無自覚な関係シリーズ 第九章

攪 乱

― 前 ―




 ようやく日が落ちて暗くなったが、開け放した窓から吹き込む風はまだ熱気をはらんでいる。普段ならつけているエアコンも、しばらくは厳禁となっている。それというのも体調を崩した人間がいるからだ。
 数日前に高熱を出して寝込んでいた新一も、昨日から普通の食事を取れるまでに回復した。だが、快斗はあと二、三日は彼を外出させないつもりでいる。自分の外出禁止令を破って、体調が悪いのに事件を追いかけて熱を出した新一に対する罰だ。
 新一はリビングのソファの上に横たわり、興味のなさそうな目で情報誌を読んでいる。暑そうに手で首筋あたりを仰いでいる彼の足下では、物置から引っ張り出された扇風機がそよそよと風を送っている。エアコンの人工的な冷たさよりはましだろうという、快斗と平次の見解からだ。
 キッチンから時折食欲をそそるいい匂いが漂ってくる。今日は親子丼だと平次が言っていた。新一の体調を慮ってのメニューに快斗はこっそりと笑う。



 新一が寝込んでいる間食べていたのは、平次の作った粥やおじやだった。それは新一のリクエストであり、快斗の思惑でもあった。
 今の新一は、平次の作ったものを残せない。
 『せっかく平次が作ったのに、残したら悲しむよ』
 何度か快斗が使った殺し文句だ。
 それを聞くと新一は止めていた匙をまた動かして完食してくれるのだ。
 人を好きになるということは、弱みを持つことになるのかも知れないと、快斗はしみじみと思う。
 食事が終わったら快斗は薬を飲ませ、新一が眠るのを見届ける。そして看病を平次と交代する。新一をひとりにさせないためだったが、幸い心配されていた発作が起きるようなことはなかった。
 その寝ずの番も、新一が起き出せるようになって終わった。
 しかし、その昨日の夜。
 快斗は新一の部屋の前で佇む平次を見かけた。新一の部屋は二階、彼の自室は一階にある。昼間はともかく、夜には用事がなければ平次は二階に上がってこないのだが、昨日に限ってはいた。
 階段を上ってきていた快斗に気づきもせずに、彼は新一の部屋の扉を見つめていた。横顔から読みとれたのは、切ないほどの心配。
 気配を殺し、快斗は平次をしばらく見ていた。
 彼はドアノブに手を伸ばすようなこともなく、さりとて立ち去る様子もなく、ただ扉の向こうにいる新一を見つめているようだった。
 ――もしかして。
 快斗がそう思ったのはそのときだ。



 快斗は新一を眺めた。
 相変わらずつまらなそうに雑誌を眺めている。
「デートの予定があるとか?」
 快斗の声に新一が目だけ動かす。
 快斗は視線で情報誌の表紙を指した。そこには大きくデートスポットランキングの文字が踊っている。
「バーロ、誰と行くんだよ」
「新一とデートしたい女の子はいっぱいいるじゃん。ファンクラブがあるっていう噂も聞いたことがあるよ。だからその辺から可愛い子を選んでさ」
「事件が起きたとき、そっちを優先させても怒らない女じゃないとな」
「じゃ、平次とデートするしかないねぇ」
 新一の表情が微妙に変わった。目が泳いでいる。
 素直な反応をする新一が快斗は可愛らしくてたまらない。
「平次なら怒らないどころか、一緒に捜査に参加してくれるし、頼りにもなるだろうし」
 続ける快斗に、彼の頬にほんのりと血の気が上る。

「……男同士でデートはねぇだろ」
「そう?」
「そうだよ。だいたいこれ、おまえが持って帰ってきた雑誌だろ。おまえがデートスポット探しているから買って帰ったんだろうが」
 雑誌を閉じて新一が反撃に出る。
 それを手に入れたいきさつを思い出して、快斗は顔をしかめた。
 受け取るんじゃなかったと後悔している。
「ああ、もしかして、おまえとデートしたいっていう女に渡されたのか」
「違うって」
 なんで突き返さなかったのか、理由は自分でもよくわからない。相手の訳のわからない迫力に負けたのか、場の雰囲気に流されたのか。
 とにかく快斗は悩んでいる。だからよけいに新一をからかいたくなるのだ。
「じゃ、誰だ?」
「いいじゃん、誰でも」

「そろそろ出来るで」
 キッチンから平次が顔を出した。
 あまりのタイミングの良さに、快斗は平次を心の中で拝んだ。
「なにしとるん?」
 ソファから身を乗り出した新一が雑誌を丸めて突き出していて、快斗はそれから逃げるように身を反らしている。
 なんでもないと答えたとたん、快斗の携帯電話が鳴った。
 新一の追求から逃れるために快斗は素早く携帯を取り上げ、メールの送り主を確認して倒れ込みそうになった。
 今まさに頭を悩ましている相手からだったのだ。
「おい、どないした? 妙なメールでもきたんか」
 まじめに心配している平次をよそに、新一がにやりと笑った。

「この雑誌をくれた相手からだろ」
 わざわざ丸めていた雑誌を開いて表紙を見せつける。デートスポットの文字が目に痛い。
 ため息をついて肩を落とした快斗に、新一がさらに笑みを深める。
「当たりか」
「体調悪いくせに推理しなくていいんだよ」
「調子が悪かったのは身体だけで、頭は別だ」
 大人の頭脳を持ったまま子供になっていた人間の言葉には、妙な説得力がある。ますます快斗はソファに沈み込んだ。

「デートスポットなぁ。こんな雑誌渡してデートする場所決めてくれゆうてきたんか? 積極的なんか受け身なんか、ようわからん女やなぁ」
 新一から受け取った雑誌をぱらぱらとめくりながら平次が言う。
「よくわからないのは、同意。しかも、女の子じゃないんだな」
「まさか、白馬か?」
 新一が鋭く突っ込んでくる。
 快斗は投げやりに頷いた。
「やっぱりそうか」
「そら、ようわからんわ。難儀やなぁ、黒羽」
 平次には同情され、新一には深く納得され、快斗は仕方なしに平次から受け取った雑誌を開いた。

『落ち着いて話が出来るところがいいのですが、きみの好みがわからなくて』
 落ち着いて話をするなら、人の大勢いるデートスポットなどまず避けた方がいいと思うのは快斗だけだろうか。
「よくわからないよ、ほんと。でもま、最近俺の前でキッドキッドと連呼しなくなったんで、助かるけどさ」
 以前は顔を合わせるたびに言われた単語が、メールや電話からも消えた。ありがたいことだ。
 平次と新一がちらりと視線を交わして、苦笑している。
「なに?」
「なんでもないって」
「なんだよ、気になるじゃん」
 詰め寄る快斗に平次がますます苦笑した。
「白馬も案外素直なやっちゃなぁ、ちゅうことや」
「あの白馬が素直?」
「そうだな。素直と言うよりは、馬鹿正直か」
 新一までもが笑う。

 快斗はなにか通じ合っている探偵たちに唇をとがらせた。
「なんだよ、ふたりとも。特に新一、なんか納得してなかった?」
 快斗は新一の隣に移動した。そのまま彼にすり寄っていく。逃げるように端に寄る新一をがっちり捕まえて、逃がさないぞ、と快斗はにっこり笑った。
「それになんで白馬からってわかった?」
「いいじゃねぇか、なんでも」
 肩を押さえられて新一が快斗を睨む。
「それよりおまえ、風邪が移ってもしらねぇぞ」
「新一の風邪なら喜んでもらうよ。で、なんで?」
 新一を抱きつくようにして、ちらりと平次を見る。
 平次は困ったような笑っているような複雑な表情を浮かべていた。
「黒羽、まだ本調子やない人間で遊んだらあかんで」
「そうだ。それに暑いんだよ。どけって、快斗」
 嫌がる新一を快斗はわざと抱きしめる。
 平次の前でのスキンシップは彼らに対する嫌がらせだ。

「黒羽」
 平次が猫でも持ち上げるように、快斗の襟首を掴み上げる。
 素直に新一から離れながら、快斗は新一に向かってウィンクして見せた。
 脈ありだよ、のメッセージは当然のように新一には届かなかった。
「白馬はな、おまえと親しくなりたいようやで。まぁ、キッドとは対立しとった探偵やし、因縁もいろいろあるやろうけど、嫌いやなかったら会うてやれや」
 襟首を離しながら、平次は言う。
「別に嫌ってないけどさ」
「ならデートしてこい、デート」
 テーブルの上に放り出されていた雑誌を拾い上げた新一が、快斗の鼻先に表紙を突きつける。
「男同士でデートはないでしょ」
「それはさっきの俺のセリフだ」
 ぐりぐりと雑誌を顔に押しつけられて、快斗はうぇと呻いた。

「デートゆうか、普通」
 新一の手から雑誌を取り上げて、平次がぱらぱらと中を見ていく。鼻を押さえながら快斗はそれを横から覗き込んだ。新一はそんなふたりをソファの上で眺めている。
 平次が手を止めた。
「なぁ、ここなんか工藤好きそうやないか」
 平次が新一に開いて見せたのは、美術館のページだった。
 『視覚の魔術師、エッシャー展』
 彼の代表作のひとつでもある「物見の塔」の写真が載っている。エッシャー以外のだまし絵や隠し絵などや、実際に触れることが出来るトリックアートも展示していると紹介されていた。
「ああ、ここなら俺は行ったことがあるから、ふたりで行っておいでよ」
 デートしておいで。
 にっこりと笑っていったとたん、快斗のすねに新一の蹴りが入った。
「あほなことゆうてるからや」
 赤くなっている新一と、足を抱えて呻いている快斗を交互に見比べて、平次があきれたような声を出した。
「工藤、おまえの気が向いたら、行ってみようや。おもろそうやん、ここ」
「結構楽しい、それは保証する」
 床の上から言う快斗を新一が胡散臭げに見下ろす。
「考えておく」
 政治家のような新一の返答だったが、それでも平次は嬉しそうに笑った。

「ほんなら飯にするか」
 あとは卵で綴じるだけ、と平次がキッチンに消えていく。
「快斗」
 新一が声をひそめて快斗を手招く。
「おまえ、なにを企んでいる?」
 横に座った快斗に、新一が小さく聞く。
「別になんにも」
 空とぼける快斗をひと睨みして、新一が目を逸らす。
 ほんのりと赤い耳が彼の考えていることを素直に表していた。
 その耳に快斗はそっとささやいた。
「でもね、新一が幸せになるのを願ってる」
 がばっと振り返った新一が、大きく目を見開いて快斗を見る。みるみるうちに顔が赤く染まっていく。
「お、おまえ……!」
 動揺して言葉の継げない新一に快斗は音のしそうなウィンクをひとつ送った。
「なにをそんなに慌てているのかな? 新一」
 含みたっぷりの笑顔を振りまいて、快斗はいい匂いに誘われるようにキッチンに向かった。



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