色もなき 心を人にそめしより

うつろはむとは思ほえなくに

 



 夜、酒を持って平次が訪ねてきた。
 進学にともなって上京し、工藤邸の近くに部屋を借りた彼は、よくこうして前触れもなく新一に会いに来る。
 霧雨で濡れた傘を閉じて、彼は楽しげに酒の入った袋を掲げて見せた。旨い酒が手に入ってん、と笑った平次の笑顔はとても明るい。不自然なほどといってもよかった。

 昨日、新一は蘭に振られた。
 好きな人が出来たと告げられた。
 一応報告ね、と震えるような声で、それでも笑顔で彼女は新一に言った。
 周りからは公認されていた仲だったが、恋人としてつき合うことはなかった。だからこそ、きちんと終わりを告げてくれた彼女には感謝している。
 去っていく彼女を新一は引き留められなかった。
 待たせ続け、心配をかけ続けていた自分に、そんな権利などない。
 そして、心情的にも出来なかった。

 新一は誰にもそのことを話してはいない。
 それなのに平次は知っているらしい。だから彼は来たのだろう。
 わざわざ酒を持って、いつも以上に明るい笑顔で、雨の中。
 誰が彼に話したのか、それは問題ではない。
 なにを思い彼は来たのか。
 その方が気にかかる。

 平次は慣れた様子でリビングへと入っていく。
 その背を見送って、新一は小さく息を吐き出した。





 雨足が強くなったのか、会話が途切れると、雨の音がリビングに満ちる。
 ローテーブルの上には平次の持ってきた四合瓶と、新一の出してきたウィスキーのボトルが並んでいる。あり合わせのつまみと日本酒の方はもうとっくに空だ。オンザロックの氷もそろそろ溶けかけている。
 グラスを置いて、新一はまだ少し開いていたカーテンを閉めに、ソファから立ち上がった。

 窓ガラスが床のラグの上に座っている平次の姿を映している。その表情が気遣わしげなのすら見て取れた。
 平次はすべて知っている。それはもう確信だった。
 それでも彼は肝心な話題には、触れてこようとはしない。
 ただ新一が蘭とのことを悩む時間を与えないようにしてくれるだけだ。
 事件の話、推理小説の話、大学の話。
 次から次へと彼は話題を出してくる。
 しかし沈黙が降りたとき、隠していたものがかえって露わになる。

 カーテンを閉めて、新一は平次の後ろに回り込んだ。そのままラグの上に彼に背を向けて座る。そして、彼の背中に寄りかかった。
「こら、ひとを背もたれに使うんやない」
 抗議の声を笑いで無視して、新一は言った。
「さすがに耳が早いんだな」
 平次が沈黙する。

 新一は腕を伸ばして、テーブルの上から自分のグラスを取った。わざと氷の音を立てる。
「酒で紛らわすのは初めてだ」
 そか、という彼の声に被せるように、新一は続けた。
「ひとり酒だったらかえって落ち込みそうだけど、おまえがいるから平気なんだろうな」
 グラスを煽ると、後頭部がぶつかる。それが妙におかしくて、新一は肩を震わせて笑った。

「泣いとるん」
 おとなしく背もたれになったまま、平次がささやくように聞いてくる。
「バーロ。誰が泣くかよ」
 蹴飛ばす代わりに、新一は肘で平次のわき腹を突いてやった。
 笑っているんだと答えると、彼はため息をつく。

「正直言ってさ、それほどショックじゃなかったんだ」
 強がりと取られても良かった。
「初恋の相手だったのにな。ずっと好きだったのは確かなのに」
 いつの間にか、自分には他に気になる相手が出来てしまった。彼女のことより、その相手のことを考える時間の方が増えてしまった。
 見つめている間に刻々と色を変える夜明けの空のように、自然にゆっくりと、だが確実に自分の心は変わっていった。

「初恋でも色褪せるって事があるんだな」
「そらあるやろ」
 新一は一口酒を含んだ。
 夜空を染め変えるのが朝日なら、新一の心を染め変えたのは平次だ。
 なぜなのかは、知らない。

「おまえの方はどうなんだ」
「和葉のことをゆうとるんやったらちゃうで。ほんまに惚れとったら、俺は相手のそばから離れたりせぇへん」
 平次が酒を飲む。
 新一もグラスを傾けた。アルコールが熱になって喉を滑り落ちるのがわかる。
「なんか酔わねぇなぁ」
 酒量は限界を超えているはずなのに。

「ショックやったんやろ。おまえが自覚しとる以上に」
 平次の声は優しい。
 触れた背中から伝わる平次の思いやりが、また少し新一の心を彼の色にする。
「そうか」
「そうやろ」
「じゃ、明日はどうせ休みだし、潰れるまで飲むか」
 笑いを含ませた新一に、平次も笑う。
「そうせい。ちゃんと介抱したるよ。安心して飲んだらええ」

 新一はグラスを空けた。また後頭部が彼にぶつかり、痛いと平次の声があがる。
「なぁ、いつまで俺は背もたれになっとかなあかんの」
 平次がとうとう苦情を出した。
 新一は自分のグラスにウィスキーを注ぎながら、小さく笑った。

「俺が寝るまでだな」
 腕を組むことも、手を繋ぐことも出来ない関係なのだ。
 自然な形で彼に触れる機会などあまりない。
 だからせめて背中を合わせて、彼のぬくもりを感じていたい。
 酔いに任せた、今夜だけでも。

 平次から返ってきたのは抗議ではなくため息だった。
「しゃあないな。今晩だけやで」
「当然だ」
 二度目がないのなら、堪能しなければ損かも知れないと、新一は心の片隅で思う。
「おまえもまだ飲むだろ」
 手元に置いていたウィスキーの瓶を彼の方に押しやる。
 おおきにと、早速平次の手が伸びる。

 氷の立てる音にまぎれて、雨音が聞こえた。
 背中を押しつけて新一は目を閉じる。
 そして、平次の心音を探した。


 

色もなき心を人にそめしより うつろはむとは思ほえなくに

古今和歌集 巻第十四 恋歌四 729 紀貫之

色のない心をあなたで染め、深く想いはじめるようになってからというもの、それが色あせていくとは思いもしなかった。(今はもう他の人の色で心を染めるようになってしまいました)

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