有明の月
(後)
エプロンをした平次が鼻歌を歌いながら食器を洗っている。じゃんけんに負けてしている割には楽しそうだ。
キッチンテーブルの上で音を立てているコーヒーメーカー越しに、新一は椅子に腰掛けて平次の後ろ姿を眺めていた。平次がしているのはデニム地のエプロン。彼が自宅から持ってきた物だ。初めて新一の家でふたりで食事を作ったとき、新一は母のエプロンを平次に差し出し、彼に拒絶されたのだ。捨て身のギャグで笑いを取る関西人でも、白のフリル付きエプロンは嫌だったらしい。
「工藤。今日、学食で日替わり定食食っとったやろ」
新一に背中を向けたまま平次が言う。疑問ではなく、断定で。
新一は目を見開いた。
学食で彼は自分の存在に気づいていたようには思えなかったというのに。
「そばにおったんなら、声かけてくれたらええのに」
「……ああ」
水音で返事が聞こえなかったのか、なぁ? と平次が肩越しに振り返る。
「話が盛り上がっていたみたいだから、遠慮したんだよ」
「そんなもん、気にせんでええのに」
平次がまた洗い物に専念し始める。すすぎの終わった食器が次々と水切りかごの中に入っていく。
「おまえだって俺に気がついていたんだろ? なら、そっちから声をかけろよ」
「工藤がトレイを返しに行くのが見えただけや」
「けど、さっき日替わり定食って……」
思わず尋ねた新一に平次が肩を揺らす。水道を止めて、手を拭きながら平次が振り返った。
「俺、探偵やし」
ふざけた答えを返して、平次が笑う。
新一は目をすがめて彼を見上げた。無言のままコーヒーメーカーのスイッチを切る。用意してあったマグカップにコーヒーを注ぎながら、新一は静かに聞いた。
「服部、砂糖はいくつだ?」
予想通り彼の笑顔が引きつるのを心の中でこっそり楽しみながら、新一はシュガーポットに手をかけた。
「服部?」
「おまえの持っとったトレイの上がちらっと見えたんやって! 日替わり定食の大皿はほかのと色がちゃうやろ」
平次が新一の手からシュガーポットを奪い取る。
彼の慌てた様子に新一は声を上げて笑った。
「なんちゅう脅しをかけるんや、まったく」
砂糖を入れたコーヒーの飲めない平次がぼやく。
心ゆくまで笑ってから、新一はトレイにマグカップを乗せて立ち上がった。
「居間で飲もうぜ。俺は使うんだから、それはちゃんと持ってこいよ」
平次の手の中にあるシュガーポットを視線で指して、新一はキッチンを出た。
「たんてーの服部にもうひとつ、聞きたいことがあるんだが」
新一はソファに座って、平次を見下ろした。ソファは落ち着かないと言って彼はいつもソファを背に床に座る。あぐらを組んだ足の上でクッションを抱えるのが、近頃の平次のおきまりのポーズだ。平次が言うには、抱える物があった方が安定するらしい。大の男がクッションを抱えているのは違和感があるが、ぬいぐるみでないだけましかと最近新一は思うようになった。平次とぬいぐるみの取り合わせは、あまり想像したくない。
「なんや?」
ブラックコーヒーをすすっていた平次が視線をあげる。
聞きたいことと言われても心当たりがないような、疑問符に満ちた視線に新一は少しばかり苛立つ。
平次本人から、彼女のことを言い出してくれるかも知れないと新一は思っていた。だが、彼は話し出す素振りすら見せない。
「おまえさ。彼女が出来たんだろ?」
ストレートに新一は聞いた。
あまりにも普段と変わらない平次に、鎌をかけるのも遠回しに聞くのも面倒になったのだ。ただ、声に責める響きがないようにだけ注意をして。
平次が大きく目を見開く。彼がマグカップを乱暴にテーブルに戻したせいでコーヒーが少しこぼれた。
「誤解や!」
抱えていたクッションを放り出して、平次が新一に詰め寄る。彼の勢いに驚いて、新一はソファの上を後ずさった。
「誤解って……。おまえが自分で言ってただろうが! 学食で!」
彼の鼻先に指を突きつけて新一が言い返すと、平次が再度目を見開いた。昼間の自分の発言に今更気がついたような平次を、新一は冷ややかに見つめた。
「好きなやつがいるだの、おまえらには見せないだの。食いながらしゃべっていたじゃないか。普通あんな話を聞いたら、彼女が出来たと思うだろうが。だいたい、いつからつきあっていたんだよ。俺にまで内緒にしやがって……。全然気がつかなかった俺も鈍感だと思うけどさ」
愚痴っぽくなりかけて、新一は口を閉ざした。
平次はと言えば、新一の言葉を遮ろうとわたわたと振り回していた両手で頭を抱えている。
「あれはちゃうねん」
「違う? なにが?」
腕組みをして新一が問いかけると、ソファの上できっちり正座して平次が答えた。
「彼女がおるゆうのは、嘘や。ちょお訳があってやな。しかたなくああゆうたんや」
「わけ?」
「よう聞いてくれた。聞くも涙、語るも涙の物語やで」
正座のまま身振り手振りを入れて平次が話しだす。
要約すると、先日あった飲み会で平次が席を外している間に、賭の話が出たのだそうだ。平次を落とすのは誰か、と。学部内外の女の名前を挙げて、本命対抗ダークホースなどと悪友たちが話していたのだという。
「ふざけたことすな、ゆうて怒ったったわ」
確かに失礼な話だ。平次に対しても、名前の挙がった人に対しても。
抱えていたもやもやが一気に晴れて、新一は軽くなった心で尋ねた。
「それで、今後そういう話が出ないように牽制しようとしたって訳か?」
「まぁ、それが一番の理由やな。せやけど、まさか工藤に言い訳せなならんようになるとは思うとらんかったわ」
どことなく嬉しそうに平次が言う。
「気になったんか? 俺の彼女」
新一は素直にうなずいた。平次の顔が輝く。
「まさかおまえに隠し事をされるとは思わなかったからな。嘘がすぐ顔に出るやつなのになぁ。探偵眼が曇ったのかと思ったぜ」
「なんや。女の存在が気になったんとちゃうんか」
つまならそうに呟いて、平次がずるずるとソファから滑り落ちる。定位置に収まって彼はまたクッションを抱えた。
「好きな女が出来たら言えよ。協力してやるから」
頭の天辺を見下ろして新一が言うと、平次が新一を振り仰いだ。
「彼女を作る協力? いらんわ。そんなん」
「自力で落とすって?」
「工藤の協力は嬉しいけどな。女作るときにはいらんわ」
「そうか」
新一は残っていたコーヒーを飲み干して、息を吐き出した。
もう一つ平次に言っておきたいことがあった。
「今回みたいな変な隠し事はもうするなよ」
気になって仕方がないから。
本心の部分は彼に告げずに、新一は平次の頭を叩いた。
「隠し事、なぁ……」
あおるようにコーヒーカップを空けて、平次が言った。その重たい響きに新一は、越えてはいけない線を越えてしまったのかと思った。踏み込んではいけないプライベートは誰にだってある。いくら親友を自認していても、彼の内側にまで入っていいわけがない。自分にそんな権利はない。
「悪い。言い過ぎた」
謝る新一に平次が身体ごと振り返る。
「別に謝るようなことやないで」
彼の笑顔は明るくて、新一はすこし安堵した。
その笑顔をわずかに苦笑に変えて、平次が問いかける。
「……なぁ。工藤。俺がほんまに隠し事をしとったら、どないする?」
「どうもしねぇ。というか、どうしようもねぇだろ? 秘密にしたいことなんて誰にでもあるんだから」
秘密にしなければならないこともある。
自分がコナンだったことを隠し続けたように。
「そらま、そうやけど」
珍しく平次が口ごもる。
「なら、工藤。おまえにはあるんか? 秘密」
「……なくは、ない」
平次の彼女の存在が気になってしょうがなかったことが新一の頭をよぎる。
嘘だとわかった今では、情けなくて彼にはいえない。
新一の顔をじっと見つめて、平次がため息をついた。
「そか」
「お互い様だろ?」
うう、と唸って平次がクッションを抱きつぶす。
見上げてくるすねたような目がなぜだかとても心地よくて、新一は彼の額を指ではじいた。
夜十時を回ったところで、いつものように平次は帰っていった。
酒好きなのに、彼は新一の家では酒を飲もうとしない。もちろん、バイクで来ているせいだ。
たまには泊まらせて、彼と推理小説を肴に酒を飲みたいと新一は思うのだが、平次はそれを承諾しない。一緒に食事をして遅くなっても、泊まっていくことはないのだ。
静かになった居間に、平次のお気に入りのクッションが転がっている。抱きつぶされて、変形したそれを新一は拾い上げた。平次がするように床に座って膝の上で抱きしめる。
平次が帰った後に感じる寂しさは、誰もいない家に帰ったとき以上のものだ。季節は夏に向かっているというのに、部屋の中が寒く感じる。
新一は腕を伸ばしてサイドボードから父の洋酒とグラスを取り出した。
注ぐにつれて、甘い洋酒の香りが広がる。少し酔いたくて、新一はいつもより多くグラスを満たした。
平次に彼女がいるという話は嘘だった。
それをうれしく思った自分がいる。
まだ彼は自分とともにいてくれる。
彼女が出来れば明け渡さなければならない、彼のプライベートな時間はまだ自分のものだ。
苦笑しながら口に含んだアルコールが、舌を焼きながら身体のなかを流れ落ちていく。ぽっと胃の中が温かくなる。それでも部屋は寒いままだ。
普段なら酔ってしまう量を飲んだのに、新一は酔えないままソファに寄りかかっていた。口の中にはまだアルコールの苦みが残っている。美味い酒なのに、なぜか今夜は苦かった。もう少し飲もうかと、瓶に手を伸ばしたところで携帯電話が鳴った。
平次からの着信。
瓶をつかむはずだった手で携帯電話を取り上げる。
「はい」
『工藤。まだ寝とらんかった?』
「まだだよ。どうした?」
新一は目を閉じた。
平次の声を聞いていると寒さが消えていく。
『いや。別に用事はないんやけどな』
「用事ないのかよ」
『……なぁ、なんかあったんか? 今日。俺が帰るとき、なんか浮かん顔しとったやろ? それがちょお気になってな』
ようやくアルコールが回り始めたのか、ぼんやりしてきた頭で新一は考えた。
なにか?
あったよ。
彼女が出来た話が気になって。
隠し事をされたのが寂しくて。
それが全部嘘で。
妙に嬉しくて。
よくわからないけど、安心している。
それなのにおまえは帰って。
部屋が静かすぎて。
酒を飲んでも酔えなくて。
浮かない顔をしていたのはたぶん。
おまえが帰った後、部屋が寒くなるのがわかっていたせいだ。
「別に何もないぞ」
新一はそう答えた。
「おまえが帰ってから酒を飲んでいるぐらいだ」
『一人で飲んどるんか?』
「あたりまえだろ? 俺しかいねぇのに」
『もう結構飲んどるやろ。声がぼけとるぞ。ほどほどにしとかんと、明日きついで』
「電話で止めても止まらないぜ。止めたきゃ、飲みに来いよ」
笑うと平次が唸るのが聞こえた。
「もう今夜は飲まない。眠くなってきたしな」
携帯電話を持つ指先まで温かくなって、閉じた瞼を開けるのが億劫になってきた。このままここで眠ってしまいたいほどだ。
飲んでいるときはまったく酔えなかったのに、平次の声を聞いているうちに酔いが回ってきた。
『居間におるんか? そこで寝たらあかんで? いくらなんでも風邪を引く』
「わかってる。なぁ、服部、今度一緒に飲もうぜ」
彼と酒が飲みたい。
酔いに任せた声で誘いかけると、電話の向こう側の空気が固まった。
「なぁ」
『……せやな。今度飲もう。今度な。今度』
今度今度と呪文のように呟く平次に新一は笑った。
「じゃ、俺は寝るから」
『おう。おやすみ。ちゃんとベッドに入るんやで』
「わかってる。おやすみ」
電話を切って、新一はふらりと立ち上がった。
クッションを持って部屋に戻った新一は、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
平次のクッションを抱いたまま。