無自覚な関係シリーズ 第八章

変 化

― 後 ―



 肩で息をついて、新一は署内の休憩所のパイプ椅子に腰掛けた。額に手を当てると、いつもより熱くなっている。買ったばかりの紙コップの熱い茶をすすってみたが、ぞくぞくする背筋は暖まってくれない。しかも飲み込むときに喉に違和感がある。
 まずいな、と新一は思った。
 快斗の外出禁止令を破って出てきた手前、体調を崩したらあとが怖い。絶対一週間は家から出してもらえない。
 その上、今日は平次が大阪から戻ってくる日だ。いきなり心配を掛けるようなことはしたくなかったのに。
 前々から決まっていたとおり、平次は盆に一週間実家に戻っていた。平次のいない家の中は、どこか味気なかった。寂しいと言ったら、ずっと一緒にいた快斗はすねるかもしれない。
 平次からの電話は毎日かかってきた。なぜか携帯電話ではなく固定電話にかかってくるそれが楽しみだった。「はい」と出ただけで、よく似た声の快斗との区別が付くと平次から言われたときには、顔が赤くなったのが自分でもわかった。近くに快斗がいないときで本当によかったと思う。
 このところスキンシップ過剰気味だった快斗は、平次が帰ってからおとなしい。彼を蹴る回数が目に見えて減っている。考えてみると、快斗は平次の見ている前でじゃれついてくることが多かった。つき合いが深くなっても快斗の考えていることはよくわからない。
 わかっていることは、今回の件で確実に快斗に怒られるということだけだ。
 高木刑事からの電話にあった「密室」の一言に誘われて、新一はメモだけ残して家を出てきていた。現場へ行くのに自宅のそばを通るということで、新一は高木の運転する車に便乗させてもらった。
 事件は拍子抜けするほどあっさりと解決し、密室というのも偶然の産物だった。容疑者は現在取り調べの真っ最中だ。

 新一は息を吐き出した。身体が重くなってきている。これ以上体調を崩さないうちに帰りたいのだが、動く気力がない。自分で思っていた以上に、風邪で身体が弱っていたようだ。現場で雨に降られ、少し濡れてしまったこともいけなかったのだろう。
「工藤くん?」
 声を掛けられて見上げると、探が立っていた。
「事件ですか?」
「まぁな。そっちもか」
 ええ、ちょっと調べものを、と言いながら探も自販機に金を入れている。コーヒーが出来てくるのを待ちながら、彼は新一を振り返った。
「顔色が悪いですね。風邪ですか?」
「いや。白馬の気のせいだろ」
 新一は平気な顔を作って顎を上げた。外では誰にも弱みを見せたくない。
 肩をすくめて探が新一の隣に腰を下ろす。紙コップのコーヒーと探という取り合わせは妙に似合わない。

 しばらく無言でコーヒーを飲んでいた探が、紙コップをテーブルの上に置いた。そのまま新一を見る。新一は気を引き締めた。彼との会話で出る話題の大半は、快斗のことだ。それは迂闊な発言を許さない。
「黒羽くんとはどこで知り合ったんですか?」
 やはりと新一は思った。
「高校の頃に声を掛けられたんだよ。顔立ちが似ているから、あいつは俺に興味を持ったらしいぜ」
 このあたりの口裏は快斗と合わせてある。シチュエーションまで細かく。
 探が笑みを浮かべた。納得したのかしていないのか、曖昧な微笑だ。
「行方不明だったきみに彼はどこで声を掛けたんでしょう?」
「家を空けて、高校にも行っていなかっただけだ。別にこの世から消えていたわけじゃねぇ。探そうと思えば、見つけだすことは出来るだろ」
 実際平次は見つけだしたクチだ。奇跡と呼んでもいいような偶然と、彼の常識にとらわれない柔軟な頭脳がそれを可能にした。普通なら高校生の身体が縮んで小学生として生活しているなどとは考えない。
「警察には出来なかったようですが」
「本気じゃなかったんだろ。いくら捜査協力をしていたといっても、親から捜索願も出ていない高校生を本気で捜すほど警察は暇じゃねぇさ」

「きみの姿が消えている間にFBIが極秘に動いていました」
 探が話の方向を変えた。
 新一は何気なく目を落として茶をすすった。
「それによって裏社会の大きな犯罪組織が壊滅することになった。ご存じですね?」
 形式的な疑問系だ。
 新一は肩をすくめて頷いた。
「怪盗キッドは一時期、何者かに命を狙われていた。取られた手段から考えて、個人ではない」
 探の遠回しな話しぶりに新一は苛立った。体調が悪いときに先の手を考えながら会話を続けるのは疲れる。
「はっきり言ったらどうだ? 俺が姿を消していたのはFBIに協力していたからで、その壊滅した組織がキッドを狙っていた。だから、俺とキッド。つまりおまえがキッドの正体だと思いこんでいる快斗とその件で知り合ったってな」
 一気に巻くして立てて、新一の息が切れた。手にしていた茶を飲み干す。

 肩で息をついた新一を、探が真剣な目で見つめていた。
「なんだよ? 違うとでも言うのか?」
「いえ、そうじゃなくて。ああ、いや、そうなんですけど。それよりも、工藤くん熱があるんじゃないですか?」
 言葉と同時に探の手が新一の額に伸びた。避けようと動いた新一の世界がぐらりとまわった。椅子から滑り落ちそうになる。
「かなり高いですね。大丈夫ですか? うちの車で送らせましょう。立てますか?」
 避けたはずの探の腕に掴まって、新一は体勢を立て直した。急に動くとめまいが起きる。体感している以上に熱が上がってしまったらしい。
「大丈夫だ。送ってもらう必要はない」
「いいえ、送ります。ここできみをひとりで帰らせたら、僕は黒羽くんから恨まれますから」
 嫌われているかも知れないのに、さらに恨まれたくないと探がまじめな顔で言っているのを見て、新一は小さく笑った。
「笑い事じゃないんですよ、僕にとっては。さぁ、立ってください。駐車場まで歩けますか?」
「送ってもらわなくてもいい。快斗を呼ぶから。それこそ、あいつを呼ばないで白馬の車で帰ったら、あとが大変だからな」
 新一は携帯電話を取りだし、快斗の番号にかけたが、出たのはなぜか平次だった。思いがけない声に鼓動が早くなる。
「もう帰っていたのか、服部。快斗は?」
『横で運転しとるで。めっちゃ怖い顔でな』
 茶化すような平次の声もまた低い。彼もまた怒っているようだ。
『風邪気味やったんやろ。体調はどうや?』
 崩したなどと答えたら、怒鳴られそうな雰囲気だ。
「……よくない」
 平次の大きなため息が聞こえた。その後ろから、快斗のうなり声がしたような気がした。
『高木さんに聞いたで。事件は終わったゆうてたけど、まだ警察署におるんか? どこや? 今、駐車場に入るとこなんやけど』
「三階の休憩所にいる」
『そんならそこで待っとれ。すぐ行く』

 通話を切って、新一はため息をついた。この調子ではしばらく家から出してもらえそうにない。
「迎えに来てくれるようですね」
「もう下まで来ているらしいから、すぐ上がってくるだろ」
 それはよかった、と探が笑う。
「白馬は」
 言いかけて新一はためらった。
 探が目だけで先を促す。
「おまえは、快斗のなにがそんなに気にかかるんだ」
「彼は僕に隠し事をしている。工藤くんにも服部くんにも話しているだろうことを、僕には話そうとしてくれない。ふたりよりも僕の方が先に彼と知り合ったというのに。隠されると暴きたくなる。探偵の性でしょうか」
「それだけか?」
 探が快斗を追う理由は、探偵の性だけではないように新一は思う。彼は自分と似た想いを抱えているように感じるのだ。快斗に対して。直感という、根拠のあやふやなものだったが。
「そうです。嘘をつかれるのは、堪りません」
「嘘にもいろいろあるだろ。どうしてもつかなければならない嘘とか、絶対ついてはいけない嘘とか。犯罪者がつく、保身のための嘘ならいくらでも暴けばいい。でも、誰かのためを思ってついている嘘は、そのままにしておく方がいい」
 コナンと自分が別人であるという嘘は、一生つき続けなければならない。
「彼の嘘は犯罪者の嘘とは限らない、というわけですか?」
「さぁな。それは自分で考えろよ」
 新一はパイプ椅子の背もたれに寄りかかった。

「それが工藤くんからのアドバイスですか」
 静かな廊下に乱れた足音が響いた。ひとりの靴音ではない。
 新一が立ち上がろうとするのを探が押しとどめる。
「服部くんにはTPOを考えろと言われましたよ」
「会ったのか?」
「ええ、ここに来る前に。不動産屋の前でぼんやり間取りを見ていました」
 新一は思わず探の顔を見つめた。
 あいつは家を出ていく気か、と腹の底が寒くなる。
「驚かないでください。別に彼は独り暮らしをしたくなったわけではないそうですよ。そんなことになったら、僕は彼に申し訳ないことをしたことになります」
「今更そんなことを言うぐらいなら、服部によけいなことを吹き込むなよ」
 安堵が余って八つ当たりぎみに探を睨む。
 彼の言動のせいで快斗と平次の仲が上手くいかなくなっていれば、どちらかが家を出ていたに違いない。それを考えれば自分の怒りは正当だと新一は思った。
「彼にも同じようなことを言われました」
 反省しているのか、探が肩をすくめた。

 そこへ平次と快斗が駆けつけてきた。
「新一!」
「工藤、大丈夫か?」
 見上げたふたりの顔は怖いぐらい真剣だった。新一はなだめるように笑って見せたが、彼らの表情は変わらない。そばにいる探の姿など彼らの目には入っていないようだ。
「大丈夫だ。悪いな」
 謝罪の言葉を半ば無視して、快斗が新一の額に手を置く。
「かなり熱が出ているじゃないか。だから、出かけるなって言ってたのに」
「さ、帰るで、工藤。歩けるか?」
 しゃがみ込んだ平次が心配そうに新一を見上げて言う。久しぶりに見た彼はまた少し焼けたような気がする。
「おそらく立てないと思いますよ」
 探の声にようやく存在に気づいたらしいふたりが彼を見た。
「白馬!」
 厳しい声がユニゾンで上がる。責める目つきにさすがの探ものけぞった。
「そこまでわかってて放っておいたのかよ」
 快斗が探に詰め寄る。新一は彼のシャツの裾を引いた。
「送ってくれるって言ってくれてたんだ。責めるな、快斗」
 新一は膝に力を入れて、椅子から立ち上がった。やはりめまいがする。新一は横に立つ平次の肩に手を伸ばした。
「工藤」
 平次が新一の顔を覗き込む。

 心配そうな彼に笑って見せようとしたそのとき、新一の胸がどくりと嫌な感じに脈打った。呼吸が喉の奥で詰まって、視界がぶれる。新一の手が胸に伸び、同居人たちの顔色が変わった。平次の肩からずるりと手が滑る。
「工藤!」
「新一、まさか!」
 快斗の腕がふらりと揺れた新一の身体を抱え込んだのと、心臓が悲鳴を上げたのが同時だった。
 激しい鼓動が新一の身体を支配する。息が出来ない。耳鳴りがする。固く閉じたまぶたの裏が赤く染まった。
 心臓の痛みを紛らわすために身体に爪を立てようとした新一の手を、平次がつかみ取る。痙攣しそうな手の力を抜くことが出来ず、新一は彼の腕を握りしめた。
「工藤!」
 平次の声が遠く聞こえる。

 ふっと発作が治まった。
 先ほどの痛みが嘘のように消える。
 新一は身体から力を抜いて、抱きとめる快斗の腕に身を任せた。彼はゆっくりと椅子に座らせてくれた。喘ぐように呼吸をして、肺に空気を流し込む。
 短かった。だが、久しぶりできつかった。
 気持ちの悪い冷や汗が、全身をじっとりと濡らしている。
「新一?」
 耳元でそっと快斗がささやく。
「工藤?」
 平次の声もまた小さい。
 うつむいていた顔を上げ、新一は目を開けた。ふたりの顔が同じような表情を浮かべて並んでいた。
「……大丈夫だ。治まった」
 自分でも情けなくなるほど弱々しい声で答えを返すと、もう一度新一は目を閉じた。熱と発作で自力では立つことが出来ないほど身体が重い。快斗に支えられていないと椅子にすら座っていられない。
「悪ぃ、車まで、肩かしてくれ」
 やっとそれだけ言えた。
「黒羽、工藤を頼むわ。運転は俺がする」
「平次」
 とがめるような快斗の声に、平次が首を振る。

 重いまぶたを押し開いて、新一は平次を見た。
 彼はまた誤解をしている。この発作は彼のせいではないというのに。
 自分がいると発作が起きるなどと思うから、離れていた方がいいと思うから、間取りなどに気を取られたりするのだ。
 本当は逆なのだと新一は告げたい。
 離れて行かれたら、その方がきっと身体に悪い。寂しさに引きずられて体調を崩してしまいそうだ。
「早く病院に連れて行った方がいいんじゃないですか? 歩くのは難しそうですから、どちらかが背負ったほうがいいでしょう」
 探の冷静な声が、平次と快斗の間に割り込んだ。
 そうだな、と頭を切り換えた快斗が新一の身体を背負う。
 平次と同じ高さで目が合った。
「帰るで。もうしばらくの辛抱やからな」
 平次の困ったような笑顔が遠く見えて、新一は声の出せない自分に苛立った。今すぐ彼の勘違いを訂正してしまいたい。心は焦るのに、身体は言うことを聞いてくれない。まぶたが勝手に下り、平次の笑顔が見えなくなる。
「無理するからだよ。哀ちゃんになにを言われても、俺はフォローしないからね」
「そら怖いな」
 新一の心情を平次が声にする。
 快斗の背に揺られながら、新一の意識は遠のいていった。






 平次はそっと新一の部屋のドアをノックした。
 返事を待たず細く開けると、ベッドのそばに腰掛けた快斗と目が合った。部屋の中は眠る新一を考慮して、小さなスタンドがついているだけだ。
「工藤は?」
 声を殺して尋ねる。
 快斗が大丈夫と頷くのを、平次は手招いた。
 部屋から忍び出た快斗が、後ろ手にドアを閉める。
「なに?」
「夕飯できとるで。食うてこいや」
 時刻はそろそろ宵の口となるところだった。
 快斗の背中で気を失うように眠り込んだ新一を家まで連れ帰り、ベッドに運び込んだ。平次は彼の世話を快斗に頼み、哀を呼びに阿笠邸に行ったり、新一のために水枕を作ったりと動き回った。
 夕方から付きっきりで新一のそばにいる快斗は、帰宅してから飲み物のひとつも口にしていない。
「ついでに風呂にも入ってこいや。工藤寝とるんやし、交代しようや。おまえまで倒れられたらたまらんわ」
「平次」
 快斗が顔をしかめる。
「まさか、自分のせいで発作が起きたとか思っているんじゃないだろうね」
「せやけど」
 自分の肩にすがるようにしていた新一が、いきなり苦しみだしたのは事実だ。それが平次を臆病にする。
「とにかく、違うんだから、気にしないように」
 平次の背中を拳で殴って、じゃ交代、と快斗は階下に降りていった。

 平次は意を決して新一の部屋に入った。
 足音を立てないように枕元に近寄る。薄暗い部屋でも新一の顔色がよくないのがわかる。
 平次は快斗の腰掛けていた椅子に腰を下ろした。新一の額に乗るタオルに触れるともう温かくなっていた。手近に置かれた冷水の入った洗面器でタオルを冷やして絞ると、また新一の額に乗せる。
 乾いた唇をわずかに開いて新一は眠っている。
 哀は風邪を悪化させたことが発作に繋がったのだと言った。体力が落ちると、身体の中で一番弱い部分に症状が出る。彼の場合はそれが心肺機能らしい。
 何かあったら夜中でもすぐ呼んで。
 そういって彼女は帰っていった。
 寝ずの番をするなら自分だろうと平次は考えている。新一の意識のある時間帯は、なるべく快斗に任せたい。何度自分の存在が発作の原因ではないと言われても、少なくとも新一の風邪が完治するまでは近寄らない方がいいと思う。

 実家に戻っている間も、新一のことが気にかかっていた。今なにをしているのだろう、ちゃんと食べているのか、ソファで眠ったりしていないか。快斗というしっかりした同居人がついているのだから心配するようなことはないはずなのに、気にし始めると止まらなくて、平次は毎晩工藤邸に電話を掛けた。携帯電話に掛けると、たまに気づいてもらえないことがあるからだ。電話に出た第一声でふたりの区別が付くと言ったら、新一が絶句していたのが印象に残っている。
 早く工藤邸に戻りたかった。
 だというのに、帰って早々新一が倒れた。
 平次はそっとため息をついた。
 腕には新一の掴んだ指の跡がまだ残っている。彼にその気はなかっただろうが、骨にまで食い込むような力だった。どれほどの苦しみがあのとき彼を襲っていたのか。
 平次は彼の額のタオルに触れてみた。もう温くなっている。





 指先でしたような小さなノックがあった。平次は気配を殺してドアに向かった。細く開いたそこから、廊下に滑り出る。
「どう?」
 主語を省いて快斗が問う。
「よう寝とる」
 平次の答えに彼は安堵したように笑った。風呂から出たばかりなのか、快斗の髪はまだ濡れている。
「おまえも寝てまえ。今夜は俺がついとく。その代わり、昼間はついとったってや」
「違うと言っているのに?」
「完治するまでや。それまではちょお離れておく」
「新一が寂しがると思うけど」
 快斗が閉めた扉越しに新一の寝ているあたりを見る。
「それはないやろ。文句あるんやったら治ってから聞くゆうといて」
「蹴られてもしらないよ」
「かまへんって」
 快斗が苦笑する。肩をすくめる気障な仕草が似合っているのはさすがだ。
「キック力増強シューズは今の新一の足には合わないんだよね」
「あんなもんで蹴られたら、骨が折れるわ」
「甘いよ、平次。砕けるんだ」
 声を抑えてふたりは笑った。
「じゃ、お言葉に甘えて寝る。何かあったらそれこそ壁でも蹴ってよ。すぐ行くから」
 おやすみと手を振って、快斗が隣の部屋に消えていった。
 平次もまた新一の部屋に戻る。

 枕元まで歩いて、ぎくりとして足を止めた。
 新一が目を開いていたのだ。
「はっとり」
 かすれた小さな声で彼が呼ぶ。
「悪い、起こしてもうた? 黒羽、呼んでくるわ」
 意識が戻ったのなら、快斗の方が適任だ。
 そう思った平次がきびすを返す前に、新一の手が平次の腕を掴んだ。熱い手のひらに平次はまた骨まで掴まれたような気がした。
「行くな」
 声こそ力無いものの、新一の目には普段と同じ光があった。熱で潤んだような眼差しで睨みつけられて、平次の足は止まる。
「行くな」
「せやけど、黒羽の方がよう気ぃつくやろ」
 新一が首を振る。
 彼がなにを言いたいのかわからず、平次はおそるおそる屈み込んで彼に近づいた。
「発作はおまえのせいじゃない」
 新一が快斗の言葉を繰り返す。
「だから、この家から出ていくことは考えるな」
 苦しげにそれだけ言って、彼は浅い呼吸を繰り返す。それでも目だけは平次を真っ直ぐに見ていた。
「……白馬か」
 平次が間取りを見ていたことを新一が知っているということは、情報源は彼しかいない。新一が目顔で頷く。
「間取りを眺めとったんは、信号待ちの暇つぶしのためや。なんの意味もない。気にせんといてや」
 なだめるように腕を掴む新一の手を軽く叩く。ようやく彼は目を閉じ、手を離した。
「工藤、喉乾いたりしとらん? 寝汗ひどいようなら着替えるか?」
 新一はわずかに首を振る。
「なら寝てまえ。よう寝て、はよようなり。美味い粥の作り方、明日おかんに聞いて作ったるさかいな」
 新一の口元に笑みが浮かんだ。
「楽しみにしとく。おやすみ」
「今夜はずっとおるから、なんかあったらいいや」
 新一が頷くのを確認して、平次は椅子に腰掛けた。

 彼の呼吸が寝息に変わるのを確認して、平次は先ほど掴まれた腕をさすった。
 新一の指が残していった熱が、まだ肌から離れない。昼間の痣とは別に、透明な痣が腕についたような気がする。
 ――気にかかるおまえを置いて出ていくわけないやん。
 触れるとタオルはもう温い。タオルを冷やしながら、熱を押してまで引き留められたことが嬉しいと、平次は思った。



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