花の色に そめし袂の惜しければ

衣かへ憂き 今日にもあるかな

 



 白地に藍染めの流水。散った小さな笹の葉が涼しげに見える。
 床の上に出していた浴衣を新一は手に取った。
 絹紅梅のわずかにざらりとした手触りが、かえって肌に涼しいことを新一はこの夏知った。
 友人、服部平次に誘われて遊びに行った、少し早い大阪での夏祭り。
 平次の母、静華に無理矢理着せられてしまった浴衣は、思いのほか着心地が良かった。

 タンスにしまっていたそれを取り出してきたのは、週末に花火大会があることを思い出したからだ。
 新一は浴衣を広げてみた。

 東京よりも蒸し暑い、大阪の夏の夜がよみがえる。

* *


 しつこく誘う平次におれて新一が大阪に来たのは、梅雨明け間もない夏休みのことだった。
 平次の自宅近くの神社が執り行う祭り。
 派手さはないが、規模は大きい。「一度見てみる価値はある」という誘い文句だったのに、実際に平次が新一を呼びだした最大の理由は、「工藤の浴衣姿が見たい」というふざけたものだった。
 平次の母の手前、平次を怒鳴るわけにも蹴り上げるわけにもいかず、新一は仕方なく浴衣を着付けてもらったのである。
 そして新一は今、慣れない浴衣姿で平次の隣を歩いていた。


 日は落ちたが、空はまだ明るい。
 だが、地上は祭り提灯が映えるほど薄暗くなっていた。
 参道の両脇にぎっしりと立ち並ぶ屋台を冷やかしながら、新一は平次と一緒に本殿に向かっていた。人波も同じ方向に流れている。
 今夜、本殿の前の舞台で、舞が奉納される。薪の灯りに照らされるそれは、雅楽も相まって幻想的な物だそうだ。


「工藤。足、大丈夫か?」
 転ばないように足元に気をつけていた新一を気遣って、平次が声をかけてきた。
 いただいてしまった浴衣とは違い、下駄は平次の物を借りている。履きならした物の方が痛くならないらしい。
「平気だ。痛いわけじゃない。ただちょっと歩きづらいんだよ。足が広がらねぇし」
 洋装の時に比べるとどうしても歩幅が制限されてしまう。その上、下駄など履くのは何年ぶりかもわからない。
「こればっかりは慣れやからなぁ」
 苦笑いしている平次は、渋い藍染めに目立たない格子柄の入った浴衣。新一は白地に藍の流水。そこに流れる小さな笹の葉。角帯は揃いの物だ。
 ざらりとした手触りの浴衣は絹紅梅というらしい。白地は汗で下着が透けるからと、新一は肌襦袢まで着せられている。


 新一の浴衣を選んだのは平次だと、静華が着付けながら話してくれた。その平次は着替えた新一の周りをぐるぐる見て回ったあげく、「俺の目に狂いはなかった!」とガッツポーズまで決めてくれたのだ。
 直後、新一が手にしていた扇子で平次の額を打ったのは当然のことだった。


「和服なんて着た覚えないぞ、俺は。浴衣だって子供の頃だけだ」
「普通はそうやろな。まぁ、うちは珍しいほうやから」
「剣道をしているのも、理由の一つじゃねぇの?」
「かもな」
 和服も自分で着られるという平次はあっさりと頷いた。
 少し着崩している平次は、浴衣姿がとても様になっている。普段の三枚目ぶりなど想像できないほど粋だ。
 多少崩そうが自分で直せる余裕があるのが、新一はうらやましい。新一など着崩れないようにと、衿留めまで使われているのだから。

 新一は帯に差していた扇子を広げた。扇ぐとさすがに涼しい。焚きしめてあるのか、ほのかに白檀が香る。
「夜になっても暑いなぁ」
「そうか? 今日はまだ涼しいほうやで。あ、なんか冷たいもんでも飲むか?」
 平次の視線の先には、氷の浮いた水に浸かった色とりどりの缶ジュース。冷たげなそれを見て新一は喉の渇きを思い出した。
「俺はお茶系がいい」
 甘い物を飲むと汗が余計べたつくような気がする。
「おっしゃ、待っとれ」
 平次がするすると人混みを抜けていく。
 呼び出した手前なのか、今夜の飲食代はすべて平次がおごってくれるという。すでにたこ焼きを一皿ふたりで食べた。平次おすすめの屋台のそれは、東京で食べるものより格段においしかった。しかし、喉の渇きはそのソースせいかもしれない。
 平次が飲み物を買って戻ってきた。
 緑茶と麦茶の缶を掲げた平次から、新一は麦茶の方を受け取った。とりあえず、扇子を帯に戻す。
「そろそろ舞台んとこへいかんと、見やすい場所がなくなってまうで」

 飲むのは本殿に着いてからでいいかと、濡れた缶を持ち直した新一は、つんのめって転びそうになった。片足が下駄から滑って、足の裏が敷石に着く。
「工藤!?」
 平次の腕にとっさにしがみついて、新一はとりあえず転ばずにすんだ。体勢を整え足元を見ると、右の鼻緒が切れていた。
「あ……」
「あちゃあ」
 平次が情けなさそうに天を仰いだ。
「切れかけとったんかな。気ぃつかんかったわ。すまんなぁ、工藤」
 どうしていいかわからない新一の腕を取って、平次が新一を人波から連れ出す。平次に肩を借りるようにして、新一はそろそろと歩いた。急ぐと足が下駄から外れてしまう。

 並ぶ屋台の裏側から少し離れた場所で平次は立ち止まった。
 境内の大木の脇。参道を照らす提灯で付近は薄明るいが、足下は暗くおぼつかない。
「どうするんだよ? これじゃ歩けねぇぞ」
 平次に肩を借りたまま新一は訊いた。右足を持ち上げると、簡単に下駄が脱げてしまう。
「すげればええだけや」
 何でもないことのように言って、平次は屈んで新一の下駄を拾い上げた。柾目の台から切り離された黒の鼻緒。
「寄りかかっとき」
 平次が脇の木を視線で指す。
「いや、浴衣汚れそうだし」
 左足でバランスを取りながら新一が断ると、平次は苦笑した。
「なら、しっかり掴まっとき。あ、ついでにこれ持っといてや」
 ほい、と緑茶の缶を渡される。缶を二つ持って腕に抱え、空いた方の手で平次の肩に掴まる。

 平次が懐からハンカチを引っ張り出した。
 事件の時に使う白い物ではなく、紺色のハンカチ。彼はそれに歯を立て、躊躇するそぶりもなく引き裂いた。
「おい!」
 驚いた新一に、平次が不思議そうな顔をした。
「なにしてんだよ!」
「なにて……。鼻緒をすげるんよ。まぁ、おとなしゅう見とれ」
 にやりと新一に笑ってみせると、平次は慣れた手つきで作業を始めた。

 事件の時とはまた違う平次の真面目な顔つき。
 遠い光源に照らされたそれは彼を普段より大人に見せる。
 陰影を刻んだ横顔も、わずかに俯いている首筋も、手を掛けている肩も、見慣れているはずなのに、目が離せない。
 明るい参道から喧噪が聞こえてきているというのに、まるでそれが遠いところの出来事のように感じられる。
 新一は無言で、平次のことを見つめていた。
 知らない男のように見えたのだ。

 器用な平次の指先が、ためらいなく動く。
 長さを確かめ裂いた布を軽くこよって、ふたつに折り、鼻緒をその中心に掛ける。前の穴にその布を通して、台を裏返して結ぶ。
 見入っている新一に気づきもせず、平次はすげ終えた鼻緒を引いて具合を確かめている。

「出来たで」
 鼻緒を指に引っかけ、平次が自慢げに言った。
 黒の鼻緒を紺の布ですげてあるが、夜目にはまったく違和感がない。
「すげえな」
 新一の口から素直に滑り出た感想に、平次が照れたように頭をかいた。
「いや、こんくらいは出来んとな。……ちょお一人で立っとって」
 言うなり平次が新一の足下にしゃがみ込んだ。上げたままの右足の前に下駄を置き、新一を見上げる。
「履いてみてや」
 新一は言われるままに履いてみた。鼻緒は少し緩いような感じがした。

「どや? きつくないか?」
 真剣な瞳が見上げてくる。
「……大丈夫。逆に緩いぐらいだ」
 新一は笑って見せた。だが、平次の表情が曇った。
「そか。今日はもうあんまり歩かんほうがええかもしれんな。足が痛なるかもしれへん」
「きつくないのにか?」
「きつい、緩いっちゅうのとちゃうねん。足に合うた鼻緒なら、新しいもんでも痛くなるようなことはないんや」
 難しいもんや、とつぶやきつつ平次が立ち上がった。

 目の前に立つ、いつもとまったく変わらない彼。
 自分よりわずかに高い身長と、しっかりした体格。
 見慣れた親友の姿だ。
 新一は軽く頭を振って、先ほどの見慣れない男の影を払った。

 平次が新一の手から缶を受け取る。
「もう舞が始まってまう。このまま屋台の裏を歩いていくか。その方が早いわ」
 平次が新一を先導するように歩き出す。
 すげたばかりの鼻緒を気にしながら、新一は彼の後ろに続いた。
 気遣うように新一を振り返る平次は、やはりいつもの彼だった。

* *


 新一は、Tシャツの上に浴衣を羽織ってみた。
 肌を滑る感触が、あの夜の記憶を鮮明にする。



 知り尽くしていると思っていた親友が見せた、自分の知らない顔。
 たわいのない事柄のはずなのに、衝撃は大きかった。
 それがなぜなのか、今も結局わからない。謎のままだ。

 ぬるくなりかけた麦茶で喉を潤しながら見た、神に捧げる舞。
 はぜる薪の音。舞手の振る鈴の硬く澄んだ音。雅楽。燃えさかる火に照らされ、翻る白い袖、緋袴。
 どれもこれも幻想的だったのに、覚えているのは、隣に立って同じように舞台を見つめていた平次のことだ。
 鼻緒をすげているときに見せた、あの横顔が頭から離れない。



 新一は浴衣を肩から滑り落とした。
 床にわだかまる白の絹紅梅に乱れる藍色の流水が、まるで自分のつかみきれない心情のようだ。

 抱え込んだ謎は、解かなければならない。
 自分の心がつかみきれないことなど、初めてだ。

 新一は床に転がしておいた携帯電話を手に取った。
 掛ける先は決まっている。
 大阪の、服部平次の元へだ。
 謎を解く鍵を握るのはあの男だと、新一は信じている。
 自分の知らない顔をまだいくつも隠し持っているに違いない、親友。
 会えば何かわかるかもしれない。
 他の顔を見ることが出来るかもしれない。


 呼び出し音三回で相手が出た。聞き慣れた明るい関西弁。
 新一は努めてさりげなく平次を東京へ誘った。

「次の週末、暇だったら遊びに来いよ。近くで花火大会があるんだ。この間の浴衣、もう一回ぐらい着たいしさ。下駄も出来たらまた貸してくれ」

 新一は床から浴衣をすくい上げた。
 自分ひとりでは着ることが出来ない。下駄もない。
 あの鼻緒は、すでに本職の手によってすげ替えられているかもしれない。
 それでもあの夜の出来事が消えてなくなるわけではない。

「着付けも頼むな。あ、おまえもちゃんと自分の浴衣を持って来いよ」

 まだ、夏は終わらない。
 浴衣をしまい込むには、まだ早い。

「おう、待ってる」

 もしかすると、謎が解けるかもしれないから。
 もう一度、浴衣を着てふたりで歩こう。

「じゃ、またな」

 夏が終わる前にもう一度。


 

花の色に そめし袂の惜しければ 衣かへ憂き 今日にもあるかな

拾遺和歌集 巻第二 夏 源重之

せっかく花の色に染めて春の思い出のよすがにしていた衣装を、衣替えだからといってしまい込んでしまうのは気が進まない。

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