無自覚な関係シリーズ 第八章
変 化
― 前 ―
駅から徒歩十分、日当たり良好、人気のフローリング、ロフト付き。
駅から徒歩五分、一階コンビニ、滅多に出ない物件です。
築浅、ベランダ南向き、オートロック、駅から徒歩二十分、バス停間近。
平次は信号待ちの暇つぶしに、脇の不動産屋の窓に貼られた間取りを見比べた。つい目がいくのはワンルームだ。だが、どこも同じような間取りに見える。家賃の相場はよくわからないが、アルバイトをすればどうにか稼ぎ出せそうな金額だった。
平次はドラムバッグを肩にかけ直した。
新幹線の中で憂いていた雨は、平次が駅を出るときにはやんでいた。晴れの続いた大阪からの帰りで、平次は傘など持ってはいない。降り続けているようなら迎えに来てもらおうかと考えていたのだが、取り越し苦労だった。雨はやんだものの、空は暗くまたいつ降り出してもおかしくない。湿度の上がった空気が平次の身体にまとわりついてくる。不快指数の高い天気だ。信号はまだ変わらない。
新一の発作の原因が自分にあるとわかってから半月。それを新一自身が否定してから、同じく半月。工藤邸の空気がどことなくおかしい。すくなくとも平次が帰郷するまではおかしかった。
――ちゃうな。おかしいんは、俺や。
意味なく間取りを目で追いながら、平次はぼんやりと考えた。
新一が、気にかかる。気にかかってしょうがない。
それが高じて新一をかまう快斗が気に障ることがある。非常に面倒見の良いやつだということはわかっているのだが、最近度が過ぎているような気がする。その上、たいがいそういうときの快斗の目はきらきらと輝いていて、なにかを企んでいることだけは確かだ。
かまわれる新一の方はといえば、たいがいは邪険にせずに快斗を受け入れている。だが、平次の視線に気づくと、慌てたように快斗を足蹴にしたりするのだ。蹴られる快斗の目は、やはり輝いている。
快斗の企みが読めないから、自分の気に障るのかも知れないと平次は思う。
なにかを企む快斗。平次の目を気にする新一。そして、新一が気にかかる自分。
本当におかしいのは、誰なのだろうか。
考え事に耽っていた平次は、信号が青に変わったことに気づかなかった。
「なにをしているんです? こんなところで」
背後から声がかかって、平次は驚いて振り返った。
白馬がいつもの掴みきれない笑顔を浮かべて立っている。そしてやはり彼の後ろには運転手付きの車が止まっていた。
白馬が平次の見ていた間取りの張り紙を見て、首を傾げた。
「工藤くんたちとの同居を解消して、独り暮らしをするんですか?」
「あほ! ちゃうわ、暇つぶしや。ここ信号長いやろ」
言って平次は信号を見た。タイミング悪く、また赤になるところだった。走っても間に合わない。
「いつのまに変わっとったんや」
嘆く平次に探が笑う。
「でも、独り暮らしを始めるのではないなら、よかった。服部くんが出ていくようなことがあるなら、僕にも少しは責任があるでしょう?」
彼の正体を話したから。
探が声をひそめる。
「あんなぁ、今更責任感じるぐらいなら、はじめから話すなや。けど、俺は俺なりに今の関係に納得しとるからな」
「丸め込まれたと?」
「確かにあいつの口は上手いけど、そないなことはないで。俺は自分の信条を曲げたわけやない。自分で出した答えや。文句を言われる筋合いはない」
言いきる平次に探がため息をつく。
「服部くんにも何かしら話したのでしょうね、彼は。なのにどうして僕にだけはなにも言ってくれないのでしょう」
寂しそうに探がこぼす。とても演技には見えなかった。
探のことを愚痴る快斗を平次は思い起こした。すっかり酔った顔で『こだわられても……』と話していた快斗は、朝にはそのことを忘れているようだった。
「おまえがこだわりすぎとるんちゃうか。まとめて考えすぎとるちゅうか」
『キッドの姿をしているときに黒羽と呼んで、昼間の生活の最中にキッドの話題を出すんだ、白馬は』と快斗は愚痴っていた。その気持ちが平次には何となくわかる。快斗にとってキッドは演じるもので、黒羽快斗本人から切り離した存在なのではないだろうか。
「まとめてもなにも全部彼でしょう?」
「TPOの問題ゆうことやろ」
「TPO?」
探が首をひねる。
「例えばや、おまえが事件を追っとる最中で、重要な手がかりを掴んで推理を組み立とるときに、携帯に脳天気な電話がかかってきたとしたら、ちょお苛っとくるやろ。それが誰からであれな」
探偵は演じるものではないが、事件にのめり込んでいるときに持ち込まれる日常生活の話題は、平次にとって鬱陶しいものだ。
「ああ、それならわかります」
ようやく探の顔が晴れやかになった。
「嫌われているのかと思っていましたけど、違うんですね」
「さぁ、そこまではしらんで」
肩をすくめた平次の腕がいきなり引かれた。
今の今まで話題にしていた快斗が息を乱して立っていた。走ってきたらしい。
「平次! おかえり!」
快斗がふたりの間に割り込むようにして探を睨む。
「黒羽くん。元気そうですね」
「白馬、久しぶり」
快斗の言葉には刺がある。浮かべている表情もまた挑戦的なものだ。
普段のどちらかといえば軟派な快斗しか知らない平次には、意外な彼の一面だった。
「平次、一緒に帰ろう」
あっさり探を無視して快斗が平次を促す。
「黒羽くん」
「なんだよ」
「今度ゆっくりお茶でも飲みませんか? 物騒な話は抜きにして」
探がにっこりと笑う。その笑顔の裏を探るように快斗の目が細くなった。
「……考えておく」
「秋にあるうちの大学祭でマジックショーがあるんですが、それについての話をちょっと。マジシャンの君には興味のある話だと思いますけど、どうですか?」
「だから、考えておくって」
素っ気ない快斗の返事に苦笑して、探は「連絡します」と待たせていた車に乗り込んで走り去った。
残されたふたりは車を見送って揃ってため息をついた。
「こんなところでなにを話していたわけ?」
快斗が不動産屋の張り紙を指さす。
「これ眺めていたみたいだったし。まさか、独り暮らしをしたいとか?」
「ちゃうわ! おまえまで白馬と同じこといいよるなぁ。ちょお信号待ちの暇つぶしをしとっただけや。横見たらあったさかい、眺めとったんやって」
探に対してした弁明を繰り返し、平次はため息をついた。快斗はいまいち納得がいかないのか、疑わしそうに平次の顔を見ている。
信号が青に変わった。
ようやく渡ることが出来ると平次はほっとした。水たまりをよけて横断歩道を渡る。隣を歩く快斗は相変わらず難しい顔をしていた。
「ほんとに?」
「なにがや?」
「出ていったりしないね?」
「いかんって」
やっと信じたのか、快斗の表情が和らいだ。
「平次が出ていったら新一が寂しがるからさ。絶対ショックを受ける」
「俺から見たら、おまえが出ていく方がきつい思うで」
快斗が意味ありげに笑う。
「俺が出ていくことになっても、新一は寂しがってくれると思うけどさ。でも、平次ほどじゃないよ」
「そうは思えん」
新一は快斗と楽しそうにじゃれ合っているように見える。それは平次には出来ない。発作の件もある。自分が原因ではないと新一は言うが、それでもやはり快斗のようにするにはためらいが残る。
「そう?」
快斗はまた含み笑っている。何かしら裏があるような顔だ。
軽く睨んだ平次を無視して、快斗は脇の道を指した。
「本屋つき合って。新一から買い物頼まれているんだ」
帰宅のルートから外れ、ふたりは大型書店に向かった。夕方の駅前は人通りが多い。濡れた傘を持つ人たちの間をふたりはすり抜ける。
「工藤はなにしとるん? 部屋で昼寝か?」
「そう。この間から喉が痛いっていっているから、強制的に寝かせている」
扁桃腺のあたりが痛いらしいんだ、と言う快斗に平次は声を上げた。
「大丈夫なんか?」
「今のところはね。いくら発作が起きなくなったからって、まだまだ新一の身体には注意が必要なんだ。哀ちゃんからもなるべく市販の薬は飲ませないようにしてくれって言われているから、滋養のあるものを食べてもらって、ひたすら寝かせているところ」
「夏ばてが原因っちゅうことはないんか? もともとそんな食うほうちゃうやろ。工藤は」
「食欲は落ちてないから、その辺は安心しているんだけどさ」
「まぁ、おまえがそうゆうんやったら、大丈夫なんやろな」
快斗が横目で平次を見る。
「信頼されているのかな、俺」
「しとるわ。ぼけ」
本屋に入りながら平次が頭を小突いてやると、快斗は大げさに痛がった。
工藤邸につく直前に、また雨が降り出した。ふたりは荷物を濡れないように抱え、走って玄関ポーチに飛び込んだ。ベルを鳴らしても、インターフォンからはなんの応えも返らない。
「寝とるんちゃうか」
「かもね」
だったらいいけど、と言う快斗の横顔は真剣だ。
玄関を開け、ただいまと声を上げてみる。返事はない。玄関に新一の靴がなかった。その上、リビングの灯りもついていない。外は雨のせいでもう薄暗い。灯りがなければ、本を読むのもつらいだろう。
ふたりは顔を見合わせた。嫌な予感がひしひしとする。
「新一?」
快斗がリビングを覗く、平次は念のため新一の部屋へ向かった。だが、そこに彼はいなかった。
「部屋にはおらんで、黒羽」
階段の上から声を掛けても、快斗からの返事はない。気になって駆け下りて、リビングにはいる。
平次が見たのは、メモを片手に立ちつくしている快斗の姿だった。荷物はソファの上に投げ出してある。
「工藤は?」
無言で快斗がメモを突き出す。彼はそのまま平次の横をすり抜け、玄関に向かった。
「おい、黒羽?」
快斗を引き留めようとした平次は、メモの中身を流し読みして固まった。
『呼び出しがかかったので出かけてくる。現場は近いから心配するな』
平次の顔も少し引きつる。
快斗が家の外に出さないように、代わりに買い物に出たりしていたというのに、本人はあっさり事件につられて外出してしまったらしい。不安定な天気のなかを、風邪気味の身体で。
ドラムバッグから財布だけ取りだして、平次は快斗のあとを追った。彼はとっくに玄関を出ていっている。
エンジン音がして振り返ると、快斗がガレージから車を出していた。新一は徒歩か、または迎えの車に乗っていったのだろう。
平次は助手席に乗り込んだ。
快斗の表情はいつになく硬い。
「平次、誰か知り合いの刑事に連絡を取って。新一は事件中だと携帯鳴っても無視するから」
「おう、わかっとる」
電話をする平次を乗せて、快斗の運転する車は大通りに向かって走る。
とにかく新一を確保することが急務だった。