無自覚な関係シリーズ 第十三章
収 束
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「黒羽くん!」
哀の開けたドアから思いがけない人物が入ってきて、快斗は驚いた。
会いたくて、会いたくなかった相手、白馬探。
探は大股に快斗の枕元に近寄ってきた。快斗の包帯の巻かれていない左手を取り上げ、屈み込んで額に押しつける。
「無事で良かった」
深々と安堵のため息をつき、探は笑顔を見せた。
その後ろでドアの閉まる音がした。哀がそっと出ていったらしい。快斗は内心冷や汗をかいた。彼女が探の行為をどう思ったのか、とても気になる。
「きみの状態は服部くんから聞いていましたが、自分の目で見ないと安心できなくて」
快斗の左手を両手で包んだまま、探はそばの椅子に腰掛けた。
「なんで俺がここにいるってわかったんだ」
彼の手を振りほどこうとしながら、快斗は尋ねた。
「工藤くんからメールをもらったんです。隣の家で月見をしているから来いと。今夜の満月はきれいですし、不自然ではないでしょう」
暗号とも呼べないメールに快斗は内心苦笑する。
「それで、中森警部からの疑いは晴れたのかよ」
「まだです。尾行はまいて来ましたから、大丈夫ですよ。ここに来たことが後で見つかっても、工藤くんたちが誤魔化しに協力してくれるでしょうし」
にこにこと笑いながらも、探は快斗の手を解放してくれなかった。
「それで怪我の具合はどうなんですか。痛みは? 治療してくれた医師は信頼できるのでしょうね? 警部はキッドが墜落したと知ったら、病院に手配するでしょうから」
「怪我はまぁ、しばらく車いす生活になるのが不便なぐらい。どこも折れてはいないらしい。痛みはそれなり。医者の方は新一の紹介。腕もいいし、口も堅いし、信頼も出来るらしい。警部の手配もかいくぐれそうだよ」
矢継ぎ早の質問に律儀に答えて、快斗はため息をついた。
「いい加減手を離せ」
「嫌です」
即答されて、快斗は声を荒げた。
「落ち着かないんだよ」
「僕は落ち着きます」
またしても即答される。
言葉を失った快斗に探は畳みかけた。
「温かいきみの手を握っていると、きみが生きているのだと実感できます。キッドが墜落していくのを見て、僕は心臓が止まるかと思いました。ハンググライダーの事故がどういう結果を生むのか知っていましたから、最悪の事態まで考えたんです」
だから、と探は快斗の手の甲に口づけた。
快斗は自分の頬が熱くなっていくのを止められなかった。
探の片手が、快斗の頬に伸ばされる。治療のために張られたガーゼをよけて、頬を撫でる。
「怪我はしていても元気そうなきみを見て、僕がどれほど安堵したと思いますか。それにきみは自分がキッドであることを否定しようとはしない。それがどれだけ嬉しいことか」
探がベッドの上に身を乗り出し、快斗の顔を正面から見つめた。
色素の薄い彼の目から、快斗は目を逸らすことが出来なかった。
「僕はきみの力になりたいんです。協力させてくれませんか」
「……今回の件で、白馬はもう共犯者になったようなものだろ」
正体は、ばれた。
自分を逃がすために警察の動きを知らせてくれもした。
「いいえ。僕は工藤くんたちのように、きみを見守るだけなんて出来ない」
出来ないんです、と探がささやく。
思わず快斗は探の手を握り返した。
やはり彼は平次が新一に抱いていたのと同じ想いを、自分に対して持っているのか。
新一には平次が、平次には新一がいたように、自分には彼がいるのだろうか。
「なんでだよ」
ようやくそれだけを快斗は問うた。
「どうしてあいつらと一緒じゃだめなんだよ」
「どうして……」
快斗の頬をなぞっていた探の指が止まった。
彼は目を伏せる。
そしてゆっくりと目を上げた。晴れやかな笑みを浮かべている。
「今、わかりました。どうして僕がこんなにきみにこだわるのか。どうして、探偵という立場だというのに、きみの力になりたいのか」
探は笑みを深める。
「きみを愛しているからです」
固まった快斗をどう見たのか、探は続ける。
「だから、彼らと同じ立場では我慢が出来ないのです」
火を噴きそうになっている頬と、暴走している心臓をどうすることも出来ず、快斗は黙って探の言葉を聞いていた。
本当は言いたいことが山ほどあった。
今まで自覚せずにくどき文句のような言葉を垂れ流していたのか、とか。
自覚もしないで男の手に口づけが出来るのか、とか。
自覚していない想いに振り回されて、ペースを乱された自分の立場はどうなるんだ、とか。
「それが理由です。僕の本心です、黒羽くん。日本では受け入れられにくいものではありますが」
なにも言わない快斗に、自信家の彼の顔が曇る。
快斗は首を振った。
肺の中の空気を全部吐き出す勢いでため息をつく。
「わかったよ。白旗だよ。どうにでもしてくれって感じだ」
赤い顔で投げやりに言う快斗に、さすがの探もとまどう。
「それは、どういう意味ですか」
「おまえには負けたって事だよ。共犯者にでも恋人にでもなってやる」
頬から手を離し、探は椅子に座り直した。それでも快斗の左手は離さない。
「受け入れてくれることは嬉しいんですが、きみはそれでいいんですか」
「いいから、いいって言っているんだ」
怪我の八つ当たりも込めて、快斗は探を睨んだ。
「おまえが力になりたいなんて馬鹿なことを言うから、俺は悩んでペースを崩したんだ。断りたかったのに、断れなかったんだよ。おまえの申し出」
なぜと聞く探に、快斗は自棄になって告白した。
「おまえを共犯にしてしまいたいって、思ったから。新一や平次にはそんなこと思ったことなかったのに」
「だから、こんな怪我を」
探が目を細める。
「おまえのせいじゃない」
「でも、普段のきみならしなかった」
探が快斗に向かって腕を伸ばす。傷に障らないように抱き寄せられて、快斗は目を閉じた。もう逃げる気にもならない。
「ようやく捕まえることが出来ました」
捕まってやったのだというと、彼は小さく笑う。その余裕が癪だ。
「まず、共犯の疑いを晴らさないとな。白馬も疑われたままじゃ、動きづらいだろ」
「共犯者としての初仕事はそれですか?」
いや、と快斗は首を振った。
探がその顔を覗きこむ。
「明日、新出先生の病院に連れて行くことだ」
「了解しました」
探の顔が近づいてくる。
快斗は目を閉じた。
初めてのキスはいたわるように優しかった。
「彼はなに?」
上から声が降ってきて、ふたりは階段を見上げた。
哀が呆れたような顔で下りてくる。
「警視総監の息子の探偵。白馬探」
「最近ではキッド専門の探偵やな」
「そういうことを聞いているんじゃないの」
階段を下りきって、哀がふたりを見上げる。
新一は平次と顔を見合わせた。本当のこと言っても良いのか迷う。
「もしかして、ここ最近黒羽くんがおかしかった原因っていうのは、彼?」
哀の前で探はいったいどんな言動をしたのか。新一は頭を抱えたくなった。探の常識はいまいち人と違う。
「そうや」
あっさりと平次が答える。隠したところでしかたがないと思ったのだろう。
「詳しいことはあいつらに聞いてや。あ、白馬に聞くんはやめといたほうがええで」
「あなたの言う意味、なんとなくわかるわ」
なにを見たのか、哀が苦笑する。
「あいつらのことは放っておいて、もう寝た方がいいぞ、灰原。白馬には勝手に帰るようにメールしておくから。どうせ玄関はオートロックなんだし」
「そうさせてもらうわ」
「そろそろ俺たちも帰る。今晩だけ、快斗を頼むな」
哀は頷き、テーブルの上を指さした。まだサンドイッチが少し残っている。
「出来たら全部食べていって」
おおきに、と平次が哀の目の前で残りを全部平らげた。
平次は工藤邸のリビングに入って、足を止めた。
出かけたときの慌ただしさが、まだそこには残っていた。
コーヒーを飲んだままのマグカップも、床に落ちたクッションも、そのまま。明かりもつけたままだった。
出かける前の新一とのやりとりも、そのままそこに残っているようだった。
何よりも大事なのは新一だと、告げたときに見せた彼の表情が甦る。
自分の想いを彼が受け入れ、彼もまた同じ想いを抱いていると確信させてくれた表情だった。
幸せな気持ちがリビングには残っている。
「突っ立ったまま、なにしてるんだ。寒いだろ。エアコンつけようぜ」
新一が平次の横をすり抜け、リビングに入っていく。
平次はその背を抱きしめた。
「服部」
声は上げても、新一は平次の腕を振りほどこうとはしなかった。
「工藤」
彼はまだ外の寒気を纏っていた。その首筋に顔を埋める。
後ろ手に新一が平次の髪を撫でる。
「服部、なにしてるんだよ」
「好きや」
耳元でささやくと、新一が身をよじって振り返る。
彼の目を見つめて、平次はもう一度言った。
「好きや、工藤。まだゆうとらんかったやろ」
すでにほんのりと赤かった新一の顔が、ますます赤くなっていく。照れて目を泳がせるのが、彼の答えだ。
求め続けた新一を手に入れることが出来た実感が、じわじわと平次の中に満ちてくる。
「工藤」
名を呼ぶと、彼はようやく平次を見た。
赤い顔のまま新一が平次の頭を抱き寄せる。
好きだ。
唇が触れる寸前、新一がささやく。
平次は新一ごと幸せを抱きしめた。
濡れた唇で新一が喘いでいる。
床に座り込み、うつむく頬は上気してなまめかしい。
だが、平次は彼の肩に手を掛けたままなにも出来ずにいた。
新一の右手はしっかりと、自分のジャケットの胸を掴んでいる。
「大丈夫か、工藤」
平次はそっと彼の顔を覗きこんだ。
新一に心拍数の上がるようなことをさせてはいけない。
それを平次が思い出したのは、不覚にも新一が胸を押さえたそのときだった。
「心配するな。起こし掛けただけだ」
ちらっと平次を見て、新一がすまなそうな顔をする。
平次はそのまま彼を抱き寄せた。
「すっかり忘れとった。ごめんな」
「ばーろ」
毒づく新一の腕が平次の背に回る。ぽんぽんと軽く叩かれるのは、彼なりの慰めだろうか。
平次はため息を飲み込んだ。
こうして触れているだけでたまらなくなる。
キスの余韻はまだ身体の中にあり、もっともっと新一が欲しいと本能が叫ぶ。
触れている頬の熱さ、首筋から香る彼の匂い、それらが平次を煽ってやまない。
名残惜しく、平次は新一の身体を離した。
このままでいて、なにもせずにいるのは拷問に等しい。
平次は新一の腕を引いて立ち上がった。
「酒飲もうぜ、服部」
エアコンをつける平次に新一が声を掛けた。
「あのなぁ、工藤。おまえ、今発作を起こし掛けたんやぞ。コーヒーにしとき」
「少しなら大丈夫だろ。前に飲んだとき、結構飲んでも大丈夫だったんだから」
あかん、と言った平次の首に新一が腕を巻き付けた。
「祝杯ぐらい挙げようぜ。やけ酒でもいいけどな」
そして、平次の耳に口を寄せると、ささやいた。
「発作を忌々しく思っているのは、おまえだけじゃねぇんだよ」
言うなり、新一が平次をキッチンの方に突き飛ばした。
「氷とグラスと水を持ってきてくれ。酒はサイドボードにあるやつにする」
照れているのがありありとわかる。
平次がキッチンを指さす彼の顔を唖然と見つめていると、蹴りが飛んできた。
「さっさと用意しろって」
新一の勢いに押されて、平次はキッチンからトレイを持ってきた。
すでに酒瓶の置かれていたリビングのテーブルで水割りを作る。普段はストレートの平次も、今夜は新一につき合って水割りだ。新一の分はかなり薄めに作っておく。
携帯電話でメールを打っていた新一が顔を上げた。
「白馬に連絡しておいた。灰原たちはもう寝ているから、勝手にしろってな」
「まぁ、あいつのことやから、黒羽の枕元で一晩明かすことぐらい平気でしそうやけどな」
平次は当然のように新一の隣に腰掛け、水割りのグラスを彼の手に押しつけた。
「サンキュ。じゃ、乾杯」
グラスを掲げる新一に平次も合わせる。
「俺たちに」
平次が笑うと新一が付け加えた。
「ついでに、快斗と白馬に」
笑みを交わして、ふたりはグラスに口を付けた。からりと氷が音を立てる。
片づけなければならない問題もいろいろあるが、彼がいればどうにでもなりそうだった。
最強の相棒にして、最愛のひと。
新一に出会い、共に過ごした時間すべてを祝福する。
平次は新一の肩に手を回した。
グラスを下ろした彼に顔を寄せる。
触れるだけ、と自分を戒めて、平次はもう一度新一にキスをした。
終
おつき合いありがとうございました