工藤邸のリビングは静まりかえって久しかった。
耳を澄ましている平次に聞こえるのは、背中越しの新一の寝息と雨音だけ。平次の背をソファ代わりにし、彼は本当に寝入ってしまったらしい。
身体を動かさないように注意しながら、平次はグラスに残った酒を喉に流し込む。首だけを回して振り返れば、新一はまだグラスを握りしめていた。中身の残るそれをそっと手から外し、平次は残りを飲み干した。同じ酒なのになぜか苦い。
平次は念のため後ろに向かって問いかけた。
「寝とるん?」
返事はない。
平次は天井を仰いでため息をついた。
このまま朝まで背もたれ代わりになっているわけにはいかない。酔いつぶれたら面倒を見ると約束をしてあるのだ。やはりベッドまで運んでやるのが筋だろう。
新一を支えたまま、平次はゆっくりと身体をねじって、彼を胸の前に抱えた。力の抜けた新一の首に腕を回す。真っ赤になった彼の顔が平次の方を向いた。穏やかな寝息に乱れはない。横抱きにしても起きる気遣いはないようだ。
平次は新一の顔を覗きこんだ。
今夜は背中合わせで飲んだ。彼は顔を見せたくなかったのだと思う。
新一の目元に涙の跡のないことを確認して、平次はわずかに安堵の息を吐いた。
新一が蘭に振られたと、平次は今日聞いた。だからなにも言わずに新一の元に来た。落ち込んでいるだろう彼に、なにが出来るわけでもないが、そばにいたかった。
新一の中にあった彼女の存在はきっと大きい。
失ったことで開いた穴はどれほどだろうか。
自分では埋めることが出来ないと平次は思っている。
現に自分がそばにいたにもかかわらず、彼は酒量を過ごした。ここまで酔った彼を平次は初めて見た。
そして、彼の傷の深さを改めて知った。
「あんな、工藤。ほんまに惚れとる相手から、俺は離れたりせぇへんのやで」
新一の寝顔にささやきかける。
だから平次はここにいる。
新一のそばに。
気づいた瞬間から、叶う見込みのない恋なのはわかっていた。だからといって、諦めることも、もみ消すことも、誤魔化すことも出来なかった。
目覚める気配のない彼を平次はそっと抱きしめた。
無防備なのは信頼の証。
それを裏切ることだけは出来ないから、平次は奥歯をかみしめる。
苦しいのか、新一が身じろぐ。
平次は慌てて腕をゆるめた。
ふと新一が目を開けた。
焦点の合わない瞳が平次を認めて、柔らかく笑む。
だらりと床にたれていた新一の腕が平次の首に巻き付いた。ぐっと抱きついてくる。
予想外のことに硬直した平次の耳元で、新一がささやいた。
「はっとり」
とろけるような声だった。
「気なんか、つかうな」
答えの返せない平次を気にとめる様子もなく、新一は続ける。
「俺は、おまえがいれば、それでいいから」
語尾はぼやけて消えたが、平次の耳には叫び声より大きく聞こえた。
自分の都合のいいようにも捉えることの出来る言葉に、平次の心臓が騒ぎ出す。
「工藤。おい、くどう?」
全身で寄りかかってくる新一に、平次は声を掛けた。
返事はない。聞こえてくるのは寝息ばかりだ。
真意を問いただしたいというのに、相手はもう夢の中。もしかすると、今の言葉も朝には覚えていないかも知れない。
平次は苦笑が浮かぶのを抑えられなかった。
こうしてまた彼に振り回される。彼の存在そのものが平次を振り回しているのだから、しかたがない。
とにかくベッドまで運んでやらなければならない。
新一が抱きついてきているのを良いことに、平次はそのまま彼を横抱きに抱き上げた。
新一の身体をベッドに乗せ、巻き付く腕をほどく。
シーツの冷たい感触にか、また新一が目を開いた。
「服部?」
「工藤。また目覚めてもうた?」
覆い被さる形になっていた平次を見て、新一が大きく目を見開く。
「お、おまえ、なにして」
「なにて、工藤を運んできたとこやで」
おまえの部屋のベッドや。
目を瞬かせて平次が答えると、彼は慌てた様子で顔を背けた。その首筋までが赤く染まっている。見ていると唇を寄せてしまいそうで、平次もとっさに新一から離れた。
「もう遅いだろ。今日は泊まって行けよ。受験の時の部屋、使ってくれ」
平次に背を向けて、新一が早口に言う。
「ほな、そうさせてもらうわ。おおきに、工藤」
着替えて寝るようにといえば、どうせ部屋着だからと返ってきた。
部屋の灯りを落として、平次はベッドに潜る新一を振り返った。
「なぁ、さっきゆうてたんは、ほんま?」
平次がいてくれればいいと、ささやいた本心が聞きたかった。
「いつの話だ?」
背を向けたまま新一が聞いてくる。
やはり覚えていないかと、平次は少し落胆しながら答えた。
「ついさっき、リビングでやけど」
新一が首だけで振り返る。
平次と目が合い、彼の目が泳いだ。
「……悪い。覚えてねぇ。変なこと言ったのか」
「変ちゃうよ。俺がいてくれたらええ、て。そんだけ」
ゆっくりと新一が髪を掻き上げる。手で彼の表情が隠れた。
「確かにおまえのようなやつは、他にいないからな」
親友であり相棒であるような相手は、確かにいないだろう。
自分とは違う意味で、彼にとっても代え難い存在であることは嬉しい。だが、切ない。
「そういうことかい」
「酔っぱらいが寝ぼけて言ったことだ」
意味はない、と彼は切り捨てる。
せやなぁと頷き、深読みしそうになった自分を平次は嗤った。
「もう邪魔せんからゆっくり寝ろや」
「おやすみ」
新一が平次を見た。
酔いの醒めた瞳を彼はしていた。
軽く手を挙げ、お休みと言い置いて、新一の部屋を出る。
平次は受験の時に借りた部屋へと向かった。
――おまえがいれば、それでいいから。
甘えるような新一の声が、まだ平次の耳の奥に残っている。
報われることはないと心の奥に秘めている埋み火のような想いを、彼は無邪気に掻き立てる。
そばにいたいがために、欲情を抑え続ける平次の葛藤など、彼は知るよしもないのだ。
だから、あれほどまでに無防備に振る舞えるのだろう。
平次の前で酔い、眠り、甘えた声で抱きついてくる。
弄ばれているように感じるのは、ただの思い過ごし。被害妄想に過ぎない。
すべては失えない相手に惚れてしまった自分が悪いのだ。
平次は何度目になるかわからないため息をついた。
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