有明の月
(前)
学食は混んでいた。二限目を終えた学生が次々と流れ込んでくる。
工藤新一は鞄で席を確保すると、友人たちと一緒に食券を買う列に並んだ。何も考えず日替わり定食にして、人混みに流されるようにトレイに乗った定食を受け取る。
トレイを持って振り返った先に、新一は親友の姿を見つけた。
明るい茶髪の多い中、彼の黒髪は目立つ。
剣道をやっているせいか、きれいに伸びた背筋も。
標準語に紛れることのない関西弁も。
どこにいても存在感のある、大阪にいたライバル兼親友、服部平次。
四月に上京してきた彼は、学部は違うが新一と同じ大学に在籍していた。入学してからまだひと月しか経っていないのに、彼はすっかり大学にも一人暮らしにも慣れたらしい。ちょくちょくバイクを駆って新一の家にも遊びに来る。
平次たちのグループは新一たちのテーブルの死角。ちょうど柱の影になる位置を陣取っている。そのせいですぐ近くにいたのに気がつかなかったらしい。
友人たちの中心で笑っている平次の後ろ姿を見やって、新一は声をかけずに自分の席に着いた。なんとなく、盛り上がっている彼らの中に入ってはいけないような気がしたのだ。
新一と同じテーブルについた友人たちが、食べながらとりとめなく話し出す。
同じ学科のうわさ話。
バイト先の愚痴。
もちろん女の話題もある。
それに相づちを返しながら、新一の耳はときおり聞こえてくる平次の関西弁を追っていた。
「へぇ、しらんかった。そうやったんや」
「顔なんてもうよう覚えとらんし……。痛っ! 蹴るなや、あほ」
「せやかてしゃあないやろ。好みとちゃうし」
新一は定食に申しわけ程度についていたサラダを口に運んだ。ぱさついたキャベツの千切りをアイランドドレッシングで誤魔化して食べる。
あちらでも女の話題のようだ。
あまり興味のもてない話だが、聞くともなしに聞いてしまうのは、同じテーブルの声ではない。
新一といるときと同じように楽しげな話しぶりで、ふたりの時には話題に上ることのない話に興じている、平次の声。
この手の話を新一が好まないのを知っていて、平次は話題に出さないだけで、実は好きなのかも知れない。
「好きなやつおるし」
新一は一瞬箸を止めた。
食べながら意識だけが平次の方を向く。
「浮気する気はないねん」
彼女なんていたか?
新一はみそ汁を口に流し込みながら考えた。
少なくとも自分の前ではそんな素振りは見せなかった。
日曜は毎週のように新一の家に遊びに来るし、事件と聞けばすぐに飛び出してくる。恋人とデートなどする暇はないように思う。
大雑把なようで器用なところもある男だから、新一に隠れてつきあっているのかも知れない。
隠す必要がどこにある。
新一は皿に残ったトマトに箸を突き刺した。
おもしろくない。
甘酸っぱいトマトを毛羽立った気分ごと咀嚼して、飲み込む。
それでも気は晴れなかった。
少なくとも新一にとって平次は、一番親しい人間なのだ。
その彼に隠し事をされているというのは、胃のあたりが冷えるような寂しい気持ちにさせられる。しかも、自分以外の友人には、話している。今。
「工藤は今度の飲み会も出ないのか?」
不意に話しかけられて、新一は顔を上げた。
自分の内側に沈み込んでいて、友人たちの話の流れが見えなくなっていた。それでも、昨日誘われた飲み会のことだろうと見当をつけて、うなずいておく。
「かわいい子が揃うっていうのに」
「俺はバイト休んで行くんだぜ」
もったいないと口々に言われて苦笑する。
「興味がねぇんだよ。殺人でも起きたら呼んでくれ。すぐに行くから」
軽く冗談めかすと、友人たちが笑う。
「女より事件がいいっていうのは、不健康だぞ。工藤」
目が笑ったままの忠告を、新一はうるせぇと一蹴した。
今は確かに女より事件の方に惹かれる。
事件の知らせが入れば、なにを差し置いても現場に行きたい。
そのあたりの新一の性分を幼なじみの毛利蘭はよく知っていたが、その彼女ですら遊ぶ約束を反故にするたびにあきれ果てていたのだ。ごく普通の女なら、まず怒り狂うのではないだろうか。「事件と私とどっちが大事なのよ」などと問いつめられるのは、想像しただけで鬱陶しい。正直に「事件」と答えたら、その場で振られることは間違いない。結局一番理解のある蘭も、事件最優先の自分より、ほかの男を選んだ。
新一はため息をはき出した。
入学以来何度か告白されたけれど、すべて断った。この先出来ればそういう気まずいシチュエーションはさけたいのだが。
「連れてくるわけないやろ。おまえらに見せるんはもったいないわ」
新一は思わず声の主の方を見た。
だが、柱が邪魔で平次の姿は見えない。
新一はトレイを持って立ち上がった。
「ちょっと図書館に用事があるから先に行く」
まだ食べている友人たちを置いて、返却口へと歩き出す。
用事などなかった。
ただ平次の声を聞いて、胸の中にもやもやとした物がわだかまるのが耐えられなかったのだ。
新一はもう一度ため息をついた。
重たい門扉を閉めて、新一は玄関に向かった。
五限目の講義を終えて自宅へ帰り着く頃には、すっかり日も落ちて薄暗くなってきている。消えそうな夕焼けをバックに建つ工藤邸に、灯りはついていない。新一の両親は相変わらず海外を飛び回っているのだ。
暗い玄関ポーチにたどり着いて、ポケットの鍵を取り出す。鍵を開ける前に、携帯電話が鳴り出した。取らなくても、平次からだと着信音でわかる。彼が勝手に自分専用の着信メロディを設定したのだ。
「よお」
首で電話を挟んで、扉を開ける。
やはり玄関ホールも真っ暗だ。慣れてはいるが、寂しい光景。
『工藤。今おまえどこ?』
「ちょうど家に着いたところ」
鍵をかけて家に上がる。
居間の電気をつけて、新一はソファに身体を投げ出した。
『まだ飯は食っとらんな?』
「まだだよ。それがどうした?」
『あんな。今日帰ったらおかんから荷物が届いとって、中に工藤と食べてくれゆうて野菜がぎょうさん入っとったんよ。キャベツにジャガイモにニンジンにピーマンに……』
箱をあさりながら話しているのか、声の後ろでかさごそと音がしている。
「おまえ自炊してるじゃねぇか。それぐらい傷まないうちに使い切れるんじゃないのか?」
なんでこの時期にリンゴやねん、と母親からの荷物につっこみを入れていた平次が、まぁなと肯定した。
『せやけど、せっかく工藤と一緒にて送ってくれたんやし、一緒に食べようや。親戚が実家に送ってくれたやつやから、形はようないけど美味いで』
な? とせがむように言われて、新一は笑いながら応えた。
「じゃ、お母さんのお言葉に甘えるとするか。米だけ研いで待ってるよ。確か冷凍庫の中に、前におまえが放り込んでいった肉があると思うし」
『まだ使うてなかったんかい』
「俺はおまえほどこまめじゃねぇ」
つっこみは即答で跳ね返しておく。
『あれが残っとるんかぁ。したら……』
献立を考え始めた平次に新一は声を殺して笑った。
「それはこっちに来てからやれよ。腹減ったし」
せやなと言って、電話は切れた。
床に置きっぱなしにしていた荷物を拾い上げ、新一は自室へ向かった。
階段を上りながらふと考える。
今日、学食で聞こえてきた話によれば、平次には彼女がいるらしい。
ならば、なぜ、それを彼女と食べようとしないのだろう。自宅に呼んで食事を作ってもらえばいい。
いくら彼女の食が細くても、平均以上に食べる平次がいるのだ。野菜を傷ませる心配はないだろうに。
それに彼女だって、平次から食事を作って欲しいと言われるのは嬉しいのではないだろうか。
新一は自室に入って荷物を置き、灯りをつけないまま窓を開けた。少しでも換気をしておかないと部屋の空気がよどんでしまう。
流れ込む夜の風を浴びて、新一は大きく息を吐き出した。
今日一日、正確に言えば昼から、頭の片隅には平次のことがあった。
自分の知らなかった彼女の存在が、気にかかって仕方がない。それが彼の幼なじみの遠山和葉ならば、蘭から自分のところに何かしら情報が入ってくるはずだ。だから、たぶん、相手は和葉ではない。
どうして話してくれなかったのだろうか。
何か理由があって隠していたのだろうか。
自分が思っているほど、彼との距離は近くないのだろうか。
探偵としては隣にいるという自信がある。だが、友人として、自分の位置は彼の中でどのあたりにあるのだろうか。
昼に抱え込んだもやもやは、どんどん増殖して、今では胸の中を埋め尽くしている。
いくらため息を吐き出したところで、心の中の換気は出来ない。
しばらく隣の阿笠邸を眺めながら平次のことを考えていた新一は、軽く頭を振ってからカーテンを閉めた。
平次の家から新一の家までバイクなら十分とかからない。荷物を用意してから来るとしても、十五分もあれば充分だ。
新一は気持ちを切り替え、部屋を出た。
彼が来るまでに米を研ぎ、さりげなく彼女の話を聞き出すための作戦を立てておこう。話したくないものを無理矢理聞き出す気はないが、水を向けて乗ってくればそれでよし。
階段を下りていた新一の耳に、聞き慣れた排気音が聞こえた。それが、家の前で止まる。
「おい、早すぎねぇ?」
思わずつぶやいて居間に駆け込み時計を見る。平次の電話を受けてから、確かに十五分は経っていた。
そんなにぼんやりしていたか、俺。
新一は首を傾げながら玄関の鍵を開け、平次を出迎えずにキッチンへ急いだ。とりあえず約束通り米を研いでおくために。