夕されば 蛍よりけにもゆれども

ひかり見ねばや人のつれなき

 


 カラン、コロン。

 下駄の音が夜道に響く。
 音を消す方法を知らないのか、わざとなのか、新一のたてる下駄の音は平次のものより数段高い。
 たぶん、前者やろうな。
 新一の半歩後ろを歩きながら、平次は思う。
 駅へと流れる見物客の人波から離れ、ふたりは静かな住宅街を歩いていた。
 工藤邸までは、まだ少し距離がある。


 花火大会があるから来い、と誘われたのは五日前。
 その少し前に、平次は新一を大阪の祭りに誘っていた。その際に贈った浴衣がもう一度着たいと彼は言う。前回貸した下駄をまた貸してくれなどとも言う。祭りの途中で鼻緒が切れたその下駄は、平次がすげた。だが、所詮は素人の仕業、大阪を発つ前に行きつけの店ですげ直して貰った。それを履いて、新一は歩いている。どうやら足は痛くないようだ。
 新一は平次を着付け役として呼んだらしい。だが、そんなことはどうでも良かった。
 浴衣も花火も口実に過ぎない。
 平次は新一にさえ会えれば良かったのである。


 新一の白い浴衣の袂を、生ぬるい風がけだるそうに揺らしている。
 白の絹紅梅に藍の流水。この生地を選んだのは平次だ。反物を見たときに、新一に着せてみたいと思ったのだ。
 ともすればどこかの温泉旅館の浴衣のような柄なのに、新一が着ると絵になる。彼のりゅうとした姿は、花火大会の会場でやたらと人目を惹いた。ちらちらと投げかけられる視線に気がついていたのは、平次だけではないだろう。しかし、新一はそれをまったく無視して花火を楽しんでいたようだ。

『こっちの屋台のたこ焼きは大阪のとは別物だぞ』とつい屋台の前に立ち止まった平次の袖を引いたり。
『肌襦袢着ていないやつの方が涼しいはずだ』と平次が食べているかき氷を横から取ったり。
 挙げ句の果てには、『浴衣姿の服部は、詐欺だ』とまで言っていた。
 新一曰く、性格のぼけを衣装が隠している、とのこと。
 平次としてみれば笑うしかない。
 
 会場は河川敷で、二人並んで橋の欄干に寄りかかって花火を見た。そこは腹の底に破裂音が響くほど打ち上げ場所から近く、花火は頭上で開いた。火の粉が降りかかってくるような眺めだった。
 花火に圧倒されたように、新一は途中から無言になった。
 平次は彼の横顔を盗み見たが、何を考えているのかわからなかった。
 ただ、沈黙が心地よかった。

 そして、今、二人は無言で歩いている。


 細身の身体にきりっとした襟元。すらりとした新一の首筋に視線をやって、平次は目をそらした。気がつくと、新一を見つめている。そのたびに平次は不安になるのだ。
 自分の視線が、男のモノになっているのではないかと。
 浅ましい熱を帯びているのではないかと。

 平次は、新一の斜め後ろを歩く。
 彼の姿を不自然でなく視界に収めるために。
 彼の目から自分の視線を隠すために。




 工藤邸に着いた。
 玄関先の灯りを除いて新一の家の電気は消されている。大きな洋館が影絵のように夜空を切り取っている様は、ちょっとしたお化け屋敷のようだ。
 重たい鉄門を二人で押し開ける。
「どうだった?」
 門を閉めていた平次に新一が声を掛けてきた。
「めっちゃきれいやったなぁ。規模も思うてたよりでかかったし」
 答えて振り向くと、門柱の灯りの下で新一が意外そうな顔をしていた。
「帰り道なんもいわねぇから、つまらなかったのかと思った」
「工藤が余韻に浸っているようやったから話しかけんかったんよ。楽しかったで、ほんま。呼んでくれておおきに」
「そうか、なら良かった」
 安堵したように笑った新一が足を向けたのは、玄関ではなく庭の方向だった。
「おい、工藤!」
 呼んでも彼は振り返らない。
 平次は仕方なく新一の後を追った。
 芝の柔らかな感触にとまどいながら、平次は足を速め庭の中央に立つ新一の横に並んだ。
「見てみろよ」
 新一が空を見上げる。
 平次も顔を上げた。星がきれいだった。
 もっとも都会の夜空だ。天の川など見えはしない。それでも星座の形がわかるほど、今夜は空気が澄んでいるようだった。
「結構見えとるな。気づかんかったわ」
「俺もさっき気がついた。昼間、風が強かったせいだろうな」
 強風はすでにやんで、熱帯夜の重苦しい空気が地上に漂っている。緑の多い工藤邸の庭にいても、さほど涼しく感じない。
「蠍座、射手座。……あのあたりに天の川があるんだろうけど」
 新一が南天を指さす。
「それをゆうたら、織姫と彦星の間にも流れとるはずやけど……、見えへんな。やっぱり」
 平次は天頂を見上げた。
 夏の大三角。それを含んだ星座はわりときれいに見えているのだが。
「恋に夢中になって、自分の仕事をおろそかにした。だったよな、あの二人が引き裂かれた理由は」
 新一も天頂を見上げている。
「そうや」
「……俺にはわからねぇな」
 新一がつぶやく。
「事件より優先させるモノなんて、ない」
「本気の恋をしたら、わかるようになるかもしれへんで」
「おまえはしたことあるのか? 本気の恋」
「しとるよ」
 新一が息をのむのがわかった。
「……事件より、恋の方が大事か?」
 新一の視線を頬に感じたが、平次は星を眺めたまま答えた。
「まさか」
 平次は軽く笑って想い人を見た。暗くて新一の表情は読めない。
「そないなことになったら、俺はそいつに軽蔑されるやろうな」

 今回の新一からの誘いも、事件が起こり呼び出されたのならキャンセルしていた。直前であっても。
 新一は、理解してくれるだろう。
 というより、事件より新一を優先させた日には絶縁されかねない。
 そしてたぶん、発破をかけられるのだ。
 『解決するまで来るんじゃねぇぞ』と。
 口調から表情まで想像できて、平次は笑った。

「良い恋人じゃん。和葉ちゃんか? やっぱり」
「ちゃうよ。片思いや。下手すると、一生叶わんかもしれへん」
 あきらめているわけではないが、難しいと思う。それでもこの想いを手放すことはないだろう。
「本当に本気なんだな」
 ひたと見つめられているのがわかる。

 平次は新一に伸ばしかけた手を握りしめて押さえた。
 告げてしまいたくなる。
 思い切り抱きしめて、その耳元に、好きだと囁いてしまいたくなる。

「本気やで。これ以上はないと思うてる」
 暗くて良かった。
 さもなければ、気づかれる。
 自分の視線が今、ひどく熱を持っていることを平次は疑っていなかった。
「俺も本気になった相手より事件を優先させるだろうな。きっと」
 新一の視線が逸らされる。
 工藤には蘭ちゃんが……、そう言い掛けた平次を制するように、新一が笑った。
「その人に誰か好きな人が出来たとしたら、おまえどうする? あきらめるか?」
「いや。一生片思いでもそばにおるよ」
「そうか。……でも、俺もそうする。もしかしたら、振り向いてもらえるかもしれないしな」
「蘭ちゃんやないの?」
 かすかに新一の笑う気配がした。
「蘭じゃない。ここんとこもやもやしていたんだけど、おまえと話していて、わかった。そいつのこと、好きになったらしいって」

 皮肉なことやな、と平次は思う。
 平次は空を見上げた。
 天の川に隔てられた、恋人たちを眺めやる。
「……叶いそうか?」
「難しいな」
 即答される。
「工藤に落とせんやつがおるとは思われへんのやけど?」
「その科白、そのままおまえに返してやるよ」
 顔を見合わせて苦笑する。
「障害がなぁ、でかいんよな」
「おまえなら乗り越えられるんじゃねぇの? 天の川も自力で渡りそうだぞ。服部なら」
 からかうように言われて、平次も言い返した。
「おまえはどうやねん? 障害でもあるんか?」
「ある」
 これまた即答だ。
「つらいとこやな」
 胸の奥が痛むと同時に、希望がわく。
 できあがった恋人同士を裂くようなまねはしたくないが、成就していない恋ならば横から奪ってやりたい。

「まったくだ。さて、家に入ろうぜ。シャワーを浴びて、酒でも飲もう」
「こら、未成年!」
 形式上の突っ込みに返ってきたのは笑い声だ。
「飲みたくねぇなら、飲まなくても良いんだぞ」
「……ご相伴させていただきます」
 神妙な平次の答えに、新一がまた笑う。
 新一が平次に背を向けた。
 翻る白い袂。
 闇に浮かぶ彼の姿は、普段よりずっと華奢に見えた。
 抱きしめたい衝動を抑えて、平次は彼の後ろに続いた。

 障害のある恋は燃え上がる。
 だが、ひとり秘めた想いを抱えてもいても、それはむなしく自分の身を焼くだけ。
 想いに気づいてほしい。
 だが、気づかれれば、二人の関係が終わるかもしれない。
 自分の抱えた想いに気がついてから、平次はずっと悩んでいた。
 だが、その葛藤の決着が、今夜ついた。
 どんな相手であれ、彼を取られたくないのだ。
 障害を乗り越える努力を惜しむ気など、まったくない。

 天の川、泳いで渡ったろうやないか。

 平次は口元に不敵な笑みを刷いた。


 

夕されば 蛍よりけにもゆれども ひかり見ねばや人のつれなき

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 562 紀友則

夕方がくると光る蛍よりも恋にもえるけれども、私の恋は蛍のように目には見えないのであなたは気がつかない。

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