創造力と教育システム

「学校を捨ててみよう!」三池輝久教授著 を読んで 

2002/08/03 遠山 勉

 特許実務を行うには、法的空間の中に「発明」という技術を置いて、その位置づけを考えるという、空間把握能力を必要とする。また、発明を文章化するにあたって、技術的あるいは法的論理性を必要とする。ところで、このような能力が最近の若い方において、衰退しているように思えてならない(こんなことを言うとは、私も「オヤジ」になったものだ・・・・)。

 そんな折、読売新聞で紹介されていた、熊本大学医学部の三池輝久教授著の「学校を捨ててみよう!」講談社+α新書を読む機会に恵まれた。本書には、最近の学生の学力低下や不登校の原因として興味深い内容が紹介されている。そこに、空間把握能力や論理力の低下の原因が解明されているように思える。このような現象は、ひいては、日本人の創造力の低下の原因となるのではと杞憂する。

 

以下、三池輝久教授による分析を引用する。

はじめに、より

「学生たちの学力低下の源は、まさに日本の教育システムのなかに潜んでいるのである。日本の学校社会システムによる偏った情報の注入は子どもたちの持続的な緊張状態をもたらしており、不安を刺激する脳機能の賦活は、子どもたちの生きる自信を揺るがせ、焦りや絶望を燻りだしていく。」(同書6頁)

第1章          子供たちの脳は変化している、より

「最近とみに子どもたちの学力低下が叫ばれている。・・・子どもたちの「コリン作動系の学習と記憶の神経機能が障害を起こしている」状況に気がついた。・・・集団生活のなかで、もっとも重要であるとされる協調性の能力は、確実に優れつつある。多くの大人たちは「よい子」に育てること、つまり自分たちの価値観からはみ出ることなく、コントロールしやすい子だけを育てることが大人としての自らの義務であると考えてきた。ただし日本における協調性とは、自らを抑制しグループのなかで上手に生きていくことなので、自己抑制力といいかえることもできる。学校社会における協調性には強迫的な色彩が強く、このことが子どもたちの大きなストレスになっていて、まったく逆の現象(協調性のなさ)も目だちはじめたことは皮肉な事実である。・・・自己抑制し、話をまわりにあわせ、協調する脳は子どもたちに確実に定着しつつある。自己表現を抑え、皆の雰囲気にあわせた表情や会話を通した生活のなかで、その代償として彼らは自分自身を見失っていく。」(同書1819頁)

「長期間、よい子を演じることは、自らの価値観を中心とした変えることの難しい扁桃体の働きを押さえこまなければならない。自分が自分であってはいけないのであり、協調するよい子の自分を保たなければならないとき、子どもたちは生き生きと生きることができるであろうか。」(同書20頁)

「前頭前野と呼ばれる、脳の前のほうにある脳(新・新皮質)は、蓄えた知識を基に自分で問題を作成し解決しようとする脳である。今やっている仕事の次に、どのようなことが大事であるかを想定して段取りを考える脳である。「指示待ち症候群」とは、この前頭前野の働きがスムーズでないことを示す。」(同書2425頁)

第2章         子供たちの脳は疲れ果てている、より

「彼らの最大のストレスとは、自らの抑制そのものである。この自己抑制を犠牲として学校生活に溶けこみ協調性を保ち、友人関係を維持している。自己主張をしない、自分の素顔を見せない、その場の雰囲気に自らをあわせ融和していく・・・。」(同書33頁)

「交感神経緊張が持続する状態ではアセチルコリンもまた消費量が増大する。大量に消費されたアセチルコリンがコリンと酢酸に分解され、アセチルCoAの供給が追いつかなくなり、結果的に、アセチルコリン産生が低下し、コリン作動系神経細胞の機能障害が引きおこされたと考えられる。学習・記憶のコリン作動系神経細胞が働けない状態がおこって勉強ができなくなっていることが理解できる。

アセチルCoAの供給不足の陰には、ミトコンドリアの機能障害によるATP生産性低下があることになる。学校は子どもたちに過剰な緊張を与え、学校に通えば通うほど子どもたちの学習と記憶にかかわる脳は疲れはてて勉強嫌いになっていく。高校や大学に進学したとたんに学習意欲が殺がれていく学生が多いことはよく知られている。子どもたちの学力低下は、大人たちがつくってきた教育システムが、本来好奇心にあふれ、学ぶことがうれしいはずの子どもたちの脳に拒否反応をおこさせていることが原因である。明治時代と少しも変わらない旧態依然とした学校教育のなかで、子どもたちは学ぶ意欲を殺がれ、生きる自信を殺がれ、社会性を育てることができず、人を信じられなくなって孤立化している。これからの子育てのなかで両親は現在の学校にこだわらない気持ちをしっかりもって、自ら子どもたちの教育を成し遂げる覚悟が必要になってきた。」(同書5556頁)

「すべての子供たちが生活環境のなかにもっている共通のストレス背景としては、@夜型生活による日常的睡眠不足状態、A情報量の多さに伴う競争社会での緊張持続、B協調性を重視する学校社会での自己抑制的生活があげられる。この状態に次の条件が一つでも二つでも上乗せされると子どもたちの生命の脳が持ちこたえられなくなってくる。

@重圧となる責任を負わされる、A受験勉強、部活での試合前の休みのないハードな練習、B感染症での発熱、C人間関係のトラブル(いじめ、友人関係、先生との関係、家族関係)、D交通事故や地震などの自然災害が加わることによって過緊張状態が閾値をこえ辛うじて保たれていた神経のバランスが崩壊する。」(同書6566頁)

「日本では、どうして子どもたちや若者が、こうも強制的に勉強を強いられるのであろうか。大人たちには、なにか大きな勘違いがあるようだ。」(同書76頁)

 

 以上、本書を読んで、特段気になった部分を引用したが、以上のことが「正しい」のであるならば、早急に日本の教育システムを見直さなければならない。

 私事であるが、我が家の子供達が小学生の頃、学童の会の役員をし、子供たちの面倒をみたことがある。その時に感じたことであるが、私たちの子供の頃に比べ、現代の子供たちがあまりにも「勉強」に対し興味を持っていないということである。「勉強」することに価値を見出せないというのでは、学力低下もやむなし・・・。そう思っていた。その原因が本書を読んでわかったような気がする。

「子どもたちの学力低下は、大人たちがつくってきた教育システムが、本来好奇心にあふれ、学ぶことがうれしいはずの子どもたちの脳に拒否反応をおこさせていることが原因である。」この「好奇心」が失われつつある。

問題はさらに根深いと私が思うのは、三池教授の指摘するところの「自己抑制し、話をまわりにあわせ、協調する」現象が、日本社会の体質として潜在していると思えるからである。日本の社会がこのような体質を有していることは、「創造力の育て方・鍛え方」(江崎玲於奈:講談社)(創造的企業活動のためにの「8.創造力を鍛える」中で紹介)や、創造力を伸ばす人、伸ばさない人(詳伝社)でも明かである。
 江崎玲於奈氏は指摘する。「日本では「他人と同じように」知識を得ることを目指すのに対し、アメリカでは「他の人と自分はどれほど変わっているか」を知るように徹底して教える。日本は、やや強引に「均質」ということを前提に社会習慣や制度が決められている・・・「日本人ならかくあるべし」というお手本を便宜上作成し、誰もが無理をしてそれに合わせるように努力しなければならない。それができなければ社会からはじきだされかねない・・・「お手本指向」の社会である。」
 また、軽部征夫氏は指摘する。「日本人には「没個性」を美徳とする習わしがある。 戦時中の国民精神総動員運動がもたらした影響は、日本人の独創性を決定的に奪った。日本はまず「組織重視」である。欧米は「まず個人ありき」である。・・・・日本では個人ではなく組織、集団単位でものごとを捉えようとする。・・・換言すれば責任のとれる個人、決定権をもった個人というのは日本ではひじょうに存在しにくい。・・・こうした「個」の埋没が日本の原動力を削ぎ・・成長を失速させた。」
 このような日本社会の体質は、日本人の「創造力」を減衰させていくのである。
 文部科学省は、学力低下を憂いて、ゆとり教育を修正しようとしているが、「教育カリキュラム」を強化し、ますます、子供達を「疲れる」方向に導くのであれば、本末転倒の行政であるといわざるを得ない。

三池輝久教授の上記著作を是非お読み下さい。