ひやりとした風が吹く。
昼間の暑さこそ夏の名残。
夜はすでに秋の気配が濃い。
服部平次は自室の縁側で、盃を口に運んでいた。
横に置かれた盆の上には、銚子が三本。
そして、その隣には工藤新一。
平次の親友でもあり、ライバルでもある男だ。
彼の手には平次とそろいの盃。
日本酒は飲みつけないのか、新一の目元はすでにほんのりと紅い。
月が、庇をかすめて、彼らを照らしていた。
庭の闇の中に、ひとつふたつ、秋の虫の声がする。
ときおり吹き抜ける風が、揺れる草木の気配を運んでくる。
折しも、満月。
「……工藤」
平次は盃を置いた。
「なんだ?」
染まる頬とは裏腹に、新一の声はしっかりしている。
「どうや、この酒」
「美味いよ」
差し出された盃に、平次は酒を注いだ。それを新一が口に運ぶ。
「向こうじゃ、これほどの日本酒にはお目にかかれないかもしれないからな。良い想い出になる」
自分の盃に酒を注ぐ平次の手が、ふと止まった。
だが、何事もなかったかのように、平次はその盃を満たした。
「えらい、急な話やったな。おまえの送別会を準備する暇もなかったやないか」
明日、新一は日本を発つ。
「やるなよ、そんなもの。それに、行方不明の人間の送別会って、なんか妙だぞ」
かすかに新一が笑う。
工藤新一は行方不明のまま、渡米する。
彼を幼児化させた組織の息の根を止めるために。
「俺も行きたかったんやけどな」
平次の言葉はすでに過去形だ。
「おまえには、感謝している」
すでに心を決めた目で、新一が平次を見た。
電話で何度も話し合い、もう新一の心が揺らがないことを平次は知っている。
「そんなもん、せんでええよ。それより、きっちりケリつけてこなアカンで」
「わかってる」
平次が銚子を手に取ると、新一が盃を差し出す。
月が酒をきらめかせる。
新一の渡米には、危険がつきまとう。
日本の支部を完全につぶした、影の立て役者。
組織は今、破滅へと追いつめられている。
本拠地に乗り込んでゆく彼に、組織の憎悪は集まっている。
それを知る平次は新一を止め、新一はそれを知りながら敢えて行くという。
二人は、激しい喧嘩をした。
しかし、結局、平次が折れた。
そして二人は、最期になるかもしれない夜を迎えている。
盃に月を映しこみ、平次はそれを眺めた。
別れは、初めてではない。
死別とてそうだ。
会話を交わしていた人が、数分後には死体となっていたこともある。
多くの別れを見、多くの死を見た。
永遠に大切な人を喪った慟哭も、また。
謎が解け、憎しみが消えても、人は還らない。
理解していたはずだ、すべてのモノにやがて終わりが来ることを。
なのに、今、新一を喪うかもしれない未来が、平次は恐ろしかった。
盃を、干す。
平次の手酌を新一が止めた。
新一の差し出す銚子を盃で受ける。
「無事に帰ってくるんやで」
「……努力する」
「約束してはくれんのか?」
「出来ねぇよ」
願う平次の眼差しを新一の厳しい表情がはじく。
彼は、優しい嘘すらつこうとしない。
平次は盃に口を付けた。
自分の盃に酒を注いで、新一が言う。
「俺がここまでやってこれたのはおまえのおかげだ。感謝してるぜ、服部。ありが……」
「ゆうな。今、そんな言葉、聞きとうないわ」
平次はとっさに新一の言葉を遮った。
別れ際のありがとうは、さよならと同じだ。
別れの言葉を新一の口から聞きたくなどなかった。
「礼なら、帰ってきてからゆうてや」
新一はなにも言わず、酒を飲んでいる。
「もう引き留めたりはせぇへん。おまえの抜けた穴、俺が出来る限り埋める。せやから、せめて……」
「果たせないかもしれない約束は、しない」
今度は新一が平次の言葉を遮った。
正面から目が合う。
逸らされることがない、強い光を秘めた瞳。
「工藤……」
平次の焦がれた新一が、そこにいた。
なにものにも侵されない、気高い男。
平次は言葉を失った。
「最期の言葉が嘘だなんて、洒落にならねぇだろ?」
新一が盃を干す。
平次は銚子に手を伸ばした。
同じように伸ばされた新一の指とぶつかる。
平次はとっさに新一の指先を捕まえた。
「はっとり?」
「せやったら……、せやったら、なにか嘘にならん約束をしていってや」
細い指先を握りしめ、乞う。
新一がかすかに笑った。
「忘れない」
とらえた手を握り返される。
「俺は、おまえを忘れない。約束する。まぁ、おまえみたいに騒々しいヤツのこと、忘れようたって出来ねぇけどな」
新一が、笑う。
闇に浮かぶ白い華。
「工藤」
平次は掴んでいた新一の手を、縁側に縫いつけた。
新一の顔が平次に近づく。
狂おしいほど愛おしい、彼。
このまま手を離さずに、自分のそばに引き留めておきたい。
ずっと、ずっと、一緒に……。
平次は、声を絞り出した。
「……忘れんといてな。俺のこと」
「あぁ」
深い色をした瞳が、まっすぐに平次をとらえている。
平次は吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「おまえも、忘れるなよ?」
「あたりまえやん」
強く言いきると、新一が嬉しそうに笑う。
鮮やかな笑みに、平次の中の戒めがほどけた。
「好きや……」
言葉が、こぼれた。
心に秘めていた想いがあふれた。
声は闇をふるわせて、もう取り消すことは出来ない。
息をのんだ平次に、新一が微笑んだ。
まるで、月の光に溶けるように。
その笑みに誘われて、平次は新一に手を伸ばした。
指先よりも熱い、彼の頬。
「好きや、工藤」
平次の指を逃げずに受け入れていた新一が、目を伏せた。
白い頬の上に睫毛の影が落ちる。
「知ってた」
呟く唇はほのかに紅い。
「俺は、おまえのこと、嫌いじゃない。たぶん、好きなんだろうと、思う」
言葉を選ぶように、新一が言う。
「たぶん?」
「おまえの気持ちに気が付いたとき、嫌じゃなかったから」
唇が笑んだ。
「それに、日本を発つ前に、会っておきたいヤツはおまえだけだった」
新一が目を上げた。
曇りのない瞳に平次が映っている。
「工藤……」
ささやいて顔を寄せると、新一が目を閉じた。
平次は息を詰めて、触れるだけの口づけをした。
平次は頬に置いていた手を滑らせて、新一の頭を抱き寄せる。
「残酷だな」
「……そうやな、すまん」
「おまえがじゃない。俺がだ」
平次の耳元で新一が呟く。
「俺は、行くから」
平次は大きく息を吐いた。
「引き留めんよ。もう」
説得はしつくした。
しかし、新一が自分で決めたことを翻し、引き留めに応じるような男であれば、平次はたぶん惚れたりしなかっただろう。
「残酷なんはお互い様や。こないなときに、告白するなんてな」
もう、この先二度と会えないかもしれないというのに。
一緒にいることが出来るのは、今宵だけかもしれないのに。
新一が平次の肩から顔を上げた。
「同罪か?」
「せやな」
平次が即答すると、新一の瞳がほんのわずかに揺らめいて。そして、彼はささやいた。
「なら、……一緒に堕ちるか?」
「ええよ。俺はおまえとなら……。後悔、せぇへんな?」
「させるのか?」
挑発的な眼差しを向けてくる新一に、平次は「まさか」と答えた。
彼の唇の上で。
人影のない庭に、虫の声が響く。
彼らのひそむ草の陰を、ときおり風がおびやかす。
縁側には置きざられた、銚子と盃。
酒に濡れた盃に月の光がはじかれる。
空には、満月。
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