露ならぬ心を花におきそめて

風ふくごとに物おもひぞつく

 



 平次は試験会場となっていた講義室を出て、大きく伸びをした。廊下の窓は開け放たれているが風はそよとも吹き込まない。夏の夕方の重たいような蒸し暑さだ。
 やっと前期試験が終わった。ようやく明日から夏休みになる。
 平次は窓枠に寄りかかって外を眺めた。
 校舎三階からの眺めはそれなりによく、正門へ続く道に並木が濃い影を落としているのが見えた。その中を同じように試験を終えた学生たちが帰っていく。

 ふと窓の下に目をやった平次は、新一の姿を認めた。髪の長い女二人に挟まれるようにして歩いていく。
 両手に花でも浮かれた様子のない新一を眺めて、平次は小さくため息をついた。
 毎度のことだが、見ていて愉快ではない。

「あー終わった! あ、工藤だ」
 同じ学科の悪友のひとり、後藤が平次の後ろから下を覗いて騒いだ。
「やっぱり女連れだな」
「今朝見た子と違う子だ」
 藤原がさらに後ろから寄りかかりながら言う。
 遠藤が舌打ちをしてぼやいた。
「くっそー、なんであいつばっかりもてるんだよ、服部。って、おまえも同類だけどな」

 男三人にのし掛かられて、窓枠に押しつけられていた平次は、彼らをまとめて振り払った。
「重いわ、ぼけ。俺を潰す気か。このくそ暑いのに、ひっつくな」
 大げさに騒ぐ平次に悪友たちは笑う。いつものじゃれ合いだ。
 けたけた笑っている彼らをおいて、平次は階段に向かって歩き出した。新一と待ち合わせをしているのだ。彼らにかかずらっている暇はない。
「俺は帰るで」
 平次を追って三人がやってくる。

「それにしても工藤はもてるよなぁ」
 階段を下りながらしみじみと後藤が言う。
「ほんとほんと。昨日、去年の準ミスが告って振られたって聞いたぜ」
「まじかよ。あの人すげー美人じゃねぇか。年上美人を振るか! もったいねぇ」
「俺が聞いたのはさぁ──」

 平次は悪友たちの噂話を苦笑いしながら聞き流した。
 大学に入学してから半年。女がらみの新一の噂には事欠かない。彼と違う学部に籍を置くというのに、毎日のように新しい噂が耳に入ってくる。
 どこそこの女子大の美人。
 他学部のかわいい子。
 モデルの仕事もしている子。
 教授も一目置く才媛。
 その他名もない有象無象。
 まるで蚊取り線香にやられる蚊のように、おもしろいように女が落ちる。
 だが、新一は彼女たちを一顧だにしない。

『探偵業に専念したい』
 彼の断りの決まり文句だ。
 しかし平次はそれが建前であることを知っている。
 ほんまのことはゆうな、と忠告したのが自分だからだ。
 『鬱陶しいから』などという本音は、隠しておいた方が平和に決まっている。

「どんな女ならいいんだろうな」
 階段を後ろから下りてくる後藤が、平次の後頭部を小突きながら言う。
「つつくな! しらんわ。本人に聞き。まぁ、トップレベルの才色兼備に囲まれて育ったさかいな、めっちゃ目が肥えとるんやろ」
 それがありがたいと平次は思う。
 片思いの相手に女が出来るのをそばで見ているのはつらい。

 同じ大学に進学し、上京して近くに住み、以前よりも長い時間を過ごせるようになった幸せを、ほかの誰かに邪魔されたくはない。
 彼がもてるのはしょうがない。
 男の自分が惚れた相手が、女にとっても魅力的なのは当然だ。
 救いは彼が彼女たちの告白を鬱陶しいと思っていることだ。
 まだしばらく誰も彼との間に割り込んでは来ないだろう。

「だいたい工藤本人がレベル高いからなぁ」
 藤原が言って、三人は黙り込んでしまった。
 平次は内心笑う。
 彼らの見ている新一と平次の知る新一にはズレがある。
 外面のいい彼はまだ大学で本性を出していない。確かに頭も見た目もいいが、食えないしたたかな性格や、何かというと手よりも先に足が出るところなどは、まだ知られていない。自分しか知らない新一がいるというのは、甘美な優越感だ。
 校舎を出て、平次は三人と別れて新一との待ち合わせ場所に向かった。





 いつものように本館の掲示板の脇に新一はいた。
 予想していたとおり、数人の女の姿がある。先ほど一緒に歩いていた相手ではないところがすごい。
 平次は片手をあげて彼を呼んだ。
 新一が笑顔を見せて歩み寄ってくる。
 置いて行かれた女たちの視線が痛かったが、平次はあえてそれを無視した。

「待たせたようやな」
「まったくだ。さっさと来いよ。俺が先に着いているってわかってて、友達と遊んでんじゃねぇ」
 平次は驚いて新一を見た。
「上から見てたんだろ? 俺が歩いていくの」
「気ぃついとったんか」
「おまえの騒いでいる声が聞こえたんだよ」
「なんや、声かい」
「関西弁は目立つからな」
 新一が楽しそうに笑う。
 女に囲まれているときには見せない笑み。
 これもまた平次の優越感をくすぐってくれる。

 本館を出ると、まだまだきつい日差しがふたりを照りつけた。むっとする空気にうんざりする。
「俺の場合は声かもしれへんけど、工藤の場合はめっちゃ噂が聞こえてくるで」
 手びさしで日差しを遮りながら、平次は隣を歩く新一の表情を窺った。
 ちらりと彼は平次に視線を流す。
「気になるのか」
「まぁ、すこしはな。振りまくって、恨み買っとるんやないかと心配やわ」
 前半は嘘。後半は本音。噂自体は大いに気になっている。
 聞くたびに落ち着かなくなる。

 大丈夫と思いながらも、心のどこかで彼をとられるのではないかと心配している自分がいる。
 ただそばにいられればいいと思い上京してきたが、いっそ自分のものにしまおうかとさえ考えるようになった。
 だが、男同士の恋愛はあまりにもリスクが高い。スキャンダルを起こして彼の名声に汚点をつけるようなまねはしたくない。

「おまえの言うとおり本音で断っていないから、大丈夫だろ」
「それでもや。ほんまに恋人が出来るまではうるさいんやろなぁ」
 新一が横顔で笑った。
「出来たら、止むかな」
「そら、その子よりも自分が上やと思うてるのが来るやろうけど」
「やめてくれよ。めんどくせぇ。結局、鬱陶しいままじゃねぇか」
 うんざりしたような声で新一がぼやく。
「もてへんやつが聞いたら、贅沢者ゆうて怒るで、それ」
 笑う平次を新一が睨む。

「おまえはもてるんだから、聞き流せ」
 それにしても、と新一が思案顔になる。
「なんかいい方法ないかな。女が寄ってこなくなるようないい方法」
「そら悪い噂を流したらええんちゃうか。おまえの性格が実は極悪やとか。Sやとか、Mやとか。変態やとか、極度のマザコンやとか、ロリコンやとか、縫いぐるみがないと寝れへんとか、未だにおねしょするとか、女装癖があるとか、インキン、タムシ、水虫で、でべそやとか」
 調子に乗って悪い条件を挙げていた平次は、思い切り蹴られた。
「ふざけてるんじゃねぇ!」
 足を抱えて飛び跳ねる平次に今度は拳が飛んできた。慌てて腕で防御する。
「ふざけてへんって」
「他人事だと思ってむちゃくちゃいいやがって」
「せやけど、こんくらいインパクトなかったら、効き目ないと思うで」
 新一がおもしろくなさそうな顔で黙り込んだ。

 沈黙したまま、正門を抜けて、駅までの道を並んで歩く。
 怒っているのかと、こっそり新一の様子を窺った平次は、にやりと笑った彼に思わず引いた。
 ぐるりと周りを見渡して、他の学生たちから十分に離れていることを確認すると、彼は平次に宣言した。
「よし。わかった。おまえを道連れにしてやる」
 悪魔のような笑顔を浮かべて、新一が平次を見る。

「俺とおまえが出来ているっていうことにしようぜ」
「はぁ?」
 言い出したことのあまりの内容に、平次は固まった。
「これで女は寄ってこないだろ。おれにも、おまえにも」
 足を止めた平次に気づかぬように、新一がつぶやくように言う。
「女がらみのおまえの噂もいい加減鬱陶しくなっていたんだ」

「ちょお待て。ちょお待て、工藤」
 平次はあわてて先にいく新一を追いかけた。
「冗談でゆうてたんやで。そんなんしたら、おまえの名前に傷が付くんとちゃうか」
「おまえが気にするならやめておくか」
 笑いをおさめた新一が心なしか寂しげに見えて、平次は思いきり首を振った。
「俺はそんなん気にせん。けど、工藤の」
「言い出したのは俺だぜ。今よりましになるならいいんだ」
「悪くなるかもしれへんで」
「おまえが真相を知っていればそれでいいさ」

 どうする、と尋ねられて、平次はにっと笑った。
「乗ったわ、その案」
 願ってもいない展開に平次は浮かれる心を押さえつけるのに苦労した。
 噂先行でもかまわない。
 群がる女を追い払う役でもかまわない。
 男との恋愛スキャンダルを彼が厭わないなら、勝負に出よう。
 周りにそう見せかけるための演技を、いつか本物に変えてしまえばいい。

「そんなら、協力する代わりにタチは俺ゆうことにしてや」
 にらむ新一を笑顔でかわす。
「そこまで噂にして流す必要はねぇだろ」
「ええやん、真実味が増すと思うで」
 平次は肩を揺らして笑った。
 もう笑みが抑えきれない。
 平次の様子を横目で見ていた新一が、さらにうれしいことを言い出した。

「じゃ、もっと本当らしくするために同居しようぜ。マンションから引っ越して来いよ、俺の家に」
「おお、本格的やな。よっしゃ、今月中に引っ越せるようにするわ」
 平次の即答に新一も笑顔を見せる。
「夏休み明けが楽しみだぜ」
 平次は自分の思惑を隠しつつ、新一と共犯の笑みをかわした。


 

露ならぬ心を花におきそめて 風ふくごとに物おもひぞつく

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 589 紀貫之

露のようにすぐ消えてしまうような気持ちではありませんが、露で染まる花のようにあなたを想いはじめてから、あなたの噂を聞くたびに物思いが絶えません。

 おまけ  

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