静夜思

牀前(しょうぜん) 月光を()
疑うらくは是れ地上の霜かと
(こうべ)を挙げて山月を望み
頭を()れて故郷を思う

 



 凍てついた空に、氷の月が張り付いている。
 白い光が夜に満ち、風を刃に変えていた。
 もの悲しい音で、葉を落とした枝が鳴る。


 目が覚めた。
 新一は心のうちで首を傾げた。
 なぜかはわからないが、眠りの余韻もないままに、ぽっかりと目が開いてしまった。
 夢を見ていたような気もするが、定かではない。
 灯りを落とした部屋の中、一筋の光が見える。
 カーテンの隙間からベッドの上に、細く細く差し込んだ真っ白な光。

 月が。

 新一はガウンを羽織ってベッドから下りた。
 冷気がむき出しの首筋を撫でる。
 が、かまわずに、カーテンを引き開けた。
 部屋に満ちる、月光。

 見上げれば、高みの梢に月が引っかかっている。
 満月。
 ガラス越し、清冽な光が部屋の空気を冷やす。
 窓の外はすべてのものが凍てついているようだ。

 思わずため息をついて、新一はふと気が付いた。
 窓辺にいながら、それでも外に影の差さない位置に立っている自分に。
 知らぬ間に、用心深くなっていた。
 新一は暗い目で外を眺めた。

 日本を離れ、早四年。
 危険な目には何度も遭った。
 だが、神経をすり減らす日々も、もう終わった。
 新一の命を狙っていた組織は、崩壊したのだから。
 そして、昨日、新一にとって最も危険な男、ジンの遺体を確認した。

 スリッパを履いた足下から、寒さが這い上がってくる。
 新一はカーテンをそのままに、ベッドの中に潜り込んだ。
 白いシーツを輝かせて、ベッドの上にアーチを描いた窓の形が落ちている。
 枕に頭を預け、新一は月を見上げた。

 日本で迎えた最後の夜も、満月だった。
 手入れの行き届いた庭を照らしていた月明かり。
 なぜだろう。
 幾度となく自宅で月を眺めているはずなのに、思い出すのは大阪の月。

 縁側に吹き抜けていた秋風と。
 辛口の日本酒と。
 彼。


「月見酒に誘うとは、風流なことするじゃねぇか」
「月見で一杯、花見で一杯は基本やろ」
「……それは花札だろうが!」
「ま、ええやん。酒が飲めるんやったら」
「未成年のくせに」
「お互い様やん。あ、今度、桜が咲いたら花見酒しような。穴場があんねん」


 差し出された盃と、笑顔。
 花見酒の誘いには、応えられなかった。
 その“今度”があるとは、思っていなかったから。

 あの時。
 無事に戻る、とは言えなかった。
 彼に、服部平次に、嘘はつきたくなかった。
 たとえ、それが彼の望む物であったとしても。

 彼は今、どうしているだろう?
 二人が最後に交わした約束は、「忘れない」。
 決して嘘にはならない、誓い。
 そして、あの夜は、忘れられない夜になった。

 忘れない。
 忘れるはずがない。
 身体が溶けるような熱を分け合った相手を、どうしたら忘れられる。

 だが。
 新一は小さくため息をついた。

 時間は無慈悲に流れていく。
 明けないことを願ったあの夜も、いつものように朝が来た。
 彼がつけた緋色のアザも、いつの間にか消えてしまった。
 どれほどの情熱も、時に晒せば色褪せる。
 彼にとって、あの夜の出来事は、セピアに染まった想い出になっているかもしれない。
 そして、今、ほかの誰かをあの腕に抱いているかもしれない。

 だが、それを責めることは出来ないと、新一は思っている。
 引き留める腕を振りきったのは自分。
 すべての連絡を絶ったのも自分。
 その自分が原色のままの想いを抱いているからといって、彼に同じモノを求めるわけにはいかない。

 瞳を閉じれば、あの夜がよみがえる。
 刹那の夢を見た夜。
 探偵として共にあった時間は短い。
 想いを重ねた夜は、なおのこと短かった。
 だが、こうして離れていた時間は、それらと比べようがないほど長い。
 変わっていて当然だ。
 夢はいずれ覚めるのだ。
 新一は目を開けた。

 月がある。
 冷たい光を放って空にある。
 この光は、数時間後、あの庭を照らす。
 彼の暮らす、あの家の。

 新一は月に向かって微笑んだ。
『ケリつけてこな、アカンで』
 耳に残る声に、心の中で答える。

 ちゃんとケリが付いたよ。服部。
 桜の時期には、日本に帰れる。
 花見酒に付き合ってやるよ、仕方がないから。

 太陽に愛されているような彼は、月の光のように冷たくはない。
 日本に帰って連絡をすれば、昔のように会えるだろう。
 たとえ、自分を見る眼差しが変わっていたとしても。
 新一は目を閉じた。
 朝までは、まだ時間がある。


 月光がゆっくりと部屋から消えた。
 満月は大きく西に傾き、東の空に青が差す。
 まもなく、暁光が見える。


 


静夜思

李白

牀前看月光
疑是地上霜
擧頭望山月
低頭思故ク

ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイシヨノコトガ気ニカカル

「厄除け詩集」井伏鱒二

 

  戻る  

「田家春望」へ