれ、ショットも良くなってきた。

結果を活用しよう

現在、僕はいろいろな事ができるプレーヤーになった。もし両手打ちのままだったら、こうは行かなかっただろう。コート上でより多くの選択肢を持っている。ベースラインで強く打ったりスライスを打ったり、スライスのアプローチショットを打つ事も鋭いボレーを打つ事も、同様の自信を持ってできる。

両手打ちのままで、間に合わせのスライスを打っていただろう場合よりも、いいスライスの感触を持てたし、ネットでもいい感触を持っている。またベースラインでもネットでも、リーチが広くなっている。つまり、片手バックの方が、オールコート・プレーヤーになりやすいのだ。ステイバックに限定されず、幅の広いゲームがしやすい。

変更は早いほど良い

片手打ちは僕の新しいショットだった。僕は途方に暮れるところから始めた、というのは、一気に完全に両手打ちをやめたからだ。片手打ちに変えるのは、早い時期がいいと思う。14歳は少し遅すぎるくらいだ。
変更を引き延ばすと、それだけゲームも固まり、心構えも固まってしまう。16歳か17歳までには、ステイバックして試合に勝ちにいくのか、ネットに詰めて勝ちにいくのか分かってしまう。そうなってからでは、変更は難しい。

保守的な選択肢

僕のやり方は抜本的なものだった。もう少し保守的で、おそらく現実的な取り組み方は、チャンやトッド・マーチン、あるいは僕の姉がやったように、片手のスライスとボレーを習得する事だろう(コナーズとパトリック・マッケンローは、両手打ちボレーで成功した例外的存在である)。

いま僕は、自分のした事は賢明だったと言える。ストロークを変える際に最も重要なのは、勝つ事ではなく、それでいいプレーをするよう心がける事だ。もし新しいストロークを正しく学び、適切に使えば、後にやってくるより大きな勝利が、初めの頃の挫折感や敗戦を埋め合わせてくれるのだ。


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