田家春望

門を出でて何の見る所ぞ
春色 平蕪(へいぶ)に満つ
(たん)()し 知己無きを
高陽の一酒徒

 


 和装の女性の姿がちらほら見える。
 ぎこちない動作に着慣れぬ事がうかがえた。
 服部平次は彼女らの微笑ましさにこっそりと笑った。
 正月番組にも飽きて、ふらりと出てきた夕暮れ時の神社。
 初詣の人波は、元旦ほどではないものの、それでも途切れることはない。

 手水の水は指が切れそうなほど冷たい。
 茅野輪くぐって、拝殿へ。
 賽銭箱に小銭を投げ、鈴を鳴らして神を呼ぶ。
 二礼二拍手一礼。

 昨年、無事に過ごせた報告と。
 今年、無事に過ごせる願いと。
 そして。
 ここにはいない、彼の事を祈る。

 どうか、工藤が無事でありますように。
 あの組織が早う潰れますように。

 遠く離れて、早四年。
 便りひとつも寄越さない、愛しいひと。

 無理しとりませんように。
 怪我しとりませんように。
 笑うとりますように。
 どうか、無事で。
 無事に、日本へ帰って来れますように。

 賽銭以上のことを祈ったかと、平次はちいさく笑って拝殿を離れた。
 願掛け絵馬の脇を抜け、ふと目に付いた神籤売り場に近寄った。
 互いの神籤を見せ合う恋人たち。
 声に出して読み上げる子供。
 一際目立つ、若い女性たちの声。

「いややわぁ。凶やて」
「お正月に凶を引くやなんて、かえってめっちゃすごい籤運なんちゃうん?」
「もういっぺん引いたらアカンかな?」
「アカンやろ。一回きりやから占いになるんやんか」
「せやなぁ、枝に結んで帰ろか。で、なにやった?」
「うちは大吉や。今年一年は最高やって」

 たわいのないおしゃべりを聞き流し、平次は籤を引いた。
 出た数字を巫女に見せ、神籤を貰う。

 ―― 吉。

 可もなく不可もない。
 大吉よりは良いかと平次は思った。
 大凶が転じて吉となるように、大吉も転じるような気がしてならない。
 今が最高だというのなら、後はもう落ちていくしかないではないか。
 満ちれば欠ける月のように。
 道長が詠った、欠けない月などどこにもない。
 平次は自分の神籤を読んだ。

 願い事、早く叶いて喜びあり。
 失せ物、必ず出る。早く探せ。
 学問、自己の甘えを捨てよ。
 恋愛、思うだけではだめ。
 待ち人、障りなく来る。

 彼が、来るというのか?
 工藤が帰ってくると……。

 息をのんで文字を見つめる。
『待ち人、障りなく、来る』

「忘れない」
 秋の冴え冴えとした月光をはじいて、微笑ったひと。
 思わず伸ばした手を受け入れてくれたひと。
 優しい嘘さえつかずに消えたひと。

 忘れない。
 忘れられるはずもない。
 焦がれ焦がれて、やっと手に入れた愛しいひとを。

 想いが通じたあの夜は、秋の夜長が嘘のように短かった。
 眠りを拒んで、一晩中彼を見ていた。
 安らかな寝顔に口づけて。
 髪に指を絡めて。
 時を止めることが叶うなら、そう願った。

 彼の笑顔。
 彼の眼差し。
 彼の声。
 彼のぬくもり。

 いつか忘れてしまうのではないかと。
 記憶が薄れてしまうのではないかと。

 しかし、あの朝恐れたことは杞憂だった。
 今もなお、彼の事は色鮮やかなまま、自分の心の中に焼き付いている。
 彼は……。
 彼もまだ覚えていてくれるだろうか?
 あの夜のことを。

 平次は見つめ続けていた神籤を、丁寧に折り畳んで財布にしまい込んだ。
「あれ? 服部君やないの?」
 掛けられた声に振り返ると、どこかで見たことのある女の子たち三人が立っていた。
「服部君も初詣?」
「うちらもそうやねん」
「なぁ、この後新年会やるんやけど、服部君もけぇへん?」
「せやせや、服部君なら、飛び入りでも大歓迎や」
 飲み会への誘いで、彼女たちの名前を思い出した。
 一ヶ月ほど前のコンパに出てきていた、女子大のメンバー。
 平次は笑顔でひらりと手を振った。
「すまんなぁ」
 酒は飲みたい気分だが、賑やかにはしたくない。
 まして、女と飲む気分ではない。
「ちょお用事あんねん。また、今度な」
 調子のいいことを言って彼女たちに背を向ける。
 後ろで、彼女との約束だの、事件だのと勝手な理由を言っているのが聞こえた。

 新一がいなくなってから、平次は女に深入りしていない。
 特定の彼女を作ったこともない。
 遊びと割り切れる大人の女とだけ、後腐れの無い関係を結ぶ。
 おかげで女たらしと呼ばれるようになった。
 だが、かまわないと平次は思う。
 追い求めているのはただひとり。
 彼よりほかに、心の底から欲しいと思ったことなどない。
 彼さえいれば、女などいらない。

 参道を行き交う人を避けながら一の鳥居をくぐれば、神域を出る。
 平次は小さく息を吐き出した。
 何となく家を出てきたものの、結局は彼の不在を思い知らされただけ。
 暮れなずむ空を見上げれば、そこに上弦の月。
 欠けても満ちる月はよい。
 彼を欠いた自分は今も、心のどこかを欠いたまま。

「待ち人、来る」
 平次はそっと呟いた。
 今年の神託は悪くない。
 もしかすると本当に彼が帰ってくるかもしれない。
 たかが占い。
 されど占い。
 すがる想いが、信じるように唆す。

 工藤……。
 はよ、帰ってこいや。

 あの夜のように、月を肴に酒でも飲むかと、平次は空を見上げてちらりと笑った。 


 


田家春望

高適

出門何所見
春色滿平蕪
可嘆無知己
高陽一酒徒

ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
正月キブンガドコニモミエタ
トコロガ会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデ大ザケノンダ

「厄除け詩集」井伏鱒二

 

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