平次は、目を覚ました。
目覚ましなど必要がない。
どれほど前日疲れていたとしても、決まって同じ時間に目が覚めてしまう。
習慣とは恐ろしいものだ。
春とは言え、閉め切られたカーテンにはまだ日差しが当たっておらず、部屋の中は薄暗い。
そういえば、寝付く頃までしていた雨音がしない。
叩きつけるような雨に、窓ガラスを揺する風。
夜半通過した寒冷前線は、雷までも連れていた。
大雨もどうにか止んだか、と平次は何となく思った。
ぼんやりと瞬かせた目に普段と変わらぬ天井が映る。
いつもと違いぬくみを感じる左側に目をやって、平次は息をのんだ。
――工藤……?
平次の方へ少し顔を向けて、新一が眠っている。
平次はそうっとその安らかな寝顔に右手を伸ばした。
触れてしまわぬようにかざした掌に、温かな彼の吐息がかかる。
夢やない……。
平次は詰めていた息を吐き出した。
新一の寝乱れて額にかかった髪を起こさぬようにかき上げてやる。
さらりと指をすり抜ける、短い髪。
現実の、彼。
こいつは、帰ってきたんやった。
***
「今、関空に着いたところだ。……何言っているんだよ、もちろん日本のに決まっているだろ」
耳を疑った電話の声。
友人たちとの花見の約束を反故にして、駆けつけた関空特急の終着駅。
改札口の前で立ちつくしていた自分の前に、ゆるやかに彼が立ち止まった。
垣間見えるどんより曇った空。
改札口にまで吹き込んでくる風は、重く冷たい。
夕方と言うには暗すぎる背景の中、乗降客のざわめきを打ち消して、新一が言った。
「よぉ、服部」
夢にまで見た彼は、夢以上に鮮やかに、平次に向かって笑いかけてくれた。
まるでさらうように新一の腕を取って、平次は駅の人混みから抜け出した。
狂わんばかりの愛おしさと不安が、平次を駆り立てる。
約束通り、彼は自分を忘れてはいなかった。
だが、あの夜交わした想いを、あの時のまま、彼が持っているかどうかは分からない。
きっと忘れてはいないだろう。
それでも、想い出になってしまっていることはあり得る。
過去の、想いに。
人前では決して訊けぬ疑問を胸に、平次は自宅へと急いだ。
家に着く頃には、雨が降り出していた。
母の歓待。
珍しく早く帰宅した父との会話。
昔と変わらぬ新一の対応にもどかしさを感じて、平次が彼を自室に招き入れたのは、まだ宵の口だった。
あの夜と同じように銚子と盃を盆に乗せ、平次が部屋に戻ってみると、新一がカーテンを開けて外を眺めていた。
「よう降っとるな」
振り向いた新一に盃を差し出せば、受け取った彼が平次の横に腰を下ろす。
酒を一口、口に含んで、新一が少し目を見開いた。
「これは……?」
「あんときの酒や」
答えて、平次も盃をあおる。
最後になるかもしれないと覚悟して、二人で過ごしたあの夜に飲んでいた酒。
月を眺めて独り飲んでは、彼のことを想っていた。
今宵、月はない。
だが、彼がいる。
閉め切られた窓から、雨音が忍び込んでくる。
塗りつぶされたように暗い外。
窓に流れる水滴だけが、部屋の灯りをはじいて白い。
激しい雨の音に、雷鳴が混じる。
それに耳を傾けながら、二人はしばし無言で飲んだ。
「なぁ、工藤」
平次は新一に酌をしながら口を開いた。
「なんで、関空にしたん?」
そのまま自宅に帰るのなら、成田の方がいいに決まっている。
それをわざわざ大阪経由にしたのは、自分に逢いたいためではないのか?
それはまだ、あの時の、あの夜の、想いを彼が持っているからではないのか?
すがる思いでひたと見つめた平次の前で、新一が微笑った。
「大阪の桜、今が見頃だって聞いたからさ。おまえが昔言っていた、花見酒に付き合ってやろうと思ったんだよ」
この雨じゃ、とても無理だけどな。
「覚えとってくれたんか」
「おまえは……?」
逆に問うてきた新一の瞳。
その中に見間違いようのない光を見つけた。
あの夜。
「堕ちるか?」と言った新一の。
熾火のような熱を秘めた眼差し。
「忘れるわけ、あらへんやろ……!」
ほんのすこし、平次の声が震えた。
湧き上がってくる喜びに、盃を盆に戻す指まで震える。
平次は新一に手を伸ばした。
抱き寄せた身体は、昔よりも硬く引き締まっている。
すっかり男の身体になった彼の首筋に顔を埋める。
きつく抱きしめても、新一からはなんの抗議も返ってこない。
代わりに、彼の腕が平次の背中に回った。
「約束通り、ケリをつけてきた。忘れてはいないぜ。なにもかも」
耳元でのささやきはひどく甘い。
平次は新一の顔をのぞき込んだ。
わずかに潤んだ瞳。
ほんのりと染まった頬。
色づいた唇は、たぶん酒のせい。
「逢いたかった。逢いたかったで、工藤。ほんまに、よう四年半も逢わずにおれたもんやと思うわ」
「俺もだ」
内側からにじみ出るような微笑みを浮かべた新一に、平次は思いの丈をぶつけるように口づけた。
***
さらりさらりと指をすり抜ける黒髪。
その手触りを楽しみながら、平次は新一の寝顔を飽きず眺めていた。
四年半という時間を経て、新一は平次の元に帰ってきてくれた。
変わらぬ気持ちを抱えたまま。
だが。
右の太股に、二つ。
左の肩にも、一つ。
生々しさこそ薄れていたが、見間違いようのない銃痕が、新一の身体にはあった。
新一の寝顔を見ながら、平次はちいさく息を吐いた。
離れていた、四年半。
いったいそれは、新一にとってどんな時間だったのだろう。
彼の命を狙った人間に対する憎悪と。
自分の知らない彼の時間を共に過ごした人々に対する嫉妬。
今更どうしようもないことに、出るのはため息ばかりだ。
日の光がカーテンに射して、部屋が薄い緑色に染まる。
新一の瞼が震えて、彼が目を覚ました。
かすんだような瞳を瞬かせて、平次に向かってふわりと笑う。
髪をすいていた指を滑らせて、平次は新一を抱き寄せた。
「おはようさん」
「おはよう……。雨、止んだんだな」
「そうみたいやで」
「桜、散っただろうなぁ」
残念そうに新一が言う。
雷が鳴るほどの雨だったのだ。
風も強かった。
花は無惨に散っているだろう。
「せやな。花見はもう無理かもしれん」
せっかく満開だったのに。
せっかく新一が楽しみにしていたのに。
月に叢雲、花に風とはよくいったものだ。
「服部」
新一が平次を見て、いたずらっぽく笑った。
「東京の見頃は、もう少し先だぜ?」
暗に誘われて、平次も笑顔を返した。
「もちろんや。約束通り、花見酒をせなな」
酒を持って、上京しよう。
桜の花と、新一を追いかけて。
平次は言葉の代わりに、新一の額に口づけた。
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