目を閉じたまま伸ばした指先は、冷たいシーツの上を滑った。
求めたぬくもりはそこにない。
あるのは、手のひらに残る夢の記憶。
目覚めとともに平次はため息をついた。
***
「服部」
顔を上げると、新一がガレージの外に立っていた。
五月晴れの鮮やかな青を背景に彼のシルエットがある。
平次はバイクに向かって屈み込んだまま、手を挙げて彼に応えた。
高校最後のGWを平次は新一と過ごした。大阪土産の代わりは誕生日のプレゼント。
裏の組織の壊滅を見届け、子供の姿から解放された彼は、休学中の課題に追われながらも上機嫌だった。肩の力が抜けたのか、屈託なくよく笑う。
その笑顔が平次にとってはまぶしかった。
「そろそろ出発の時間だぞ」
言われて、外して脇に置いていた腕時計を見れば、確かに予定時刻が迫っている。
平次は点検を終えたバイクをもう一度見回してから立ち上がった。これからバイクを駆って平次は大阪へ帰る。長距離の移動の前に点検は欠かせない。給油は昨夜のうちに済ませてあるので心配はいらない。
「準備OKや」
平次はガレージ内の手洗いに向かった。機械油の汚れは普通の石けんでは落ちにくい。専用石けんでぬめりを落としていると、背中から声がかかった。
「今度来たとき、乗せてくれよ」
目の前の曇った鏡に新一が映っている。
彼はバイクを眺めながらサドルをなでていた。その愛おしげと言ってもいい手つきに平次の手が止まる。水が手首を冷やした。
「夏ぐらいにはきっと灰原もいいって言うさ」
春に元の姿に戻った新一の体調はまだ万全ではない。自分の目の届かないところへ行くことを、新一の身体を管理する哀が嫌がるのだ。今回はまったく遠出することもなく、ほとんどの時間を工藤邸で過ごした。
「夏は暑いで」
炎天下、強い日差しを遮る屋根もなく、気温の調節などバイクにできはしない。慣れて体力のある自分でも、真夏や真冬はきついものがある。
「昼間じゃなくて、夜ならいいんじゃねぇ?」
アクアラインとかさ。
今度は平次のヘルメットをもてあそんでいる。気まぐれのように被って見せて、新一が笑った。
「通行料高いから、空いてそうだろ」
平次は振り返った。
光のあふれる外に比べてガレージの中は薄暗い。
明度も彩度も低いその中で、ひときわ新一の姿が浮かび上がっているように平次には見えた。
「受験勉強はどうするんや? 工藤」
自分たちは高校三年なのだぞと自覚を促してみたが、彼はそれを意にも介さずに答えた。
「息抜きは必要だろ。大阪で猛勉強するって言うなら、来いとは言わないけど」
出席日数の関係で卒業出来るかどうかのライン上にいるくせに、新一の強気は変わらない。
「勉強はどこでも出来るわ」
予備校に通っているわけでもない。受験勉強の計画は自由だ。
「じゃ、来い。けど、おまえといると事件に巻き込まれるんだよな」
「それは俺のセリフや」
突っ込むとまだヘルメットを被ったままの新一が破顔した。笑顔がまぶしい。
平次は外していた腕時計をはめた。床のドラムバッグを拾い上げ、バイクにくくりつける。
バイクを押してガレージを外へ出ると、夏のような日差しが照りつけてきた。
門の外まで押していき、平次はエンジンを掛けた。トラブルの翳りのない音に平次は行程の明るさを確信する。
新一がヘルメットを差し出す。
「気をつけて帰れよ」
「おおきに。ほな、今度来るときまでにメットを用意しときや。好きなところに連れてったるから」
彼が頷くのを見届けて、平次はヘルメットを被りバイクに跨った。彼が先ほどまで被っていたかと思うと、慣れたヘルメットなのにどこか息苦しい。
「ついたら連絡するわ」
「じゃあな」
軽く手を挙げた新一に、平次も応えてバイクを発進させた。
平次が角を曲がるまで、ミラーには新一の姿が映っていた。
***
帰ったと電話をしたのは、昨日のこと。
平次はベッドの中でカーテンの隙間から外を窺った。
空はようやく青みを帯びてきたところ。まだ起き出すには早い時間だ。
シーツの上を探った手のひらを平次は顔の前にかざした。
まだ残っている。
新一の肌を滑った感触が、生々しいほどに。
たかが夢だというのに、リアルすぎて恐ろしい。
今まで、性的な意味を込めて彼に触れたことなどない。
彼の頭をはたき、腕をつかみ、彼に背中を叩かれ、足を蹴られたことはあるけれど、それらはすべて友人のラインを超えるものではなかった。
理性では認めたくない想いを、感情と肉体があざ笑うように見せつける。
向けられた笑顔に鼓動が弾む。
風呂上がりにふと香った石けんに息が止まる。
白い襟足、鎖骨の影、名を呼ぶ唇に、視線が吸い寄せられる。
無意識というもっとも素直な部分で、これほどまでに自分は彼を欲している。
平次は観念して目を閉じた。
脳裏に焼き付いた記憶は、夢という形で平次の前に顕れた。
上気した肌に指をはわせ、快感にけぶった瞳をのぞき込む。
幾度となくキスを交わし、吐息の合間に名前を呼ぶ。
彼の爪がもたらす背中の痛みさえ甘かった。
夢はリアルでいて、都合がいい。
おそらくは今まで経験した情事の記憶を新一で塗り替えて、叶わぬ想いを遂げさせてくれているのだろう。
しかし、所詮は夢。はかないものだ。
夢が濃密で熱ければ熱いほど、うつつとの境で探ったシーツの冷たさが指先に凍みる。
覚醒して見開いた目に映るのは、独り寝のベッド。
むなしさはため息となる。
平次は寝返りを打った。
夢の感触の残る手のひらを握りしめ、爪を立てる。
痛みを与えてもなお、新一の名残は消えない。
「工藤」
かみしめるように平次は恋しい人の名を呼んだ。
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