テニス・ジャーナル
2001年1月号
サンプラス急成長時のコーチが語る
ジョー・ブランディーの「サンプラスの作り方」



10月16、17日に東京・杉並の武蔵野ドームで開催された「テニス指導者のためのセミナー」に招待されたのがジョー・ブランディー氏。彼はサンプラスが急速に力を伸ばしたときのツアー・コーチであり、そのコーチング手腕は高く評価されている。2日間にわたって開催されたこのセミナー中、彼は大きな時間を割いてサンプラスとの3年間を語ってくれた。彼が語る「サンプラスの作り方」の中には、選手育成のためのヒントが凝縮されていた。

武蔵野ドームにブランディー氏を招いて行なわれた「テニス指導者のためのセミナー」には2日間で述べ160名の指導者が集まった。

才能はあったが目的意識が低かったサンプラス

チャンピオンが生まれたときに、コーチは「どんな練習をしたのか」と聞かれますが、まず大切なのは目標を立ててそれに向かって正しい計画を立て、シンプルにまっとうすることだと私は信じています。選手のレベルを見極め、その選手に合った目標を立てる。コーチがそれをわかってないと強い選手は育ちません。例に挙げればリオスやモヤ。彼らは非常に才能を持った優秀な選手ですが、成績が安定せず、トップ10として成功していません。私は彼らがはっきりとした目標を持てずにいるのではないかと思っています。

私がはじめてピート・サンプラスのコーチを引き受けたのは89年の夏でした。彼は18歳で、とても運動神経があって、優秀な選手でしたが、彼自身はっきりとした目的がなく、ただ漠然とトーナメントに出場している状態でした。

そこで、私が彼にアドバイスしたのは、テニスの技術よりも先に「どういったテニスの人生の目的を持つのか、これからどうやってテニス選手として生きていくのか」といった計画性についてでした。しっかりと目的に向かって人生を歩んでいくというその発想が、いまのピート・サンプラスを作るきっかけとなっているのです。

89年には私はジム・クーリエとデビット・ウイートンも見ていました。サンプラスが友人のクーリエに「私にコーチをしてもらいたい」と告げたのが私たちの関係の始まりです。私は彼に「もしこれから一緒にやるのであれば、それは容易なことではないし、プランをしっかり立てないと成功しない。さあ、新しい計画を作って全力で頑張ろう」と初めに言ったのです。私はある卜−ナメントの1回戦でサンプラスがマイケル・チャンに1-6、1-6で簡単に敗れた試合を見たことがありました。しかし、私にはどの選手よりも彼が輝いて見えました。私はそのときから「彼はダイヤの原石」だと密かに思っていたのです。

目標としたのはマッケンロー

18歳のサンプラスはどんなところにショットを打つのかわかっていなかったし、体力的にも全然足りない状態
でした。ですから、彼を鍛えるのは決して容易ではありませんでした。
サンプラスはアガシ、クーリエ、チャンと同じ世代。10代のときにはアガシの評価が飛び抜けて高く、サンプラスは「才能はあるけれど……」という評価だったという。

その当時はいろんなパターンのテニスが流行っていました。私はサンプラスが「どんなテニスを目指せばベストなのか」ということをまず考えました。

技術的には相手の力を利用したり夕−ンや相手の出球を利用したパッシングショットが必要だと思いました。すべて自分の力で打つのでなく相手のスピードと力を利用したテクニックです。

戦術的にはコンシスタントなゲームを目指しました。確率の高いべ−スラインからのストロークを軸に、サービス、リ夕−ン、ロブなどいろんなショットをかならずゲームに取り入れることを彼に要求しました。当時はチャンやサンチェスらが活躍していましたが、彼らはそういったコンシスタントなゲーム基礎がしっかりできていた選手たちです。

次にオフェンス・プランです。これはしっかり身体がフィットしてないといけません。攻撃的にネットに出るわけですから、敏捷性や瞬間的な判断が問われます。攻撃的なテニスは守備的なテニスを作るより非常に時間がかかります。しかし、攻撃的なテニスはより強い選手に勝つ可能性が大きく、サンプラスのように成功する例もあります。攻撃的なテニスを身につけるには、体力や筋肉のパワーが必要になります。強いサーブや速くネットヘ詰めるアプローチ・ショットが鍵となるからです。それにボレーとオーバーヘッドも重要。そうした攻撃的なテニスで成功していたのがジョン・マッケンローで、私はサンプラスはマッケンローのようなテニスを目指すべきだ、と考えたのです。

オフェンス・プランにはべ−スラインからの攻撃的なテニスもあります。これは体格的に背が低かったり、パワーがない選手が目指すテニスです。ネットに出ずにべースラインから攻撃的なテニスをするためには攻撃的なフォアハンドが必須です。ゲームの組み立て方もはっきりしてないといけません。フットワークや足のスピードと体力が重視されます。

また攻撃的なフォアハンドを持ついっぽうで、確率の高いバックハンドも持っていなくてはいけません。スピードがあり、身体のバランスが良いことが最低条件となります。このタイプではアガシ、クーリエ、グラフ、セレスのような選手が、ベースラインからの攻撃的なテニスで成功を収めていました。

ショット、運動神経、体力すべてが優れていなければオールラウンドなテニスは完成しませんが、私はサンプラスにはオールラウンドなテニスができる才能があると思いました。ベースライン・テニスやサーブ&ボレーのテニスよりも時間のかかるスタイルで、すぐに結果は出ません。

しかし、完成すれば完璧に強い選手を作ることができます。確率の高いべ−スラインからのゲームプランを持ち、スライス、スピンをうまく使い、ネットでも相手を押しきるボレー能力がこのタイプには求められます。このスタイルを成功させたのが、サンプラス、ベッカー、ヒンギスなどの選手なのです。

サンプラスへのプランニング「666プラン」

それでは具体的な話をしたいと思います。私はサンプラスが93位というランキングでコーチを始めました。彼に一番必要だったのはコートの上でのゲームプランと体力でした。まず、彼の体力作りがファーストステップとなりました。トップの世界でやっていくには、それが一番必要です。強い体力がなければプロの世界では長いマッチで勝つことができません。

サンプラスに行なった体力トレーニングでは、まず、ジムに行き、最高限度まで持ち上げられるウエイトを測定しました。そして、それの35〜45%のウエイトからトレーニンクを開始しました。すべてのトレーニングは30回、3セットをベースに取り組みました。毎日の腕立て伏せと腹筋、カンガルージャンプ。2日に一度のジム通い、それを2週間こなしました。その後35〜45%のウエイトを50〜65%のウエイトにして同じメニューをまた2週間繰り返し、最終的には70〜80%に上げたウエイト練習を2週間行ない、計6週間のジムトレーニングをこなしました。

同時に最初の2週間は長距離のランニングにも取り組みました。長距離のトレーニングは3分から7分のランニング、3分から7分休みのインターバル。そこで体力の基本がずいぶんカバーされました。次の2週間はフィールドの中での中距離走。テニスはポイントとポイントの間の休憩の間に自分の体力をリカバリーしなければいけません。中距離のインターバル・トレーニングでそういった体力をつけました。そのときの具体的メニューは70メートルダッシュ&20秒間の休みが基本です。自転車に乗るトレーニングも取り入れました。心拍数のチェックを毎日行ない、どれぐらいの心拍数で戻れるのか、走る前と走った後にマメにチェックしました。そして最後の2週間はすべてのトレーニングを取り入れ、短距離走を中心のランニング・コンディショニング。これは15秒間のダッシュと15秒間の休みの繰り返しです。これを毎日30分間続けました。

これらは長距離、中距離、短距離と体力の増強を計る6週間のトレーニング計画でした。月、水、金がランニング・トレーニング、火、木、土が筋力のウエイト・トレーニング。1日おきに行なうことで彼は飽きることなく、集中した意識の高いトレーニングを行なうことができたのです。

昔も今もサンプラスの武器となっているサーブ。10年前も今もフォームはまったく変わらない。その基礎作りを手掛けたのがブレンディー・コーチだ。

トレーニングは朝6時から始まり、週6日間行ないました。1日にオンコートも含め6時間の練習を6週間にわたって行なったので、私たちはこれを「666プラン計画練習」と名付けたのです。

1日はだいたいこんな感じでした。朝6時に起きて、2人で45分のランニング。朝食のあと、コートでのドリル練習を2時間。昼食をとって休んだ後、午後はいろんな選手とのマッチ練習を2時間行ないました。そして、そのマッチ練習はかならず0-30のハンディを付けて行ないました。0-30からサーブをキープをすることはとても大変なことです。それを必死にキープしようとしたサンプラスはそれまでになかった集中力とガッツを身につけたのです。リターンゲームでは、リードされた状況からブレイクしなければいけないプレッシャー、相手にむかっていくチャレンジ精神を学ぶことができました。こうしたマッチ練習の中で、彼はコンシスタントで確率の高いショットをセレクトする能力を高めていったのです。

サンプラスにとって幸運だったのはクーリエと一緒の練習環境でした。選手を鍛えるときには、同じ目標を持った選手が身近にいることが重要なのです。これはジュニアを鍛える場合にも同じです。2人から3人の同じ目的を持った子供を預かることによって、2倍も3倍も成果が表われるのは皆さんもご存知だと思います。

90年USオープン優勝までの道

厳しい体力トレーニングの成果が現われる日がきました。89年のシンシナティでサンプラスは予選から勝ち抜いて初めて大きな大会の準決勝まで進出しました。そこ
で初めてレンドルと戦ったのですが、3セットの大激戦。敗れはしましたが彼にとっては大成功でした。そして翌90年の全豪オープンではベスト16。全豪のあとのイタ
リアン・オープンではまたレンドルに3セットで敗れましたが、この試合はファイナル4-1リード。私は彼の成長を確信しました。

そしてアメリカヘ戻ってフィラデルフィアで彼は初めてプロツアー優勝を飾ります。どんな人でもそうだと思いますが、初の卜ーナメント優勝は嬉しいものです。その試合ではアガシに勝つこともできましたし、ゴメスに勝つこともできました。それにこの優勝で93位だったサンプラスのランキングは19位まで上昇してきました。このあたりからサンプラス自身も世界に向かっての意欲がますます強くなってきたのです。

この年のリプトンでサンプラスは太股の筋肉を痛め試合は棄権することになります。サンプラス自身「テニスは身体が資本。身体のケアがもっと必要」ということを学んだと私に訴えました。しっかりした体力トレーニングのアドバイスをしてくれる人が選手にとっては必要不可欠なのです。コーチと選手の関係は、コーチがトレーナーのスペシャリストでなくても、長い時間をかけた信頼によって強い絆が生まれます。「レベルは関係なしに選手とコーチの人間関係がしっかり結ばれているほど、成果は早く出る」のだということを私自身学びました。

リプトンでは多くの人達に「サンプラスにケガぱかりさせて悪いコーチだ」と文句をいわれたものです。しかし、ケガの主な原因はジュニア時代に彼がしっかりと体力作りをしていなかったからなのです。クーリエもサンプラスと同じような厳しい練習をしてましたが一度もケガをしたことがありません。それは彼がジュニア時代にしっかりとした体力トレーニンクを積んでいたからなのです。

その後クレーコートの試合がいくつかあったのですが、私はすべてキャンセルしました。ここでひとつ言っておきたいのは、若いときにクレーコートでトレーニングしたり、クレーでの試合することは無駄ではないということです。クレーでの練習は選手のレベルを確実に上げるということを覚えておいてください。サンプラスはクレーが得意ではありませんが、クレーで練習をすることによっていろんなことが強化されると私は信じています。アングルショット、攻められたときのディフェンスなどのテクニックだけでなく、テニスのための戦術を学べ、体力作りにも役立ちます。サンプラスもクレーでずいぶん練習したものです。

そのあとイギリスの芝のトーナメントに向かいました。そしてそこで2度目の優勝を飾り、期待を寄せてウィンブルドンに参加したのです。結果は1回戦敗退でした。しかし、本人の気持ちは今までになく前同きだったのを覚えています。私は「サンプラスにはまだ芝のコートでのゲームプランができていない」と思いました。芝のコートで勝つためにはまず、リターンがうまくなければいけません。そして、サービスが強く、パッシングがうまくなければウィンブルドンを勝つことはできません。サンプラスはサービスは良かったのですが、リ夕ーンがまだ未熟でテイクバックが大き過ぎました。私たちはもっと小さなテイクバックに改善するための練習をそれから積み重ねたのです。

ウィンブルドン後は非常にいい状態で夏を過ごしました。カリフォルニアでは工ドハーグに3セットで敗れましたが、カナダでは初めてマッケンローに勝つことができました。USオープン前の5大会の結果は準優勝、準優勝、ベスト16、ベスト8、ベスト8とコンシスタントな試合ができるようになっていたのです。

史上最年少のUSチャンピオン誕生

そして期待のUSオープンに向かいます。サンプラスはゴールディ、ラーセン、ラセク、ムスターと降し、ベスト8まで順調に勝ち上がりました。私は彼のために大会側に「遅い時間に試合を組んでくれ」と毎試合頼み込みました。彼の体力を考えると日中のプレイよりも涼しくなってからのプレイのほうが実力を発揮できると考えたからです。コーチは選手が最大限の成果を出すためにはどんなことにも努力すべきだと思います。そしてラッキーなことに最初の4試合まではすべてナイトマッチに入れてくれたのです。

そしてレンドルと当たり、5セットの末、初めてレンドルに勝つことができました。今までのサンプラスでしたら、2セットを取って2セットを落とした時点でそこで終わりでしたが、このときのサンプラスは体力が充実していて、それが精神的にプラスに作用して、5セット目を勝ち取ることができたのです。

2ポイント離したらどんな状況であってもネットを取る。それがアガシとの決勝を前にサンプラスとブランディー・コーチが交わした2人の約束事だった。

優勝候補のレンドルに勝ったサンプラスにマスコミが押し寄せてきました。これは今までになかったことです。私は「まずい」と思いサンプラスをすぐホテルに返し、人目に付かないようにしました。

また、ホテルのオペレータ一に電話をつながないように頼んだことも覚えています。準決勝はマッケンロー戦だったんですが、レンドル戦が水曜日でマッケンロー戦は土曜日に組まれました。私たちはUSオープンの会場で練習すると追いかけ回されることになると思い、セントラルパークヘ行き、人目につかないところで毎日練習をしました。それは今までにない軽い練習でした。またリラックスするために映画を観に行きました。大きな試合のときはその試合のことばかりを選手に考えさせないことがコーチの大きな役目だと思います。選手をプレッシャーから守り、試合を意識させないことが大事なのです。

反対のドローはアガシとベッカー戦でした。女子シングルス決勝のあと、サンプラスはマッケンローと準決勝を行なうことになっていました。私は彼に「ぎりぎりまでホテルで休め」といいつけ、彼はホテルで横になってテレビを観ていました。私は早めにテニス会場に行きアガシとベッカーの試合を観ていました。マッケンローには勝つと確信していたので相手選手のチェックや会場の雰囲気のチェックなどをしていたのです。

そしてアガシが4セットの末、ベッカーに勝ちました。そのときのベッカーのコーチはボブ・ブレッドで、試合を観ながら話していたのですが、彼は「ネットに6回しか出ていかなかった。それが負けの原因だ」と怒っていたのを覚えています。私もどうしてベッカーがもっとアタックしなかったのか、非常に不思議に感じた試合でした。

また、このUSオープンでは毎試合次の対戦相手の弱点などを書いたゲームプランを彼に渡しました。私は地元出身のマッケンロー戦でサンプ ラスが萎縮することを恐れていました。マッケンローみたいな老檜な選手はまわりの観客を巻き込みながら、それを自分の力にする魔力を持っています。私は彼に「何にも惑わされずにマッケンローを倒すことだけを考えろ」とアドバイスし、彼はそれを見事にやってのけ決勝へ進んだのです。

ほとんどの関係者が「アガシが勝つ」とコメントしていました。この決勝でサンプラスは21本のエースを打ちました。そのエースのほとんどはセカンドサーブでアガシのフォアを狙ったものでした。アガシはフォアが武器で正面やバックにきたセカンドを回り込んでフォアでり夕ーンエースを取るのが得意でしたから、その逆をついて最初からフォアを打たせる作戦を取り、それが功を奏しました。

また、30-0とり−ドしたとき、0-30でダウンしたときはゲームプランを変えること、ポイント、ポイントをしっかり考えながら戦うとことを指示しました。30-0、40-15になったときには何がなんでもネットに出ていく、という約束事をサンプラスは最後まで守り通しました。結果は6-4、6-3、6-2の完勝。試合が終わった後に「これで人生が変わったね」と彼に言ったのを覚えています。グランドスラムという大イベントを勝利した選手には、普通の選手には味わえないすばらしい感動が待っています。それは一緒に戦ったコーチも同じことなのです。

19歳でUSオープンの優勝を成し遂げたサンプラスに協力できたことは私にとっても最高の思い出です。そして今の彼のテニスは完璧で、誰にでも参考になるものです。また、彼はすばらしい性格を持ったプレイヤーで本当の意味でのチャンピオンです。そんな彼と関わりを持てたことを私は嬉しく、誇りに思っています。


ジョー・ブランディ
89〜91年にサンプラスの専属コーチを務め、ランキング93位から3位へランクアップさせる。二人三脚で戦った90年のUSオープンでサンプラスは史上最年少チャンピオンとなり、ツアーコーチとしての評価を万全のものとし、その後、ジジ・フェルナンデス、コンチタ・マルチネス、ジェフ・タランゴらの専属コーチも経験。現在はフロリダ・タンパのマクマレン・テニス・コンプレックスのヘッドコーチを務める。現在WTAツアー28位のクリスティーナ・ブランディーは彼の愛娘でもある。


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