無自覚な関係シリーズ 第九章
攪 乱
― 後 ―
きつい日差しは日よけに遮られて店内には届かない。それでも窓からは熱が伝わってくるようだ。しかし、天気予報では上空に冷たい空気が入り、夕立があるだろうという。昨日も同じような天気で、日が落ちてから土砂降りになった。
チョコレートパフェのアイスクリームを口に運んで、快斗は思わず笑んだ。飾りの生クリームやウエハースの取り合わせも絶妙だ。さすがに雑誌に紹介されているだけのことはある。
快斗は正面に座る相手に目を移した。出来ることならば、彼以外と来たかった。
「美味しいですか?」
アイスコーヒーのグラス越しに尋ねてきたのは、快斗を呼び出した因縁の相手、白馬探だ。
「評判通りだよ。白馬はコーヒーでよかったのか? ここはケーキとパフェが売りの店なのにさ」
落ち着いて話が出来るところ、という探の注文に対して、快斗はとりあえず喫茶店を選んだ。どうせあまり楽しい顔合わせにはならないだろうと考えて、自分の好きなものが食べられるところにしたのだ。おかげで女性のグループやカップルたちに囲まれている。男ふたり連れなど、広い店内を見回しても快斗と探だけだ。
「いいんですよ。僕はコーヒーだけで」
探は穏やかに笑う。
快斗は落ち着かない気分で彼の笑顔から目を逸らした。
今まで彼との会話はまともに成立したことがない。すぐにキッドの話を持ち出す探と、それを否定する自分とでは当然のことだ。
だが、今日の探はいつもと違う。
いつまで経ってもキッドの話も宝石の話も出そうとはしない。それがかえって快斗の警戒心を煽る。
「そんでさぁ、いい加減本題に入って欲しいんだけど」
一番上に乗っていたチョコアイスは終わり、快斗は二段目のマーブルアイスに取りかかった。
「前にも言ったでしょう。うちの学祭でマジックショーをやると。きみに楽しんでもらえると思うんです。来てくれませんか」
快斗はまじまじと探の顔を見つめた。
嘘や冗談、ましてや裏の意味があるような表情ではない。
「考えておくって言ってくれたでしょう?」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
逆に問い返した快斗に、探が首を傾げる。
本気で質問の意味がわかっていないような彼に、快斗は頭をかきむしりたくなった。
「だから、本当にマジックショーに誘うだけのために、会いたいって言ったのかよ。落ち着いてしたい話っていうのは、本当にそれだけかって聞いているんだよ、こっちは」
ええ、と探が頷く。
快斗は脱力してテーブルに突っ伏した。いろいろと警戒して気負っていた自分が馬鹿らしい。
「ショーに呼ぶマジシャンは黒羽盗一氏のファンだそうですよ」
快斗はぱっと顔を上げた。
驚く快斗に探が笑いかける。
「子供の頃に出会った盗一氏にあこがれてマジシャンになったそうです。会ってみたいとは思いませんか?」
きみさえよければ奇術愛好会に話を通しますよ、と探は言い重ねた。
「……まじ?」
一流のマジシャンだった父。
もう亡くなって十年ほど経つが名前を覚えているひとはずいぶんいる。だが、あこがれてマジシャンになったという人に会うのは初めてだ。
「嘘じゃありません。どうですか、会ってみますか?」
「それは、まぁ、会ってみたいけどさ。でも、向こうの都合もあるじゃん。ショーの前は気が張っているだろうし、終わった後はつかれてるだろうし」
だが、会ってみたい。
そのときの父のショーの内容なども聞いてみたい。
数回分のショーの映像とトリックの書かれていた手帳と小道具が、快斗の持つ父の遺品だ。思い出話は母や付き人だった寺井からも聞けるが、他人から見たマジシャン盗一の話というのには興味がある。語る人がマジシャンならばよけいに。
「大丈夫ですよ。ショーが終わる時間は早いですし。きっとその人もきみに会いたがると思いますよ」
探の言葉に背中を押されて、快斗は頷いた。
「じゃあ、あとのことは僕に任せてください。セッティングしたら、また連絡を入れますから」
探が満足そうに笑う。
快斗は知らずに浮かべていた笑みを慌てて消した。
相手はキッドである自分を追う探偵だ。あまり心を許してはいけない。
快斗は溶けかかったアイスクリームを口に運んだ。冷房の利いた店内でも目を離すとすぐに溶けてしまう。
「でもさ、なんで電話ですまさなかったんだよ」
五分もあれば済んでしまうような話を、わざわざ会ってまですることはないと思う。
「きっと喜んでくれると思ったんです」
「そりゃまぁ、嬉しい話だったけど」
「だから顔を見て話したかったんです。笑ってくれると思ったので」
快斗は目を見開いて探の顔を見つめた。
「いつもきみは突っかかってくるでしょう? あの顔も嫌いではありませんけど、笑って欲しいと思っていたんです」
探は嬉しそうだ。
じわじわと体温が上がっていくような気がして、快斗はパフェをかき込んだ。
「別に好きで突っかかってた訳じゃない」
「それはよかった。やはりあのことを話題にしなければ、きみは普通に接してくれるんですね」
やはり、と言う言葉を聞きとがめて快斗は顔を上げた。
「もしかして新一あたりからキッドの話題は出すなとでも言われた?」
探が軽く肩をすくめる。
おそらく正解だ。
快斗は内心でため息をついた。
「そういえば、これってデートなんですか?」
快斗はくわえていたロングスプーンを飲み込みそうになった。むせる快斗に探が心配そうに手を伸ばす。
「大丈夫ですか? どうしました? 突然」
「どうしました、じゃない」
咳き込み終えて、快斗は探に食ってかかった。人目があるので、声は一応抑えてある。
「誰がそんなことを」
「工藤くんですよ。昨日きみの携帯につながらなくて、工藤くんの家に電話しましたよね。そのとき彼が出て」
明日快斗とデートか、と。
快斗は頭を抱えた。
これは新一の嫌がらせだ。確実に。
「だからきみたちの間では、男同士で会うのもデートというのかと思ったんですが」
「白馬、新一の冗談を真に受けるんじゃないって」
「冗談だったんですか? 服部くんならともかく、工藤くんが冗談をいうとは思いませんから」
それはそうだろう。一緒に暮らしている自分でも新一の冗談などあまり聞いたことがないのだから。一方平次は、冗談を言わない日を探す方が難しい。
精神的に疲れた快斗に、探が追い打ちを掛けた。
「でも、きみとならデートと呼んでもいいと思いましたよ」
大きなクシャミを二回して、新一は鼻をすすった。
キッチンでコーヒーを淹れていた平次がリビングを覗きに来た。
「ぶりかえしたんか?」
「違うだろ。誰かが噂してるんだ」
「二回やから腐されとるんやな」
「どうせ快斗だ。白馬と俺のことでも話しているんだな」
新一は座っていたソファの上に寝そべった。クッションを枕に天井を眺める。
今日は新一の外出禁止令の最終日だ。
快斗との約束を破って風邪を悪化させた以上、今回の約束は守らなければならない。破ったら後が怖い。
「悪口言われるようなことしたんか」
キッチンに戻った平次が大きな声で問いかけてくる。
「さぁな。いろいろ心当たりがありすぎて、なにを言われているかわかんねぇな」
新一の答えに笑い声が上がった。
平次の明るい声を聞いて新一の心が勝手に弾む。
「この間のマドレーヌが残っとったから」
そういいながら、平次が盆にコーヒーカップを二つと菓子を乗せて、リビングに戻ってきた。新一はクッションを抱えて起きあがった。
ほれ、カップを差し出す平次の笑顔がまぶしい。
新一は口の中で「おう」と答えてカップを受け取った。
ミルクも砂糖も新一の好みに入れてある。こんな些細なことが嬉しい。
自分のカップをテーブルの上に置いて、平次が窓辺に向かう。
「やっぱり今日もひと雨ありそうやな」
空を見上げて彼はひとり呟いた。
「曇ってきているのか?」
ソファから見る外は白く見えるほどまぶしく、雲の気配など感じられない。
「でかい入道雲が出来とるで。あれは降るわ」
「快斗の帰りまで降らないといいんだけどな」
昨夜の雨はすごかった。一部では落雷による停電もあったらしい。
せやな、と平次が背中で答える。
新一はその姿をきれいだと思った。武道をたしなむせいだろう、すっきりと伸びた背筋とバランスよくついた筋肉。惚れた欲目をのぞいても人目を引くと思う。
新一の視線を感じたのか、平次が振り返った。逆光でも彼の表情が柔らかいことがわかる。
「なんや?」
「いや、なんでもない。冷めるんじゃないか」
新一はコーヒーを指さした。
――目がね。優しくなっている。
快斗の声が甦る。
平次の姿を目で追っていた新一に、彼がそういったのだ。快斗の意味深長な笑顔が気にかかって仕方がない。
あれは、おそらく。
新一は内心でため息をついた。
快斗は自分の想いに気づいている。
聡い男だとは思っていたが、ここまでだとは考えていなかった。
「冷めんうちに、おやつにしようか」
平次が新一の隣に腰掛ける。
そのとたん、テーブルの上の新一の携帯電話が鳴った。
「工藤」
平次が電話に手を伸ばす新一を目で制する。
わかっていると頷いて、新一は警察関係者からの着信を告げる携帯電話に出た。
聞こえてきた高木の声は、事件現場からなのか緊張していた。
「事件ですか」
『そうなんだよ。出てこれるかな』
予想通りの答えに、新一は平次をちらっと見た。
彼は難しい顔をして、電話を貸せと手を伸ばしている。
新一は仕方がないとため息をついた。夕立のありそうななかまた出かけたなら、快斗になにを言われるかわからない。
「ぼくはちょっと出られないので、服部に代わります」
電話は渡さず平次の耳に押しつけ、さらに自分も耳を寄せる。
平次が驚いて身を引いたが、新一は構わず彼にぴったりと寄り添った。この行動は不自然ではないと言い訳して、新一は平次の体温を感じた。鼓動が勝手に早くなる。
「あ、服部です。工藤はちょお調子悪いんで、俺が代わりに……」
高木の話す事件の内容を一言も漏らさないようにと新一は耳を澄ました。
結局コーヒーを急いで飲み干した平次が、新一の代わりに事件現場へと向かった。
夕食を終えても平次は帰ってこなかった。そろそろ夜のニュースの時間帯になる。
ソファに寝そべってつまらなそうに本を読んでいる新一を、快斗は横目で窺った。快斗の前の床には布が敷かれ、その上にはトランプ銃がばらしてある。簡単に手入れをしていたのだ。最近使う回数が減ったので、たまに分解清掃してやらないと錆びるおそれがある。
盛大に降った雨ももうあがった。開け放した窓から涼しくなった風が流れ込んで、風呂上がりのまだ濡れている快斗の髪を乾かしてゆく。
「遅いね、平次」
「そうだな」
関心のなさそうな声で新一が答える。
新一ってば苛ついている、と快斗はこっそり笑った。
自分が事件現場に行けなかったこともあるだろう。しかし、それ以上になんの連絡もなく、平次の帰りが遅いことが心配なのだ。
「手こずっているのかな」
「さぁな」
自分のことを見ようともしない横顔に、快斗は苦笑する。
「ま、明日からは新一も外出できるようになるわけだから、捜査が続くんなら平次と一緒に現場に出れるじゃん。あとちょっとの我慢だよ」
「どうせなら今日から参加したかったよ」
新一が快斗を恨めしげ見る。
快斗はにっこりと笑って見せた。
「だめ」
「なんでだよ。元気だぜ、俺は」
「でも、だめ。無理するからね、新一は。特に事件に夢中になると、自分の体調のことを忘れるでしょ」
新一の口が不機嫌そうにゆがむ。反論できないらしい。
「いくら平次が一緒でもさぁ、平次も同類だから」
事件の最中の彼らの注意力は、すべて推理に向けられているように快斗には見える。
話しながらも快斗はトランプ銃を組み立てた。銃も布も片づけ、油で汚れた手を洗いに立ち上がる。
「そういや、白馬との話ってなんだったんだ?」
リビングを出ようとした快斗に新一が声を掛ける。
「学祭に招待されただけだよ」
「へぇ。それで行くのか?」
「まぁね。親父のファンだったっていうマジシャンが来るんだってさ。だから会いに行ってみようかとね」
新一が目を細めて笑う。
父がどういう理由でどんな風に亡くなったのか、知っているから彼は優しく笑ってくれるのだと快斗は思う。
「あ、言って置くけどね。俺と白馬じゃデートにはならないよ。新一と平次ならデートになるんだろうけど」
少し湿っぽくなった空気を嫌って、快斗は明るく茶化して見せた。
新一の顔が一瞬で赤くなる。
声を上げて笑いながら洗面所に向かう快斗の背中を、新一の怒鳴り声が追いかけてくる。
コーヒーでも淹れてご機嫌直してもらおうかな、と快斗は手を洗いながら小さく笑った。
ふたりしてコーヒーを飲んでいると、門の脇にあるチャイムが鳴った。
「帰ってきたみたいだね」
新一が玄関の方を振り返り、あ、と声を上げた。
快斗が顔を上げると、新一が両手で目をこすっている。
「どうしたの?」
眠いのかと思った快斗に、新一が目を閉じたまま答えた。
「なんか目に入った、らしい」
「じゃあ、こすっちゃだめじゃん」
快斗はティッシュを手に新一に近寄った。
「ほら、顔を上げて。手はどける。どっちの目?」
「右」
新一の頬に手を添えて、快斗はそっと右目のまぶたを指で開いた。黒いものが見える。
「まつげだね。ちょっと待って。取るから」
ティッシュを折って屈み込むと、そっと下まぶたの奥に入りかけているまつげに近づける。新一も緊張しているのか、まぶたがふるえてやりにくい。
「新一。力を抜いて」
「わかっているって」
「なんなら、舐めて取ろうか?」
「遠慮する」
返事は即答で、快斗は笑いをこらえた。
玄関のドアが開いた音がして、ただいまと平次の声が聞こえた。
だが、呼吸を殺して作業をしているふたりには、返事が出来なかった。
足音が近づいて、リビングの扉が大きく開く。
「ただいま」
平次の声がのんびりと響いた。
だが、その直後、「おかえり」と答える新一の声と、大きな物音が重なった。
ようやくまつげを取り除いて快斗が顔を上げると、リビングの入り口で立ちつくしている平次がいた。床には平次の鞄が落ちている。目が合ったとたん、驚愕のみを浮かべていた平次の顔に怒りとも苛立ちとも取れる表情が通り過ぎた。
「お、おまえら、なにを……」
平次の声が震えている。
「遅かったな。服部」
新一が目を瞬かせながら彼を振り返る。
「おかえり、平次。新一の目にまつげが入っちゃってさ、それを取っていたんだけど?」
それがどうしたの?
首を傾げて快斗が問い返すと、平次の顔が真っ赤になった。
「あ、いや、なんでもないわ。あ、えっと、先、風呂。風呂入るな、俺。先に寝といてや」
わたわたと手を振って、平次が逃げるようにして洗面所に向かって走り去る。
快斗と新一は顔を見合わせた。
先に夕飯を食べてから、寝る前にシャワーというのが平次の行動パターンだ。
おかしいな、と思った快斗は開いたままの扉から平次の消えた洗面所を眺めた。ついでに置きっぱなしの彼の鞄を拾い上げる。
「なんなんだ、服部のやつ」
ソファに座ったまま上半身をひねって、新一が快斗に尋ねる。
「さぁ」
リビングの新一を振り返る。
その景色を見て、快斗はもしかしてと思った。
扉からリビングを見ると、ソファは背中側が見える。そこに腰掛ける新一も、やはり平次からは背中しか見えないはずだ。
そのかわり、快斗の顔は正面から見えるはずだ。普通に新一の前に立っていたのなら。
しかし、さっきのふたりの位置関係だと、新一の頭に隠れて快斗には平次の顔が見えなかった。
つまり、平次から見ると、自分と新一の顔が重なっているように見えたのではないだろうか。
「そっか!」
快斗はぽんと手を打った。
「どうした、快斗」
「いや、なんでもないよ」
快斗の顔が勝手ににやける。
あの平次が一瞬見せた怒りの表情は、おそらく嫉妬だ。
そして、その後の慌てよう。
新一が寝込んでいるときに「もしかして」と思った平次の感情は、これではっきりした。
快斗は新一に歩み寄って彼の髪を思い切りかき混ぜた。
「おい、なにするんだよ」
「うーん? なんとなくかな」
なおもくすくすと笑い続ける快斗を、新一が不審な顔で見上げていた。
平次は洗面所の扉にもたれて頭を抱えていた。
心臓が破裂しそうな勢いで鳴っている。血圧が上がりすぎて、目の前が血の色に染まりそうだ。
さっきの情景がまだ頭の中に残っている。
そして、その後の自分の思考で、平次は取り乱してた。
事件の捜査を終えて帰宅が遅くなった。
いつもなら「おかえり」と声が聞こえるリビングからは、返事がなかった。ふたりとも早く寝たのかと灯りがついたままのリビングを覗いて、平次は凍りついた。
ソファに腰掛け少し仰向けになった新一と、彼の前に屈み込んでいた快斗が、キスをしていた。そう見えた。
驚いたのは一瞬。
その後、猛烈に腹が立った。
飛び込んでいって、新一から快斗を引きはがそうと思った。
――工藤は、俺の……!
「俺のなんやっちゅうねん……」
自分の行動を思い返して、平次はため息をついて座り込んだ。
キスをしているように見えたのは、見間違い。自分の勘違いだった。
きょとんとした顔で平次を振り返った新一と快斗は、いつもとまったく変わらず、色っぽい雰囲気など欠片もなかった。
快斗を押しのけて自分が、とあのとき考えた。
快斗の代わりに、自分がと。
いや、違う。
新一にキスをしていいのは、自分だけだと思ったのだ。
それはつまり。
そういう意味で、彼のことを見ているということだ。
――工藤に惚れとるんか、俺。
平次はまだ熱い顔を手で覆って、深くため息をついた。