講義を終えて、新一は机の上を片づけると席を立った。外はすっかり暗くなって、窓はざわめく学生たちを映している。新一は席の横に置いていたコートを羽織った。マフラーを巻いていると、一緒に講義を受けていた友人たちが軽く手を振って帰っていく。教壇で質問を受け付けている教授を横目に、新一も講義室を出た。人気のなかった廊下は冷えていた。昔なら新一の出待ちをしている女子学生が必ずいたものだが、それも最近ようやくいなくなった。ばらまいた噂が順調に浸透しているようで、新一はこっそりと笑った。
新一が平次と暮らすようになって数ヶ月。
夏の暑い盛りに平次はひとり暮らしのマンションから工藤邸に引っ越してきた。
表向きは「噂」のためだ。
自分に群がってくる女の多さに辟易した新一が、一石二鳥を狙って提案した捨て身の作戦。
──俺たちが出来ているっていうことにしようぜ。
工藤新一と服部平次は、つき合っていることにする。
男と出来ているという噂が流れれば、ふつうの女は引く。これで鬱陶しくまつわりついてくる女たちの数は減るはず。それがまず一羽目の鳥。
二羽目は、噂先行でも良いから、平次の恋人に収まることだ。
大学入学当初はそれほどではなかったものの、時間が経つにつれて平次の周りにも女の影が見えるようになってきた。それが新一には不愉快だった。せっかく片想いの相手がそばに来てくれたというのに、その彼との間に誰かが割り込むことなど許す気はない。
自分の女避けついでに、平次の周りからも女を追い払ってしまおうと考えたのだ。
作戦は順調に進んでいる。
女の影は消えたといっていい。
ついでにあまり親しくなかった男友達も離れていった。知らない人間から変な目で見られるようになったし、平次とふたりで歩いているとあからさまに避けられることもあるが、そのあたりは副作用として想定済みだ。
同じ被害に遭っているだろう平次が、気にしていないようなのも救いだ。
平次との待ち合わせ場所に向かう新一の耳が、聞き慣れた関西弁を拾った。
横の階段の上から笑い声が降ってくる。
新一が足を止めて見上げていると、平次とその友人たちがにぎやかに下りてきた。
「工藤!」
平次が嬉しそうに声を上げる。その後ろで彼の友人三人が驚いたように足を止めた。後藤、藤原、遠藤の藤三人組と平次が呼ぶ友人たちだ。いつも平次と一緒にいるので新一とも顔見知りになっている。
「終わったとこか?」
平次が駆け下りてくる。
「ちょうど通りがかったんだ。いいタイミングだったな」
笑いかけると、満面の笑みが返ってくる。
これのためならば副作用などどうでもいいと新一は思う。
雪崩のような音を立てて藤原たちが駆け下りてきた。
「ちょ、ちょっと、服部」
ちょっと来てくれ、と遠藤が平次の腕を掴んで強引に引っ張る。おいおい、と言いながら
引きずられていく平次をあっけにとられて見ていた新一に、藤原がすり寄ってきた。
「工藤、くん。あ、あのさ、ちょっと、話しがあるんだけど」
こそこそとささやかれて、新一は藤原の目をじっと見返した。
藤原が後ろめたげに目をそらす。
「服部の前では聞き難いから、ちょっといいかな」
横から後藤が口を出し、脇の空き教室を指さした。
いいぜと頷いて、新一は先に立ってその教室に入った。
「で、何が聞きたいんだ?」
きっちりと扉を閉めて、後藤が新一を振り返った。
藤原と目を見交わし、ほんの少し逡巡して、思い切ったように後藤は口を開いた。
「噂のことなんだけど……、本当に服部とつき合っているわけ? 恋人なわけ?」
真剣な表情が二つ並んで、新一の答えを待っている。
新一は思わず笑ってしまった。
「そうだよ。そう見えねぇか?」
「ほんとに、本当なんだな?」
後藤が声を上げる。藤原が「うぁ」とうめく。
これで平次の友人が減ってしまったかと、新一は少し悔やんだ。彼らと仲がいいのは、平次の話を聞いていればよくわかる。
「いや、ごめん。服部の話し方だと冗談なのかマジなのか、さっぱりわからなくってさ。これは工藤に直接聞いてみないとって、話し合ってさ」
「それでか!」
突然扉が壊れそうな勢いで開いた。
驚いて振り向いた先には、平次が立っていた。その後ろには拝むように手を合わせて謝っている遠藤がいた。
「なにしとんねん、おまえら。こないなとこに工藤を連れ込んでからに。ちゃんと俺がゆうたやろ。工藤は俺の恋人やって」
「おまえの言うことは、どこまでが冗談なのかわからないんだよ」
後藤が後ずさりしながら言い訳をする。
「せやからゆうてなぁ」
「待てよ、服部」
不満げな平次の腕を新一は取った。
「おまえも悪いんだぜ。普段ぼけが多すぎるから、信用してもらえないんだ」
「ひどいわ、工藤」
「同棲している、出来ているって噂ばっかり聞いて、けど、おまえら見ていると、ただ単に仲良すぎるだけのような気もするし……」
遠藤がぼそぼそと言うのを聞いて、新一は内心ため息をついた。
遠藤は実に正確に事実を見抜いている。
平次から友情以上の気持ちを感じることもあるが、新一は恋人への一歩が踏み出せないでいる。
「そらいくらラブラブやゆうても、人前でべたつくんは工藤がいやがるんよ」
なぁ、と振られて新一は平次の足を蹴飛ばした。
「当たり前だろ」
しかし、ここは思い切ってみてもいいかもしれない。
一歩目を踏み出さなければ、ふたりの仲は進展しない。
ならばいっそと新一は思いつきを口にした。
「けど、信じてくれないなら、ここで証拠を見せてもいいぜ」
一歩平次に近寄って、彼の肩に手をかける。呼吸を合わせたように、平次の腕が新一の腰に回った。
寄り添う距離に新一の鼓動が弾んでいく。
新一の思惑に乗ったように、平次が言葉を継ぐ。
「キスぐらいせんとあかんかな」
「そりゃ、キスされたら、信じるしかないけどさ」
遠藤たちと見交わしながら、後藤が答える。
「もったいないさかい、いっぺんしか見せへんで。よう見ときや」
「何がもったいないんだよ。恥ずかしいとかだろ、ふつう」
突っ込むと平次が笑う。
「キスする工藤の顔を俺以外のやつらに見せるんが、もったいないねん」
「馬鹿言っているんじゃねぇよ」
「ええやん。ほんまのことやし」
言葉を切って、平次が新一を見た。
至近距離で目が合う。
真剣な瞳に熱情があるのを認めて、新一は泣きたいような安堵と共に目を閉じた。
唇がしっとりと触れ合って、離れていった。
名残惜しくなるような平次のぬくもりはほんの一瞬だけのものだったが、間違いなく口づけだった。
もう友人には戻れない、キス。
平次に腰を抱かれたまま、新一は目を開く。
嬉しそうな平次に新一は顔を背けた。その頬が熱くなってくる。
新一は平次の腕から逃れて、呆然としている後藤たちを見た。一様に口が開いているのが、ちょっと間抜けだ。
新一は唇を引き上げて、彼らを見渡した。目が合う順に彼らが赤くなる。
「これでマジやってわかったやろ。工藤は俺の恋人やねん」
誇らしげな平次に気圧されたように三人がかくかくと首肯する。
「帰るぞ、服部」
早くこの場を去りたかった。
そして、ふたりきりになりたかった。
自分の気持ちをちゃんと言葉で伝え、彼の気持ちを聞きたい。
触れるだけのキスでは、物足りない。
「おう。ほんなら、またな、おまえら」
新一は平次の先になって、彼らの間を抜けて、講義室を出た。
横に並んできた平次が新一の耳元にささやいた。
「まっすぐ帰ろうや」
本当なら夕飯を食べて帰る予定だった。そして、本屋に寄って、新刊を買って帰るはずだった。だが、早くふたりきりになりたいのは、彼も同様らしい。
「何も食うものがねぇから、弁当ぐらいは買って帰ろうぜ」
「せやな」
笑う平次はいつも以上にいい男に見えて、新一は自分の欲目に少し笑った。
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