無自覚な関係シリーズ 第十三章
収 束
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目暮警部に挨拶を済ませて、新一は一課をあとにした。
秋の日はもうとっぷりと暮れている。平次は同じ学科の友人たちと遊ぶ予定が入り、快斗は次の仕事が近いとかで揃って今夜は帰りが遅い。ひとりきりになるのは本当に久しぶりで、暇をもてあましそうな新一はちょっと寄り道をした。だが少し期待していた難事件もないようで、顔見知りの刑事たちもたまった書類と格闘しているだけだった。
夕飯をなににしようかと考えながら廊下を歩いていると、中森警部と出くわした。
挨拶をする新一に、彼はぐっと顎を引いて見せただけで、そのまま足早に通り過ぎていく。どことなく不機嫌そうな彼に、新一は内心苦笑した。
昨夜、中森はキッドに逃げられている。その上、仲の悪い目暮と親しくしている新一は、彼にとってあまり歓迎すべき相手ではないのだろう。
たまたま通りかかった休憩所に、探がいた。
似合わない紙コップを手に、ぼんやりと座っている。床の一点を見つめる目は、焦点が合っていない。
同じような表情を最近よく家でも見かける。
新一は彼の近くで足を止めた。
それでも探は動かない。
「よお」
声を掛けると、探が驚いたように顔を上げた。
「なにぼけっとしているんだ?」
彼が手にしているカップを覗きこめば、ほとんど口を付けた様子のないアイスコーヒーに浮いている氷はなく、すっかり二層に分離していた。
探もそれに気づいたようで、ため息をついてそれをテーブルに置いた。
くろ、と言いかけた探が、言葉を飲み込む。
「……キッドに、完全に逃げられたんです」
ふうん、と軽く受けて、新一は自販機でコーヒーを買った。美味しくはないが、探と話す時間を確保したいのだ。彼から探り出したいことがある。
「いつもじゃねぇか、逃げられているのは」
「違います。いつもは完全に巻かれたりなどしない」
むきになって反論されて、新一は目を見張った。普段の憎たらしいほどの余裕が探から消えている。
「これまで、僕だけは最終的な逃走経路を掴んでいたのに」
彼は拳で自分の太股を叩く。
新一はもう一度財布を取り出すと、自販機に硬貨を入れた。
「ホットか? アイスか? おまえのことだ。ブラックなんだろ?」
探が驚いたように目を上げた。
「不本意だが、おごってやるよ」
「おごってなど」
「そういうことは、鏡で顔を見てから言え」
情けない顔をしていると指摘してやると、探は片手で顔を覆った。
「なら、アイスで」
出てきた紙コップを鼻先に突きつけてやると、彼はようやく顔を見せた。
「ありがとうございます」
笑顔に余裕が戻っている。
新一はそのまま彼の隣に腰を下ろし、自分のコーヒーを飲んだ。
しばらくの沈黙の後、探がそっと窺うように聞いてきた。
「黒羽くんは、元気ですか?」
「元気だ。なんだ、連絡取ってないのか?」
確か探の学祭に呼ばれた後、彼らは友人として表面上はごく普通につき合っていたはずだ。連絡ぐらい頻繁に取り合っていたと思っていたのだが。
そんな思いが顔に出たのか、探が寂しそうに苦笑した。
「半月ほど前から、メールを送っても返事がなかなか来なかったり、電話も留守電になっていることが多くて。最近は直に声を聞いていないんです」
半月前。
そのキーワードで新一には思い当たることがある。
確か快斗の様子がおかしくなったのも、そのあたりからだ。
先ほどの探のように、ぼんやりとしていることが多くなった。
やはり彼が絡んでいるのか、と新一は想像が確信に変わる。快斗に聞いてもはぐらかされるばかりでらちが明かなかったのだ。問題はふたりの間になにがあったのか、だ。
「確かに忙しくしているからな。今日も遅くなるって言っていたし」
「彼はどこでなにを? 誰かに会っているとか?」
勢い込む探に新一は身を引いた。
「知らねぇよ。一緒に住んでいるけど、プライベートには干渉し合わないのがうちのルールだからな」
快斗が忙しくしている理由など、探にもわかっているはずだ。すでにキッドから予告状が届いているはずなのだから。次の犯行は一週間後。準備期間が短いと快斗が苦笑していたのは昨夜のことだ。
そうですか、と探が椅子にかけ直す。
探から視線を外して、新一はコーヒーを飲んだ。
彼がなにを思っているのか、新一には想像がついた。
キッドの犯行時に接触するという彼にとって特別な時間が、その相手によって奪われてしまい、なおかつ連絡までも途絶えがちになって悩んでいるのだろう。快斗に避けられているのではないかと。
探が快斗に対して恋愛感情を持っているのではないかと、新一は薄々感じている。だからよけいに気にかかるのだと思う。
「なにかしたのか?」
誰に、とは言わなかった。
「考えてみると、彼のプライドを傷つけたのかも知れません」
長い沈黙の後、探がぽつりと言った。
でも、と彼は続ける。横顔は真剣だった。
「後悔はしていない」
「なら、いいじゃねぇか」
「わかっています。また機会があれば、僕は同じ事を彼に提案するでしょう。だから彼は僕を避けている」
「そんなに受け入れられないような提案を示したのか?」
まさか告白でもしたのだろうかと新一は思った。
それならば快斗のおかしな様子にも合点がいく。
一瞬の逡巡を経て、探が苦笑した。
「力になりたい、と」
新一は残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「それはたぶん無理だ」
立ち上がった新一を探が見上げる。
「なぜです? すでに君たちがいるからですか?」
「俺は、俺たちは、そばにいるだけだ。別に力なんか貸していない」
「それでも、僕は君たちがうらやましいですよ。そばにいられるだけ」
探の眼差しは、真剣そのものだ。
だから新一は笑って見せた。
「おまえはそれで満足するのか?」
正体を知りながらそばにいて、仕事については見守るだけにとどめる。それが自分と平次のスタンスだ。
だが、友情を越えた目で快斗を見ている探に、それは出来ないだろう。
もしも平次が危険を冒すとき、どれほど彼を信頼していたとしても、おそらく自分は共にありたいと願い、行動する。足を引っ張らない自信もある。とても見守るだけではすまない。
「見守るだけで」
「それは出来ません。それだけなら今と同じです。出来ないから、提案したんです」
言い切って、彼は一息ついた。
「僕の力など、彼には必要ないんでしょうか」
違うだろうと思う。
欲しいから、避けているのだ。
巻き込みたくないから、避けているのだ。
悩んでいるからこそ、快斗は探を避け、日常生活に支障をきたすほどぼんやりしているのだろう。
だが、新一は肩をすくめるにとどめた。
「それを俺に聞くな」
潰した紙コップをゴミ箱に放り投げ、新一は探に背を向けた。
「一週間後、気合いを入れて、直接聞け」
そうします、の答えに、新一は肩越し手を振った。
快斗の様子に変化には、やはり探が絡んでいた。
新一は署を後にした。すっかり夜になっている。風ももう涼しい。
快斗の方の原因は想像通りで、納得がいったのだが、新一にはもう一つ気にかかっていることがある。本音を言えば、こちらの方が比重が重い。
――服部はなんなんだ?
わざと酔って彼に絡んだ翌日から、平次の様子がおかしい。
快斗のようにぼんやりしているわけではない。
平次はどうみても浮かれている。
あまりにも機嫌良く笑いかけられると、嬉しいを通り越してとまどってしまう。
酔って何かしでかしたのだとは思うが、平次も快斗もそれを新一に教えようとはしない。
「まったく、どいつもこいつも」
自分のことを棚に上げて、新一はひとり毒づいた。