スマッシュ
2001年1月号
「短期集中連載」ジョー・ブランディ・テニスクリニック
第1回 19歳のサンプラスがUSオープンに優勝できた理由


先頃、「武蔵野ドームテニススクール テニス指導者のためのセミナ」として、ジョー・ブランディ氏によるテニスクリニックが開催されました。ブランディ氏はプロコーチとして豊富な経験を持ち、なかでも、ピート・サンプラスの専属コーチとして、彼のグランドスラム大会初制覇(90年USオープン)やランキングのジャンプアップに貢献したことで知られています。このクリニックを、短期集中連載の形で誌面で紹介していきます。今回は、サンプラスにUSオープン初制覇をもたらしたトレーニングの話を中心に、ブランディ氏のコーチングのノウハウを紹介します。

1990年、19歳でUSオープンに優勝した時のサンプラス。ここから快進撃が始まった
JOE BRANDI
ジョー・ブランディ
ハリー・ホップマンテニスキャンプなどを経て、現在はウエストパームテニスプロダクションの経営するマクマレンテニスコンプレックス(フロリダ州)においてヘッドコーチを務める。89〜91年にはピート・サンプラスの専属コーチとして、彼のATPランキングを93位から6位に引き上げた。90年には、サンプラスは史上最年少(19歳と28日)でUSオープンを制覇した。その他にもジジ・フェルナンデス、コンチタ・マルチネス、娘のクリスティナ・ブランディなど数多くのトッププロ、ジュニアを指導。

「テニス人生」における目標や意欲を持たせ、それに向けて計画を立てた

ピート・サンプラスを指導するようになったのは、89年の夏からです。もちろん、当時から彼は素晴らしい才能を持った選手でした。しかし、目的意識がまだ明確ではありませんでした。意欲も不十分で、ただトーナメントに出ているだけという状態でした。彼にはテニスに関する人生計画が、まだできていなかったのです。当時、彼は18歳。中身はまだ子供だったのです。

技術的なことは後回しにして、私が最初にアドバイスしたのは、彼がどういうテニス選手になっていくべきか、ということでした。何を目標に、どういったテニス人生を歩むのか―――このことを話し合い、目標を明確にしたことが、現在のサンプラスを作るきっかけになったと思っています。

当時、私はジム・クーリエやデビッド・ウィートンを指導していました。彼らと一緒に、あるトーナメントに出場したときのことです。その大会に出ていた選手の中で、もっとも才能があるように見えたのがピートでした。しかし彼は、1回戦でマイケル・チャンに6ー1、6−1で敗れてしまうのです。

ここで私が言いたいのは、厳しい練習やトレーニングが、その選手の持って生まれた才能と結びついて初めて大きな成果が生まれるということなのです。

コーチになってほしいという話をピートから持ちかけられた私は「これから私たちがやろうとしていることは容易ではない。その計画を完璧にこなさなくては二人は成功しないだろう」と話しました。そして二人は「まず計画を立て、全力を尽くしてみよう」と誓い合ったのです。

トッププレーヤーに必要な体力をつけるために行なった「6・6・6プラン」

18歳のピートと一緒に練習を始めたとき、彼のランキングは93位でした。ストロークも、アプローチショットも、ボレーも、まだまだ改善の余地がありました。また、コートの上でリラックスすることや、戦略を立ててそれを実践でこなすことも学ばなくてはなりませんでした。そして、彼はトッププレーヤーにとってもっとも大切な体力が不十分でした。

ピート・サンプラスとの「6・6・6プラン」
1日のスケジュール
●朝6時に起きて、ランニング(45分間程度)
●朝食
●コートでドリル練習(2時間)
●昼食
●1セットのマッチ練習。計3〜5セット(2時間程度)
●月・水・金はランニング、火・木・土はウェイトトレーニング(30分〜1時間)

ランニング
●最初の2週間/体力の基礎を作るために長距離走を行なった。3分から7分のランニングを、同じ長さの休憩をはさみながら、計30分間。
●次の2週間/トレッドミル(ベルトコンベアーのような歩行器具)やバイシクルを使い、心拍数を常にチェックしながら、中距離走を行なった。実戦でポイント間のインターバルに体力を回復させる(心拍数が戻る)ことを目指した。70秒のダッシュ/20秒の休憩を交互に繰り返し、計30分間。
●最後の2週間/すべての種類のランニングと、テニスに必要なパワー、スピードを養うために短距離走を行なった。短距離走は15秒のダッシュと15秒の休憩を交互に繰り返した。計25分間。

ウェイトトレーニング
●最初にサンプラスがこなせるウェイトの最大値を測り、最初の2週間はその35〜40%の重量でウェイトトレーニングを行なった。基本的に一つの種目を30回×3セット行なった。次の2週間は50〜65%の重量に上げて15回×3セット。最後の2週間は70〜80%にして同じメニューを行なった。
そこで、二人のファーストステップは、体力作りでした。その年のシーズンオフに、計6週間、1日おきにジムに通い、集中して筋力トレーニングを行ないました。腕立て伏せや腹筋、それからあらゆるウェイトトレーニングをしました。筋力トレーニングを行なわない日は、ランニングを行ないました。

私たちはこのトレーニングを「6・6・6プラン」と呼びました。計6週間のトレーニング、オンコートとオフコートを合わせて毎日6時間の練習、そして毎朝6時にトレーニングを開始したからです。

オンコートでは毎日、相手を見つけて「セット」(1セットの試合形式)を行ないました。これは、ピートにとっては「チャレンジ」でした。どの選手とやるときでも、ピートにはハンディを与えたからです。

サーブのときは「0−30」から始めました。ここからキープするのは大変です。彼は、今までにない集中力と、鋭い思考力と、ガッツを持って試合に取り組むようになりました。リターンゲームでは「15ー0」から始めました。彼は、リードされた状況からでもブレークするんだという、向かっていく気持ちを学んだはずです。また、確率の高いショットセレクションも学ぶことができました。

この練習には、よくクーリエが参加してくれました。同じ目的を持った選手が身近にいることは、大きな効果をもたらします。仲間がいることで、「8」の成果を「10」に上げることができるのです。

「ピートをつぶすのか!」という中傷が……。しかし、二人は信頼で結ばれていた

トレーニングの成果が表れたのが、翌90年の全豪オープンです。前哨戦のシドニーでは、予選を勝ち上がり、準決勝に進出。そして全豪ではベスト16に入ることができたのです。

もともとピートは、一つの試合だけなら、よく集中して、いい試合ができていました。それが、トレーニングによって4試合、5試合と続けられるようになりました。また、1セットアップしても次の2セットを続けて落とすとそのまま負けてしまうことも多かったのですが、体力が充実したことが精神的にもプラスに作用し、第5セットまでレベルを落とさずにプレーできるようになりました。

体力がアップし、それによって結果も出たことで、彼には、世界の頂点を目指す強い気持ちが芽生えてきました。

その後、ピートは何度か故障に見舞われました。その影響で、なかなか勝てない時期もありました。「ピートにケガばかりさせている。彼をつぶすつもりなのか」と私を非難する人もいました。しかし、彼の故障の原因は、ジュニア時代にしっかりトレーニングを積んでいなかったことにあり、私とのトレーニングが故障を招いたわけではないのです。

ピートは、リプトンでも故障のために準決勝を棄権しなければなりませんでした。彼はもちろんがっかりしましたが「テニスのキャリアの中で、トレーニングや身体のケアがいかに大切か、僕は学んだよ」と私に言って、リハビリのプログラムに取り組みました。

このように、コンディショニングに関するしっかりしたアドバイスをすることもコーチの大切な仕事です。そうすることで、心のつながりが生まれ、選手は精神的な安定が得られるはずです。私はコンディショニングの専門家ではありませんが、適切なアドバイスを行ない、時間をかけて選手と信頼関係を結ぶことができれば、必ずいい結果が得られると信じています。
着実なトレーニングで恐ろしいまでの強さを見せるようになった。97年ウィンブルドン

持って生まれた才能がトレーニングによって開花。19歳でUSオープン制覇

90年の夏は、フィジカル的にもいい状態が続きました。カナダでは初めてジョン・マッケンローに勝ち、続く準決勝ではチャンに3セットで惜敗。ピートは常に準決勝や準々決勝に勝ち残っていました。そうして、いろいろな選手との試合経験を積み、試合をこなすために必要な精神力が身についてきたのです。

89年当時のサンプラス。身体はまだ細く、体力、筋力的にもまだひ弱だった
USオープンでも、ピートは順調に勝ち上がりました。次第にマスコミやファンの関心もピートに集まりました。そうした雑音から彼を守ることも私の大事な仕事でした。マスコミやファンに集中を妨げられないように、試合会場ではなくセントラルパークのコートで練習もしました。また、リラックスするために映画にも連れ出しました。できるだけ試合を意識せずにいられる時間を作ろうとしたのです。

私は、試合前には必ずゲームプランや相手の選手の弱点を紙に書いてピートに渡しました。もちろん口で伝える方法もありますが、書いたものを読ませる、というのがピートにもっとも合ったやり方だったのです。

決勝の相手はアンドレ・アガシでした。私以外のほとんどの人は、アガシが勝つと確信していたはずです。ピートには、セカンドサービス(とくにデュースサイド)をアガシのフォアハンドに打たせました。アガシの武器はフォア、とくに回り込んで打つフォアハンドです。そこで、あえてフォアを狙って、回り込んで打つショットを消してしまったのです。

この試合でピートは21本のエースをたたき込み、6−4、6−3、6−2のストレートで勝利を収めたのです。

優勝した彼には、その後、テレビ局、スポンサーなど、いろいろな人が声をかけてきました。ピートは不安を覚え「普通の生活に戻りたいよ」と訴えてきました。毎日、練習だけをこなしていた日々から、毎日70本もの電話が入る日々に急変したのです。

ピートにとっては、違う世界を見るいい機会でもありました。しかし、19歳になったばかりのピートには、この障壁を乗り越えるのは容易ではなかったはずです。ですが、ご存じのように、彼は今でもナンバーワンの選手です。その障壁に直面したとき、「自分はテニスをやるんだ」とシンプルに信じていたことがよかったのだと思います。

この内容は、11月16〜17日に武蔵野ドームTSで行なわれたクリニックによるものです
彼はランキングを5位まで上げて、90年が終わりました。

その後、2年の契約を1年延長したうえで、92年にティム・ガリクソンにピートを預けることにしました。私には家族と過ごす時間がもっと必要でした。そのことが、ピートとの仕事を終わりにした大きな理由です。

最初に行なった6週間のトレーニングを思い出すと、彼以上にコーチの指示を守り、100%、あるいはそれ以上がんばろうとする選手を私は知りません。実力はあるのに、それを発揮できないまま終わってしまう選手もたくさんいますが、ピートの場合は、私とのトレーニングによって、その才能をうまく引き出すことに成功したのだと思います。



2001年2月号
第2回 目標に向けて計画を立て、意欲を持って実行せよ
〜プロを育てるためのコーチング理論〜
取材・構成/秋山 英宏


これは「武蔵野ドームテニススクール テニス指導者のためのセミナー」として開催されたジョー・ブランディ氏のテニスクリニックを誌上で再現したものです。前回は、ピート・サンプラスとのトレーニングを紹介しましたが、今回は、まずサンプラスとの仕事を総括し、さらに次の仕事であったダブルスのトッププレーヤー、ジャレッド・パーマーにブランディ氏が行なった指導を紹介していきます。豊富な具体例のなかから、ブランディ氏のコーチとしての哲学とノウハウが明らかになるはずです。


どんな選手にも必ず何か光るものがある。それを見出すのがコーチの仕事

ピート・サンプラスが19歳でUSオープンに優勝すると、いろんな人がいろんなことを言ってきました。優勝はまぐれだと言う人もいましたが、その後の彼の素晴らしい活躍によって、実力で勝ち取った優勝であることがすぐに証明できました。

彼のフォアハンドに関しても、いろいろなことを言う人がいました。ヒジが外側に出ていくテイクバックはおかしい、と言う人もいました。しかし、あれは私がやらせたわけではなく、ピートが自分で覚えた打ち方なのです。少し独創的で、人がまねできるようなものではありません。しかし、ご存じのように、あのフォアハンドは彼の最大の武器の一つになっています。

だれにでも―――みなさんが指導しているジュニアや一般プレーヤーにも、必ずベストショットが、何か光るものがあるはずです。それを見つけ出してあげることも、コーチの大切な仕事です。そして、「このショットが素晴らしい」と思ったら、コーチとプレーヤーは、そのショットを伸ばすことに情熱を傾けるべきです。

ピートのフォアハンドがいい例なのですが、テニスでは、いろいろなスタイルや打ち方があっていいのです。だから、テニスというゲームはエキサイティングなのです。何が正しくて、何が間違っている、ということは基本的にありません。ジョン・マッケンローを見てください。あのテクニックは、どんなコーチにも教えることなどできないと思いませんか?

選手には、いろいろなタイプがあります。一つの例として、試合前の過ごし方を挙げてみましょう。
サンプラスのフォアハンドストロークは、あまり良くないと言われたこともありましたが、これは彼の光る、素晴らしい技術なのです

私は、選手の試合直前の過ごし方にはかなり気をつかいます。高いレベルのプレーヤーほど、その時間の使い方には繊細であるべきです。しかし、過ごし方というのは、人それぞれでいいのです。音楽を聴いて過ごす選手もいれば、うるさいのは嫌いで静かに過ごす選手もいます。また、試合前に細かい指示を求める選手もいれば、相手に関していろいろ言ってほしくないと思っている選手もいます。本人の性格によって、時間の過ごし方や指示の与え方は異なるのです。そして、その人にあったやり方をコーチが見出してあげることで、いい結果が生まれるのです。

コーチは、その選手の特性に合ったプレースタイルを見極めなければならない

プレースタイルに関しても、同じようなことが言えると思います。

私がピートと一緒にトレーニングをはじめた当時のテニス界には、いくつかのプレースタイルが存在していました。一つは、カウンターパンチのテニスです。

これは、相手の力を利用したグラウンドストローク中心のテニスです。代表的なプレーヤーとしては、クリス・エバートやマッツ・ビランデルがいます。これらの選手には、ベースラインでの動きのよさ、それに堅実な試合運びといった、このスタイルに必要な基礎がすべて備わっています。

2番目は、ネットプレー中心の攻撃的なテニスです。このプレースタイルでは、まず、身体がしっかりフィットしていること、そして敏捷性や瞬間的な判断力が求められます。パワー、強いサービス、そして、もちろんアプローチショットやボレー、スマッシュの技術も問われます。代表的な選手としては、ジョン・マッケンローやステファン・エドバーグが挙げられます。

もう一つは、ベースラインからの攻撃的なテニスです。アンドレ・アガシやジム・クーリエのテニスがこれに当てはまります。フォアハンドが武器であること、そして確率の高いバックハンドを持っていること、さらに、ゲームの組み立てやフットワーク、持久力も要求されるプレースタイルです。背は低くてもスピードのある選手、あるいは、背は高いけれどそれほどスピードはない選手にも、このスタイルが見られます。

そして、私がピートに当てはめたのは、もう一つのスタイル、いわゆるオールコート(オールラウンド)のプレースタイルです。

このプレースタイルをものにするには、アスリートに必要なすべてのものが求められます。あらゆるショットが打てる技能、運動能力、体力、身体の柔軟性など、すべてが必要なのです。ベースラインでは堅実なプレーが求められます。深いボールが打てて、プレースメントに長け、スピンを駆使できることが必要です。そして、最終的に相手を押し切る攻撃力も必要です。こうしたテニスを成功させた選手といえば、ピートをはじめボリス・ベッカー、最近ではマルチナ・ヒンギスが挙げられます。

コーチには、どんなプレースタイルを選手に当てはめてやればその選手がもっとも伸びるか、という判断が必要です。たとえば、ピートを指導したやり方をチャンに当てはめても、成功はしなかったでしょう。この判断を適切に行なえるのが優れたコーチと言えるでしょう。

大きく分かれるプレーヤータイプ
ベースラインで攻撃するプレーヤー
アンドレ・アガシ
ジム・クーリエ
強いフォアハンドストロークを持っていること、確率の高いバックハンドストロークを持っていること、組み立てが上手で持久力もあることが必要
グラウンドストローク主体のプレーヤー
マッツ・ビランデル
クリス・エバート
ベースラインでの動きのよさやフットワーク、そして堅実な試合運びといったベースラインで戦うために必要な技術とメンタルが必要
オールラウンドなプレーヤー
ピート・サンプラス
マルチナ・ヒンギス
あらゆるショットが打てる技能、運動能力、身体の柔軟性、そしてベースラインでは堅実に、ネットでは相手を押し切る攻撃力が必要
ネットプレー主体のプレーヤー
ジョン・マッケンロー
ステファン・エドバーグ
しっかりと身体ができていること、敏捷性や瞬間的な判断力に優れていること。そしてネットへ出るために必要な強いサービス、アプローチショットが必要

目標/計画/実行、これらが揃ってはじめてチャンピオンが誕生する

ピートに当てはめたオールラウンドのプレースタイルは、他のプレースタイルと比べて、完成までにもっとも時間がかかるものです。また、プレースタイルに関係なく、結果というのは、すぐに約束できるものではありません。選手が計画をすべてこなしたときに、はじめて強い選手が誕生するのです。

私には一つの信念があります。それは、正しい目標を設定し、それに向けて正しい計画を立て、ひたすら実行することによって成果が得られる、というものです。

これは、あらゆるスポーツにおいて、チャンピオンが誕生するときには必ず行なわれてきたことなのです。

また、「レベル10」の目標があったとしても、選手自身が「レベル10」の意欲を持って目標に立ち向かっていかなければ、成果は得られません。現在、マルセロ・リオスやカルロス・モヤといった選手が活躍していますが、今のところ、大成功を収めているとは言えません。その理由も、このあたりにあるのではないでしょうか。

目標と計画を立て、それに向けて、強い意欲を持ってひたすら実行し、成功を得た例がサンプラスです。

では、もう一つ、それが成功した例として、ジャレッド・パーマーとの仕事を挙げておきましょう。

彼は、ダブルスではトップクラスのプレーヤーで、アメリカのデ杯チームにも何度か選ばれている選手です。

ジュニア時代のジャレッドは、12歳以下、14歳以下、16歳以下、18歳以下と、各年代の全米のタイトルを獲得してきました。しかし、プロになってからは、ダブルスはともかく、シングルスではなかなか成功を収めることができませんでした。その彼から、94年にフルタイムコーチの依頼があったのです。

当時、彼のランキングはシングルスが125位、ダブルスはトップ10に入るプレーヤーでした。彼は、このころ、何とかしてシングルスの成績を上げたいと考えていました。

短い区切りで目標と計画と立て、今、何をすべきかを選手に認識させる

私はまず、2週間かけて彼がどんなトレーニングを積んでいったらいいのかを見極めました。そして「シングルスで世界の50位を目指す」という目標と、そのための計画を立てました。

私たちは、3カ月後、6カ月後、1年後、18カ月後、2年後というように、短い区切りで目標と計画を立てました。そして、そのときどきで自分が何をすべきか、ということを常にジャレッドと確認しながら、トレーニングを行ないました。これは、私がどの選手をコーチするときでも行なっていることです。成果はすぐにあらわれるものではありません。まして、スタイルを変えようと思えば、ことは簡単ではないのです。だからこそ、短い区切りで目標を設定し、そのために何をすべきか、本人が常に認識していることが大切なのです。それは相手がジュニアであっても同じことです。

ダブルスでの才能は常々評価されていましたが、ブランディ氏の計画的なコーチングにより125位から45位に上昇しました
私はまず、ダブルスの試合数を減らし、彼をシングルスに集中させました。また、彼のネットプレーを生かすために、堅実なオールラウンドのテニスを目指しました。シンプル/アグレッシブ/パワー/オールコートのプレーヤーを目指したのです。

具体的には、時速180〜190キロのサーブを確率よく入れ、そこからネットでの攻撃につなげられるように練習しました。ストロークはそれほど得意な選手ではありませんが、より攻撃的なプレーを目指しました。ストローク戦になったらできるだけ2球以内で仕留めること、また、ベースラインの内側のボールはフォアハンドに回り込んで決めることを彼に課したのです。

ボレーはもともとテクニックがあったので、よりアグレッシブなプレーを目指しました。ファーストボレーは、体重を乗せたボールをダウンザラインに打ち、次のショットで必ずポイントが取れるように練習しました。

また、私たちは、ただ攻撃するだけではなく、ディフェンシブとオフェンシブの中間のプレーを目指しました。チャンスがあれば積極的に、しかしリスクのあるプレーはしない、というスタイルを目指したのです。

ここでみなさんに参考にしてほしいのは、何をしたかという具体的なことよりも、その選手に明確な目標を与え、計画を立てて実行したということです。

トレーニングの成果は徐々に出てきました。具体的な目標を持つことで、彼には何らかのいい兆しが見えてきたのです。

ジャレッドはクレーコートの大会で初めて優勝しました。彼の進歩は明らかでした。その後、彼はトップ10プレーヤーのトーマス・エンクイストを破りました。そして、95年のUSオープンでは、ティム・ヘンマンやアンドレイ・メドベデフを破り、4回戦に進出しました。彼のシングルスランキングは、トレーニングを始めた頃の125位から45位まで上がりました。もちろん、彼にとっての最高位です。最初に立てた目標を超える躍進でした。

これだけの成果を上げることができた要因は、一つには、積極的にネットを取るようなゲームプランを立てたことです。それによって、彼は自信を持って試合に臨み、競った場面でこそ、その自信がものをいったのです。そして、目標をしっかり見据え、計画を忠実に守って試合や練習に取り組んだこと、これが最大の要因だと確信しています。


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