AP通信
1996年9月6日
サンプラスはコレチャ戦を生き延びる
彼は昼食を失う、しかし試合には勝利する
文:Steve Wilstein, Associated Press writer


ニューヨーク --- 病気と言えるほどにまで消耗し尽くし、ほとんど動けず、ポイントの間には杖のようにラケットにもたれ掛からねばならない状態で、昨日ピート・サンプラスは疲れ知らずのアレックス・コレチャ相手に、叙事詩のような苦難から生き残った。


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サンプラスは第5セット・タイブレークの最中にコート上で嘔吐し、気を失うのではないかと思われた。しかし何とか力を振り絞ってプレーを続け、25本目のエースでマッチポイントを迎えた。

そして、スペイン人がダブルフォールトを犯し、7-6(7-5)、5-7、5-7、6-4、7-6(9-7)でUSオープン史上最も劇的な試合の1つが終わったのを、彼は心底からの安堵の表情で見守った。

コレチャは膝をついてうずくまり、サンプラスはネットにもたれていた。そして、4時間9分の闘いという今大会の最長試合に観客が長いスタンディング・オベーションを送る中、2人は優しく抱き合った。

数分後、サンプラスは恋人のデレイナ・マルケイを抱き締めていた。

「これはティムのためだった。ティムは僕と一緒だった」と、5月に亡くなったコーチのティム・ガリクソンの事を彼女に囁いた。

マルケイは言った。「ティムはこれからも私たちと一緒よ」

この試合でサンプラスが足を引きずり、時には目眩でよろめきながらも、何とか踏みとどまってプレーを続けるのを見た者は皆、すくみ上がっていたに違いない。

彼は最終のタイブレーク1-1ではコート後方で嘔吐し、遅延の警告を受けたが、戻って次のポイントを勝ち取った。

「多くの人々は今日、大抵の人は生涯見ないであろうものを見たのだ」と、サンプラスの現コーチであるポール・アナコーンは語った。「アレックス・コレチャは大いに称賛されるべきだ。ピートがした事には、言葉がない。刺激的だった」
「彼は特別な男だ。そして特別な人間は、特別な事をする」

人生を懸けた試合がするりと逃げていった後、コレチャはくずおれ、すすり泣いていたが、その彼もサンプラスには驚嘆していた。

「彼が疲れきっているのを2度ほど見たが、そういう時、彼はさらに危険だった」と、31位のコレチャは言った。「タイブレークの3-3で、彼は*時速124マイルのサーブを打った。もし疲れていたら、そんなサーブは打てない筈だ」
訳注:実際は時速122マイル。

しかしそれは確かに、脱水症状の治療のため点滴を受ける前に、サンプラスがした事である。彼は1時間以上が経過した午後9時20分に会場を後にした。夜なのにサングラスをかけ、試合については何も語らなかった。

ゴラン・イワニセビッチと準決勝で対戦する土曜日までに、サンプラスは回復する方法を見いださなければならない。

イワニセビッチは夜、2度のチャンピオンであるステファン・エドバーグを6-3、6-4、7-6(11-9)で下し、記録的な54連続グランドスラム大会出場の後に、引退に送り込んだ。

エドバーグは4つのマッチポイントを逃れたが、ついに、イワニセビッチの鋭いサービスリターンでバックハンドのハーフボレーをネットにかけ、5回目で屈した。

イワニセビッチは過去2年、1回戦で敗退していたが、エドバーグに対して26本のサービスエースを決めた。準決勝ではサンプラスに、準々決勝とは極めて異なった問題をもたらすであろう。少なくとも、サンプラスはより短いポイントを期待できる。

燃える太陽の下、そして何時間か後には涼しい夜のライトの下で、 コレチャは華々しいプレーをし、サンプラスを徐々に弱らせていった。

試合には、昨年の全豪オープンでサンプラスがジム・クーリエに勝利したのと同じくらい、多くのドラマと感情が詰まっていた。あの時は、ガリクソンが初めて脳腫瘍と診断されたのだった。あの夜、サンプラスは涙を零しながらプレーし、それでもなお勝つ途を見いだした。

いろいろな意味で、この試合は1994年USオープンで彼がハイメ・イサガに敗れた4回戦を思い出させた。あの時、サンプラスは極度の疲労で足を引きずり、足には水ぶくれができて血を流していた。

サンプラスには病気と、暑さによる疲労困憊の歴史がある。1992年USオープン決勝でエドバーグに敗れる前夜には、胃の具合が悪くなった。1994年のリプトン大会(マイアミ)では具合が悪くなり、アンドレ・アガシはスポーツマンシップの意思表示として、彼に回復する余分の時間を与えた。サンプラスが勝った。

今年のフレンチ・オープンでは、サンプラスはクーリエに対して最初の2セットを失い、ふらふらに見えたが、それでもなお5セットで勝利した。

サンプラスはコレチャに対して、試合の第1ゲームでブレークされたが、ブレークバックして5-5とし、さらにタイブレークを取った時には、試合をコントロールしているように見えた。彼のサービスでは21ポイントを連続して取っている最中だったのだ。

そのコントロールは2つの決定的な過失で、突然姿を消した。コレチャが第2・第3セット両方の第12ゲームで彼をブレークした。

それらのセットで、サンプラスはコレチャをブレークするすべを全く見いだせず、スペイン人は、ベースライン後方から強打し続けた。

サービスエースとサービスウィナー以外は、すべてのポイントでサンプラスを目いっぱい働かせた。スピードに関してはビッグサーバーではないが、正確さとキックで、サンプラスと並ぶ25本のエースを放った。

第4セット1-1で、サンプラスが疲労困憊のサインを見せ始めていた時、コレチャはついにブレークを許した。2回目のブレークポイントを得た後、サンプラスは物憂げに屈み込み、あえいでいた。それからもち直し、フォアボレーを決めて2-1のリードを取った。

サンプラスはその小さな勝利に握り拳を振り上げかかったが、そうする力さえないかのように、途中でやめた。彼は安堵と疲労の色を身にまとい、椅子に向ってゆっくりと歩き、くずおれるように座り込んだ。

問題がないか、トレーナーが尋ねた。サンプラスは首を振り、吐き気を感じると言った。次のチェンジオーバーで、トレーナーが戻ってきてサンプラスに薬を与えた。

第5セットでは、両者ともブレークを許さなかった。ある瞬間にサンプラスが時速125マイルのサーブを打ったのは信じがたい光景だった。彼は自分が長いラリーをできないと分かっていたので、サーブで勝とうとしなければならなかった。そのセットで彼は6本のエースを放った。

「我々が試合の終わりに見たのは、彼の身体に限界が来たという事だった」と、大会ドクターのブライアン・ハインライン博士は言った。

「ストイックな性格ゆえ、彼にドラマティックな性向があるとは思わないだろう」と、アナコーンはサンプラスについて語った。

「だが、あのような試合を彼が成し遂げると、ティムが微笑みを浮かべて見守っていると感じる。ティムは精神的な意味で、今でも我々と一緒なのだ。辛い18カ月だった。多くの感情的な動揺があった。私はピートのようなレベルで集中を保ち、心を乱すものを無視できる人間に会った事がない」

第5セット・タイブレークで7-6リードとした時、コレチャには試合に勝つチャンスがあった。6-5サンプラスのマッチポイントでは、それを撥ねのけた。そして今、コレチャはリターンすべく立っていた。

サンプラスはラケットにもたれて一息つき、それからサーブを打った。コレチャは返球した。ラリーとなり、そしてコレチャは、ウィナーとも見えるクロスへのフォアハンドを打ち込んだ。サンプラスは右側に飛びつき、ボールを捕らえてフォアボレーを決め、7-7とした。

「多分、もし僕がストレートに打っていたら、勝っていたかもしれない。分からない」とコレチャは言った。いかに彼がこの試合を取り逃がしたのか、あるいはどのようにサンプラスが踏みとどまったのか、それを説明するすべを捜していた。

彼はサンプラスがよろめき、それでもなお2ndサーブのエースを放ち、8-7とするのを見た。

ダブルフォールト --- それも試合中わずか3回目の --- で敗北したのは、コレチャにとり、落ち着いて考えるにはあまりの事であった。

「恐らくベストの試合であり、同時に最悪のものだった」と彼は言った。「僕は今日、プレーしすぎた。世界のナンバー 1をノックアウトしかかったんだから、幸せと思わなければならない。でもとても辛いし、本当に失望している。勝利を得たように感じ、そして突然、逃げていってしまったのだから」


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