幾度目かになる寝返りを打って、新一はため息をついた。
開いた目に映るのは、照明を落とした自分の部屋。がらんと広がる空間に、規則正しい時計の音が満ちている。時折、遠く乗用車の走り去る音が静寂を乱すだけだ。
うつろな眼差しで眺めたカーテンの隙間は、暗いまま。
夜明けは遠い。
新一は身体を丸めるようにして、もう一度目を閉じた。
***
『無事帰ったで』
新一が予想していたよりも遅く、平次から帰宅の報告が入った。電話の声は別れる前と同じく明るいものだった。事故に遭うことも、バイクにトラブルが起きることもなかったらしい。
「お疲れさん。遅かったな。渋滞にでも巻き込まれたのか?」
三日ぶりの一人きりの食事をとりあえず中断して、新一は背もたれに寄りかかった。昼食の時には、ダイニングテーブルの正面に平次が座っていた。もちろん、今その席は空いている。
『途中火災事故があってな、高速通行止めになってん。そんでちょお一般道走ったさかい、その分遅くなってもうた。心配したん?』
最後の言葉は笑い混じりだ。
「バーロ」
答えはいつものようにあきれた声で返した。
だが、心の中には安堵が広がっている。
バイクは事故を起こしたときのリスクが大きい。連絡が遅くなればなるほど、心に巣くう不安も大きくなる。
それでも、そんな思いはおくびにも出さない。
「誰が心配するか。撃たれても、海に落ちても死ななかったようなやつを」
『普通は死ぬ毒薬飲んでもちっさくなるだけで、しっかり生きとった工藤にはいわれたないわ』
憎まれ口には速攻で反撃が来た。
その反応の良さに、新一は怒る前に笑ってしまった。電話の向こうからも笑い声が聞こえてくる。
彼の笑う顔が見たくて、新一は目を閉じた。
記憶の中の笑顔が、そばにあるように思える。昼食の時のように目の前に。
「あの時死んでいたら、おまえと会うことはなかったな」
新一が行方不明になったからこそ、平次はライバルを捜すために上京してきたのだ。それまで自分は、活動をマスコミに伏せられていた彼の存在を知らなかった。
『せやなぁ。こうなると工藤の強運に感謝せんとな』
会えてよかった、と彼は言う。
新一は奥歯をかみしめた。
彼への想いが胸の奥からせり上がってくる。
平次には覚られてはならない、秘めた想いがあふれ出しそうになる。
『自分かて国家的損失やったとか、思うてるやろ』
「当然」
言葉だけは平然と返す。
工藤らしい、と言いながら平次は苦笑している。
新一は目を開けた。
彼の面影は消え、たったひとりの寂しいキッチンが目の前に広がる。
「疲れているんだろ。今日はさっさと寝ろよ」
『おう、そないする。ほんなら、またな』
ああ、とだけ返して、新一は電話を切った。
平次の声が消えて、静かになる。
そして、しんとしたキッチンで、新一は味気ない食事を再開した。
***
五月の日差しを受けて、平次がバイクで去ったのはほんの十二時間ほど前。
彼の背中を見送って振り返った自宅は、明るい青空を背景に沈黙していた。
そして、今も沈黙している。
大きな工藤邸に、新一以外の気配はない。
昨夜までは、客間に平次の気配があった。
キッチンにも、リビングにも、ガレージにも。
そして、新一の隣にも。
今度平次が来るのは夏だ。
それまで、新一はこの沈黙した家で、静かな夜を過ごす。
彼が来る前とそれはなんら変わらないのに、一度味わった楽しい時間が寂しさをよけいに感じさせる。
別れたのは、半日前。
夏は、まだ先。
しばらく会えない寂しさを、せめて夢で紛らわせたいと思う。
まだ新しい彼の記憶にすがって、そのまま眠りにつけば、彼の夢が見られるような気がする。
キッチンで思いがけず器用にジャガイモをむいていた姿。
リビングで阪神の負け試合を唸りながら見ていた姿。
ソファに寝そべって、本を読んでいる姿。
ひとつひとつ思いだし、大事に反芻する。
そこには必ず笑顔があった。
「料理ぐらいは出来んと婿のもらい手がないやろ」と冗談めかして笑う。
「ペナントレースの先は長いけどなぁ」と苦笑する。
「このトリック、めっちゃおもろい」と子供のように無邪気に笑う。
新一は寝返りを打った。
平次のことを考えれば考えるほど、ため息が増える。
別れたばかりだというのに、会いたい。
夢でもいいから会いたいと願うのに、記憶をたどり面影を追えば、眠気が遠ざかっていく。
睡魔の訪れない静かすぎる夜は、時間の経つのが遅い。
独り寝のベッドで、彼への想いを抱いていると、このまま夜が明けないような気がしてくる。
「服部」
瞼の裏に平次の面影を描いて新一が呼んだ名は、ほんのわずかに静寂を乱して、闇の中に溶けて消えた。
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