シリーズ:日本人の創造性を考える1

       創造的企業活動のために
                         弁理士 遠 山  勉
 本論文は、1997年12月18日に行われた、某企業研修での資料です。
 
1.はじめに
 企業活動の中で、誰しもが望むことは、自社の製品が売れるとか、研究成果が社会に受け入れられるとか、自分の仕事が上司に認められるとか、企業で働く者の地位や立場によって、様々な「望まれるべき事」がありますが、いづれにも共通していることが、それらが、対社会との関係、対人間との関係で評価される相対的価値感に基づくことであるということです。
 弁理士という立場上、発明を扱うことが多く、発明=技術ということから、このような仕事が自然科学上の分野であり、社会や人間とは一線を画した分野であるかのように思われがちです。しかし、このような発明ですら、対象は自然科学の分野であるものの、それを評価し、受け入れるのは、人間であり、社会であって、そこでは、既に社会科学の領域に踏み入れているといってよいでしょう。
 今回、企業内でいかに社会に受け入れられる創造を行えるのかという観点に着眼し、「創造的企業活動のために」と題して、考察してみたいと思います。
 
2.正しいのは誰?
 ここで、一枚の紙と筆記具を用意して下さい。みなさんにこれから情報を伝えますので、その情報に従って紙に書いて下さい。
 まず、隣の人の作品は絶対に見ないで、丸を書いて下さい。その丸の上に丸を書いて下さい。さらにその上に△を書いて下さい。そして、さらにその上に水平の線を引いて下さい。
 終わりましたら、隣の人に見せて下さい。どうでしょうか? 隣の人と同じ絵を書いた人もいるでしょうが、違う人もいるのではないのでしょうか。
 情報(=事実)は同じでした。しかし、結果(=解釈)は違っていました。
 
 では、だれの結果が正しいのでしょうか。答えは、「すべての人の結果=解釈が正しい」ということです。
 そして、皆様に理解して頂きたいことは、このような現象が、日常茶飯事起きていると言うことです。
 私たちは、何かが起こったとき、何かを決めるとき、何かトラブルが発生したとき、あるいは、何かについて議論をするとき、誰の意見が正しいのかを決めたがる傾向がありますが、ある事実に対する各人の理解、意見、考え方は、各人なりに正しいということなのです。
 事実だけは、誰にとっても一つであり、普遍的であるのに対し、そこから生じる各人の理解、評価はすべて異なり、しかも、すべて正しいのです。すなわち、他と違っていてもよいのです。
 
3.誰のため?
 何かを作るとき、仕事をするとき、企画をするとき、まず自分の意見、評価、価値判断があり、それに反する他人の意見等があります。他人と意見等を異にすると、人はその他人の意見に対し、反対したり、無視したり、自分の意見を通そうとします。すると、どのような現象が起きるかといいますと、他人との間で、衝突が生じ、両者が身動きできない関係に陥ったり、逆に無視されたり、自分自身が相手(社会)に受け入れられない状態が生じます。
 このような時、冷静にかつ客観的に行ってほしいことは、相手の意見等も、相手の聞き耳に立てば、それは正しいということを認識した上で、自分の意見等が、誰のためにあるのかを分析して頂きたいということです。
 往々にして、自分のメンツや見栄、立場を守るためであったりします。自己の行った仕事、企画、発明などが相手に評価され、社会に受け入れられるか否かを考えるとき、それらが、自分本位の視点からのものであり、他の者の視点を失ったものであるならば、独りよがりの、井の中の蛙となり、まったく、受け入れられないでしょう。
 では、どうすれば良いのでしょうか? それは、相手の聞き耳、理解の仕方を、受け入れるということがまず必要となりましょう。また、自己の仕事や考え方を、自己のために行うのではなく、他人のため、すなわち、相手の立場に立って、相手を喜ばすという観点で行うようにすると、意見の対立は生じないでしょうし、相手に喜んで受け入れられ、評価されることとなるでしょう。
 
4.失敗は成功のもと
 多くの成功者がその過去における失敗をバネに、それを克服して成功を勝ち取っていることが知られております。大発明もそのような失敗の上に成り立っていることが多いでしょう。
 失敗をすると、その失敗を繰り返さないために、その失敗の原因を探して絶ち、成功へと向かわせてくれます。このときの人間の心理状態はどうでしょうか。常に、失敗の原因を探求し、それを克服しようとする「努力なり英知」あるいは「探求心」を働かせているのではないでしょうか?
 こういった時の人間のエネルギーは極めて大きいものです。この力は、人を活性化させ、生き生きとさせることでしょう。失敗は成功のもとと言われる所以です。
 
5.成功は失敗のもと
 作曲家で、モーターランド等にも出演し、各方面でご活躍の三枝成彰氏が、某テレビ番組で、次のようなことを述べておりました。
 「ヒットした曲と同じような曲を作ろうとは思わない。成功をいかに捨てるかが問題だ。失敗は成功のもとというが、成功は失敗のもとでもある。よく企業30年説というのがあるが、これも過去の成功に拘泥しているが故のことであろう。日本経済も同じで、戦後50年の成功にまだ拘泥している。これを捨てない限り日本の将来はない。」
 
 発明や創作でも同様であると言ってよいでしょう。過去のアイデアにこだわっていると、そのアイデアの域から抜け出せない場合があります。過去の成功例を参考にすることが必ずしも「悪」とは言い切れませんが、過去の成功に慢心し、成功例に「主観的」に呪縛されてしまうと、知らず知らずの内に、失敗へと誘われてしまいます。
 「失敗は成功のもと」のときの心理状態には、失敗の原因を探り、それを克服しようとする努力がありますが、「成功」の上にあぐらをかいているときの心理状態には、成功を疑わず、安心しきった状態があり、単に傍観する状態となりがちです。
 過去の「成功」は、その過去の社会状況の上に成り立った「成功」であり、その過去において成功条件が整ったが故に、成功したのです。その「成功」を現在・未来にそのまま持ち込んでも、同じ成功条件が整うはずがありません。
 過去のヒット曲は、その時代背景故のヒットであり、社会状況や文化が異なった現代で、過去のヒット曲に拘泥した曲がヒットする保証はありません。過去の成功条件が変化し、あるいは失われてしまっていることを知らずに、過去に拘泥し、あるいは慢心していれば、それは自ずと失敗へと向かうことでしょう。
 
6.温故知新
 このように、過去の成功は必ずしも有益なものではありません。私たちは、過去の成功に拘泥せず、それを「客観的かつ冷静」に見て、現代に通用するか否かを見極める「目」が必要となってくるのでしょうし、通用させるにはどのように応用すべきか判断できる「智慧」が必要となるといってよいでしょう。
 温故知新という諺がありますが、これは、故きを温めて、新しきを知ると読みます。辞書によれば、「昔のことを研究して、現代のことを解釈・理解すること」ととあります。
 過去の成功を参考に、これを研究し、現代にも通用するよう、現代での成功条件を加味し、種々の英知をつぎ込んで、新しい成功を生むことが重要となりましょう。
 
7.模倣と創造
 ところで、日本人は模倣が上手であるが、オリジナリティ(創造力)はないといわれることが往々にしてあります。人間の資質としてはたして日本人は創造力に欠けるのでしょうか。
 模倣について文献を調べてみますと、「模倣」を正面からとらえた文献は以外にも多くない。その中で、注目に値するのが、社会学者ガブリエル・タルドの模倣説を基礎に「模倣」について論じた「模倣の社会学」(横山 滋:丸善ライブラリー)があります。その中から興味ある点を数箇所抜粋してみましょう。
 『タルドは、社会を捉えるにあたって、3つの概念を設定した。「模倣」「闘争」「発明」という概念である。ある「発明」がなされるとそれらが「模倣」されて伝搬し、いくつもの模倣の流れが生まれる。ある発明と発明とが結び付くこともあれば互いに反発しあうこともある。』
 『模倣された発明は、伝えられるうちに、特定の個人の中で他の模倣と出会うこととなる。一つの模倣は、ある時にはすでに存在している他の模倣と対立する。新しい模倣より既存の模倣の方が強ければ、新しい模倣が消滅するし、新しい模倣の方が強ければ、新しい模倣が古い模倣にとって代わる。別ななるときには、模倣は他の模倣と結合して新しい発明を生み出していく。』
 『ともすれば、私たちは、まわりからの情報をまったく遮断しなければ、オリジナルな発想はできないし、発明などできるはずがないというふうに考えがちであるが、・・・・むしろ模倣こそが重要で、問題は、その結果として得られる様々な領域についての知識や経験をどう組み合わせるかという点にあることを教えている。孤独な人間の孤独な努力でできることには限りがあるということなのであろう。』
 このように、タルドは「模倣」を必然のことと考えており、模倣なくして社会は成り立たないとしている。「社会は模倣の上に成り立っている」のです。
 模倣と創造の関係について画家の佐々木 豊氏は「泥棒美術学校」(芸術新潮社)で次のように述べています。
 「模倣がなぜ悪い。ピカソでもロートレックの模倣から出発したではないか。梅原はどうか? 初期作品はルノアールそっくりじゃないか。模倣したくなるほど惚れ込めるのは、こちらに呼応するなにかがある証拠だ。」
「模倣、大いに結構。だれでも模倣から出発する。・・・似てしまうのだけれど、いつか必ず親離れする時期がくる。・・・ピカソは古典的名画からの構図盗りに徹して数々の傑作をものにしている。ヴァンダーリッヒにしても、デューラーやマネから構図を拝借した作品を数多く描いている。こうして模倣と剽窃の弊害を引き算で消していくと、どうしたって自分自身の独自性が浮かんできやしないだろうか。誰にも何にも惚れ込めないことにこそ、絶望すべきだ。それは感受性の欠如に他ならないからだ。」
 「ある日、世界美術全集のルネッサンス篇をめくっていたら、(セッチニアノの)母子像が目に入った。おや?どこかで見たことがあるぞ。ピカソだ。ピカソの絵がこの母子像を見ながら描いたことは確実のように思われた。この発見は胸をときめかせた。天才は霊感ではなく、ネタをもとに描くのだ。しかし、見落としてはならないのは、ただ模したのではなく、ピカソの思考がそこに表現しつくされているということである。」
 
 このように、人間の行動の基礎には必ず模倣があり(人は他を模倣して成長する)、模倣なしに社会は成り立たないといってよいでしょう
 しかし、「成功は失敗のもと」の項でも述べたように、過去の物である「すでに存在す物」を単にコピーするだけの模倣は、社会に認知され、承認されうる、模倣とはいえません。
 模倣が許されるとき、その模倣の上には、何らかの「許されるべきもの」が付加されているからといってよいでしょう。創造が模倣を伴う以上、模倣か創造かの区別は、単なる模倣の事実の有無では決し得ません。模倣か創造かを決するのは,結果物がそれまでに存在していた物と比べて一定レベル以上の独立的存在価値,すなわちアイデンティティを主張できるかによると考えます。よって,創造性の本質はアイデンティティであるといってよいでしょう。
 特許法では、発明の保護と利用を奨励しています。ここでいう「利用」には模倣が含まれると考えてよいでしょう。但し、利用発明の規定や侵害の規定が存在するのは、模倣する以上、手本である先人の技術に対し、敬意を表せよということです。
 特許法を含め知的財産権法は,模倣についての最低限の基準を定めております。このような最低限の基準を含む社会における「模倣のルール」は,国により時代により異なります。日本において許容される模倣の範囲と欧米において許容される模倣の範囲は異なります。欧米先進国に追いつこうとしていた明治〜戦後と,世界有数の先進国の一員となった現代とでは,許容される模倣の範囲は異なります。付加したアイデンティティがどれだけ価値的なものが問われる時代といえましょう。
 
8.創造力を鍛える
 では、どうしたらアイデンティティ豊かな創造ができるようになるでしょうか。今後の日本人の課題です。この点、創造について注目に値する文献として、「創造力の育て方・鍛え方」(江崎玲於奈:講談社)があり、大変参考になるので、ここにその内容を抜粋して紹介します。「  」内は引用文です。
 
 「独創的な研究開発を進めるための鍵は何か」という質問に対し、江崎氏が強調するのは次の2点です。
 「まず1点は、自由闊達にやることです。「創造」という活動は個人の活動ですから、個人の自由が重要です。
 第2点は、テイスト(本物を見抜く感性)を磨くことです。何が重要で、何に着眼したらよいかを正しく見極める力、本物(本質)は何かを捉える感性がなくては独創的な仕事は行い得ません。テイストの善し悪しはウイズダム(知恵、英知、見識)に関わる問題でもあります。」
 
 まず、第1点について、検討してみたいと思います。創造活動を規制してしまう要因となる自由の規制があるとすれば、どういった点でしょうか。
 これには、「意識的規制あるいは外在的規制」と、「無意識的規制あるいは内在的規制」があります。意識的規制(外在的規制)とは、個人の創作活動に対し、外部から意図的に制限を加えることです。例えば、江戸時代の「新規ご法度令」や、クリントン大統領が発表したクローン人間の研究禁止令などです。これらは、意図をもって創作を規制をする場合ですから、その意図が正しい限りにおいては問題が生じません。
 これに対し、無意識的規制(内在的規制)は、人々が形成する社会の中に内在し、無意識の内に他人の、あるいは自己の創作活動を規制してしまう場合です。
 これは、どのようなことかと言いますと、江崎氏による指摘を引用すると、例えば次のような場合です。
 「日本では「他人と同じように」知識を得ることを目指すのに対し、アメリカでは「他の人と自分はどれほど変わっているか」を知るように徹底して教える。日本は、やや強引に「均質」ということを前提に社会習慣や制度が決められている・・・「日本人ならかくあるべし」というお手本を便宜上作成し、誰もが無理をしてそれに合わせるように努力しなければならない。それができなければ社会からはじきだされかねない・・・「お手本指向」の社会である。
 アメリカでは、斬新なもの、他人とは違ったものつまりは例外を追い求める方向に傾く「例外指向」の国である。日本とは逆に、量的なものより「質」の差を実際以上に強調する。質の差が問われる社会ではアイデアが命である。そのために自由と個人が尊重される。子どもを「模範」という鋳型にはめこむ日本に比べ、創造性をもつ人間を作りやすい環境はアメリカのシステムに理があるといわざるを得ない。」
 すなわち、日本人が形成してきた社会・教育体制は、自らが創造性を規制してしまう社会構造であるといえるのでしょう。
 創造性を規制するという点で、日本にどのような問題があるのか、もう少し江崎氏の分析を参照してみたいと思います。
 
 「教育という観点からみて、学生を評価するにあたり「アメリカの大学の成績は、excellent(最優秀)、very good(かなり優秀)、good(優秀)、fair(良)という4段階で評価される。最高のexcellentを得るには、単に学力が高いだけではだめで、「独創性」がいかに高いかが問われる。このexcellentを目指して学生たちは、自主的に、自律的に猛烈に勉強する。日本の学校教育での評価方法は、very good、あるいはgoodの学生を大量に育てることに重点を置いたものだといえる。」
 
 すなわち、人間の評価において用いる物差しが、アメリカと日本とでは異なるということです。
 
 「過去一世紀、日本人は欧米先進国に追いつけ追い越せと「キャッチアップ」型の努力を重ねてそれなりの成果を収めてきた。(そのために「模範」という鋳型に埋め込んで「均質」に人間を造る必要があったのでしょう) 
 しかし今やこの手法だけではわが国の将来の発展に限度がある。二一世紀、いわゆる文化・学術立国を目指すならばこの国を支配してきたパラダイムを勇気をもって変えていかねばなりません。われわれは今や創造力を身につけ新しい歩みを始めねばならないところに直面している。」
 
 では、創造力を身につけるために自由闊達にするということはどういうことでしょうか。江崎氏は「意思決定の自由」を強調します。
 「自分の才能を信じ、自由闊達に創造力を発揮することに努めなければなりません。(そのためには、)自分の運命を決するような選択は自分でしなければなりません。ところが、日本の社会では自分の生涯重要な意味をもつ選択を実質的に他人まかせにしてしまうところがあります。意志決定の訓練を怠ると、仕事上の問題の選択やアプローチの方法など、すべておぜん立てしてもらわないと落ち着かない人になる。
 子どもの意志決定にまで親が介入してしまうか、人生の先輩として単なるサジェスションを与えるに止めるか。日本の親の多くは前者であり、アメリカ人の多くは後者である。
 人はリスクを負って自分がした決断を実行するときに、はじめて責任を持ち、目的達成に意欲を燃やすものだ。
 強制的に学ぶべき課目決められ、・・素直に受け入れて覚え込む、というやり方はアインシュタインのようなタイプの人たちがもっとも苦手とする。まず自分の力で咀嚼し、疑問があれば心ゆくまで追及して自分のものにするという態度。・・こういう学び方をすることによって初めて知識的好奇心や空想力をかき立て、自然の驚異に感動し、やがてその分野で創造力を発揮できるのである。
 子供の教育には・・子供に労力をかけて「世話をする」という面と、子供に自信を持たせ自発的にするよう「はげみ」を与えるという面がある。日本では前者に重きが置かれ過ぎている。(世話をされすぎて)小さいころ意思決定の訓練をやりつけない人は、年をとっただけでは急に明快な決断を下す能力を得ることはできない。
 そこで多くの場合、社会的コンセンサスに基づき、周囲にも気配りをしながらリスクの少ない無難な決断を下すのが常である。そのような決め方では、当事者には大切な意味を持つ個別の事情は軽んじられる。一人一人が自分で考え、自分で意思決定をする訓練を積むこと。これが自分を見失わないで幸福な人生を生きる秘訣である。自分で考えるということは、自分に主体性を置き、家族や学校のこと、仕事や勉強あるいは趣味や娯楽のこと、さらに自分の素質や能力、自分の満足感などについて考えを巡らすということである。そして、置かれている環境から自分は何を得ているのか、また逆に自分はそれらに何かを与えているか、将来与えることができるか、というようなことを整理した上でこそ、将来の計画も立てられる。」
 
 次に、独創的な研究開発のために必要とされる第2の鍵、「テイスト(本物を見抜く感性)を磨くこと」について考えてみましょう。
 
 江崎氏は、「エサキダイオードの研究過程で私の着眼点がよかったとすれば、既成概念とは異なる結果が出たとき、その重要性を即座に見抜き、興味をもって原因解明に取り組んだことでしょう。」と述べております。この「重要性を即座に見抜き、興味をもって原因解明に取り組む」という点が、氏の言う「テイスト」にあたるところです。実際の研究現場で、このようなテイストを引き出すためのマニュアル的手法はありません。私の弁理士という職業についておりますが、そこで必要とされる能力は、「発明の本質を瞬時に見抜きこれを文章に表現する力」です。そこには特許法に従ったある種の手法があるのですが、これをいくら教えても、いつまでも発明の本質を見抜けない人がおります。この場面でも江崎氏の言う、「テイスト」の必要性を感じます。
 実感として、「テイスト」の有無は天性のものではないかと、疑問を生じざるを得ません。しかし、そうでないのでしょう。
 江崎氏は続けます。
「人間と動物の異なる点を考察すると、動物は遺伝子に組み込まれた固定的プログラムに従って行動するだけであるが、人間は、遺伝子情報(プログラム)を経験や学習による遺伝子外情報により書き替えることができる。今の時代に即したプログラムが必要です。」
 すなわち、プログラム次第で、「テイスト」を得ることができるのです。
 
 安易なお手本を示して、それを倣いなさいとやるだけではお手本以上のものが出てこない。
 「真空管から半導体に移った技術革新を通じて現代人が学べる教訓が一つある。それは、真空管をいくら研究し、いくら改良しても、トランジスタは絶対に生まれないということです。(そこにはテイストが必要なのだ)その視点から日本人の新しい生き方を考えてみよう。
 学校で生徒達は、自発的というよりやや強制的に大学入試のための知識の詰め込みを受けている。そして、学ぶことは苦しい努力のみという必ずしも正しくない概念を植え付けられることが問題です。学ぶことは、自分自身を成長させ、個性を育てることを認識し、学びには必ず新しい発見の喜びが伴い、大変やりがいがあるものだということを実感してもらわなければなりません。」
 ここにテイストを磨くための鍵があるのでしょう。
 
 江崎氏はさらに進めます。以下、興味深い点を紹介します。
 
@「直感を大切にする」
 カリフォルニア工科大学のスペリー教授によると、想像力とか、直感力や創造力は右脳にあるとされる。こうなると、学校での読み,書き、ソロバンは全部左脳の働きですから、いくら学校で勉強しても必ずしも右脳にある創造力を養い育てられないのではないかとの疑問が生じてきます。
 
 今の学校では、カリキュラムがいっぱいある。そのすべてを食べると消化不良を起こす。真に創造的な生き方をしようと思えば勉強の世界でもつまみ食いが大切で、本当に自分好きなものだけを食べるやり方の方が利口である。それをしたのが、マイクロソフトのウイリアム・ゲーツ(ハーバード大学中退)である。
 
 サイエンスには非常に論理的で、理性的で、冷徹で、厳密なロゴスの面(これは言わば仕上げられた成果で学者が胸を張って発表するところのものです)と、新しい成果が埋まれる創造の課程、言わば主観的、個性的、パトス的な側面(森の中を手探りでさまよい、答えを求めて案中模索、試行錯誤し、悪戦苦闘する面)とがあるが、アインシュタインは後者こそサイエンスの神髄だと言っている。そうした(パトス的な)世界に住む科学者達は、鋭い知性的ウイズダムのもと、直感やインスピレーションを頼りに研究を進め、たまには闇の中で光彩を放つような解答を見いだして歓喜します。ここにじつは創造性の一つの秘密があります。
 
 ベル研究所の表玄関ロビーには、ベルの胸像があり、そこに「時には踏みならされた道から離れ、森の中に入ってみなさい。そこではこれまで見たことのない何か新しいものを見いだすに違いありません。」という彼の言葉が刻まれている。
 これに対し、日本では、先生や経営者は、学生や社員に向かって逆のことをいう。むしろ、踏みならされた道を歩きなさいといって、男子学生のヘヤースタイルや女子学生のスカートの丈にうるさく注文をつけたりしている。
 
 我々が仕事をするモード(方法)には2つあり、一つはコンペティティブモード、他の人と比べながら競争で働く、という考え方で、その反対は、ゴーイングマイウエイ、自分で自分の道を切り開いていこうという考えかたです。今までの日本は、あまりにも欧米との競争を常に意識しながら物事を進めてきたのではないでしょうか。ゴーイングマイウエイの方はリスクはありますが、より挑戦的です。そういうことができる創造的人材をこれからは作りだして行かねばならないと思われます。
 
A「鋭いマインドと豊かなハートを」
 われわれは、分別力と創造力を持っている。近代科学を進歩させる原動力は創造力なのであるが、社会の安定のためには分別力を養うのも不可欠である。
 日本人は小さいころから学校で分別力を養う訓練を繰返し受けるため、分別力過多、創造力不足の人間ができあがる。
 組織の保持には分別力が欠かせないが、その改革には創造力を要する。今度は創造力をもって新しい歩みを始める時期に来た。
 
B「自己発見の旅へ出よ」
 優れた科学者は一芸に秀でた人間というよりも、むしろあらゆる視野を兼ね備えた教養人です。この幅広く多角的な視点を持つということが、創造力の原動力になる。
 (才能を引き出すため)アメリカでは、学生個々の「自己発見」に重きを置いています。
 自己発見のプロセスでは、自己の夢中になれるものを見いだすと同時に、そこに自己のタレントがあるかどうかを見極めることが大切である。
 この自己発見の道を経ることにより、人間は多角的な視点を備えるようになり、それが創造力の大きな原動力となる。
 今の日本の子供が物事に熱中できないのは、どうも成長する過程で自己発見のプロセスをきちんと踏んでいないからではないかと思われる。
 我が国では、まず協調性や忍耐力を教え込み、集団になじみやすい子供に育てようとする傾向が強いですが、アメリカでは自発性、自立心の大切さを教え、自分の考えや意見を伝える表現力をつけさせることを優先する。個性や創造力を育てるという立場から、日本の現状は満足すべきではない。
 
9.創造は自己表現の一つ
 創造ということを考えるとき、それが個人の資質の現れであり、「自己表現」の一つであることは、容易に理解されることでしょう。そして、創造は、他人に束縛されない個人の自由の下に生まれるものであり、他人の目を恐れず、他との区別をつける、アイデンティティの宣言です。
 しかし、創造である表現を、その創造についての自己の意図(解釈)とは異なる解釈で他人が受け取ることも、先に述べた通り事実であり、避けられないことです。従って、独りよがりの表現をしてみたところで、社会には容認されません。
 表現とは、そして、創造とは、自分自身の中にあるのと同時に、相手の中にあるのだということを忘れず、誰のため、すなわち、相手を喜ばすためにあると考える。そこに、始めて、本当にクリエイティブと賞賛される創造性が存在するといってよいでしょう。
 
10.社会に活きた自分そして技術を
 人間はそれを取り巻く環境、相手、社会から分離、孤立したものではなく、それらと一体となった、有機的存在であり、自己があって他人・社会があり、他人・社会があって自分があるものです。自己を優先し、自己に他人を合わせようとしている限り、社会に承認されることはありません。
 社会に活かされる自分、技術、そして企業を作っていくには、社会と一体となった自分を客観的に見た上で、社会に埋没するのではなく、社会に承認される自己のアイデンティティを確立していくことが重要といえるでしょう。
 
 最後に、
「創造力の育て方・鍛え方」(江崎玲於奈:講談社)は一読の価値があると思います。是非お読み下さい。
                                  以上
 
遠山 勉