無自覚な関係シリーズ 第五章

思 惑

― 後 ―



 駅ビルを出て、新一は顔をしかめた。
 日こそもう陰っているものの、アスファルトからは熱気が立ち上ってくる。それを吹き払う風もない。まとわりつくような蒸し暑さが新一の足を重くさせた。車道をひっきりなしに走る車の排ガスも蒸し暑さを助長させている。
「あーつーいー」
 隣を歩く快斗が間延びした声で言う。うんざりした表情のせいか、いつも元気よくはねている彼の癖毛までへたれて見える。
「身体が暑さになれていないから、今頃の暑さが一番きついよ」
「夜はいつでも平気そうじゃねぇか」
 真夏でも真冬でも。
 そう言う新一を快斗がちらりと見た。
「俺はずっと暑さにも寒さにも強いもんだと思っていたぜ」
 夜の快斗が纏う衣装は新一の知る限り一種類しかない。実のところ、あの衣装には夏仕様冬仕様があるのかも知れないと思っている新一だった。
「そりゃあ、舞台の上では完璧でいないとね」
 夜、という意味を正しく捉えて、快斗がウィンク付きで笑った。しかし、その笑みもすぐにへにゃりと崩れた。
「あつい……」
 Tシャツにジーンズというラフな格好の怪盗がまたぼやく。
「言葉にするからよけい暑く感じるんじゃないのか」
「言わないでいて涼しくなるならそうするよ」
 快斗が恨めしげに新一を見る。その目が逸れて輝いた。

「新一。アイスでも食べていかない?」
 新一が彼の視線の先を追うと、そこには大きなソフトクリームの看板があった。女子高生が二、三人、店の前でアイスを食べている。
「冷たいものを食うとよけいにばてるぞ」
「新一、冷たい……」
「ちょうど良いじゃねぇか。俺が冷たければ、おまえも少しは涼しくなるだろ」
「新一が氷で出来ていれば、俺は新一を離さない。夏の間は」
「バーロ」
 ふざけたことを言いながら、新一は快斗をソフトクリームの看板から引き離した。
「家に帰れば、アイスが待っているんだ。我慢しろ」
「アイスなんてあったっけ?」
 名残惜しそうに看板を振り返っていた快斗が、新一の顔を見る。
「今朝、服部が買って帰るって言っていたから、あると思うぜ」
「そうかぁ。平次、忘れていないといいけどな」
 現金にも快斗の足取りに力が戻った。笑顔を見やって、新一は平次が忘れていないことを願った。

「それにしても平次、アイスなんて食べるのかな。甘いもの苦手なくせに」
 確かに平次はケーキなどは食べない。コーヒーもブラックで飲んでいる。
「甘くないのでも買っているんじゃねぇの。あいつが買って帰るんだ。食えるものを買っているだろ。別にアイスにこだわらなくても良いんだし」
 そう言う新一を快斗がおもしろそうに見る。目が輝いているのを見て、新一は何か嫌な予感がした。
「まぁね。ところで平次、まだ気づいていないよね。俺の外泊の理由」
「……今のところな」
 とりあえず、今のところ平次は新一になにも言わない。もし、快斗の夜の仕事を彼が知れば、必ず自分を問いただしてくると新一は考えている。怪盗と探偵の関係を彼が見過ごすとは思えない。
「新一の言うとおり、ぼけているんだ」
「確かにそうだが、油断すると危ないぞ。近頃おまえ、あいつの前で失言が多い。聞いていて冷や冷やさせられているんだからな」
 それだけ快斗が平次に気を許しているのだと思うが、見ている新一としては気が気ではない。
 平次が事実を知った後、どういう反応を見せるか。新一には読めない。
「それでも気づいていないんでしょ? やっぱりぼけているじゃん」
 快斗の発言を不愉快に思った新一は、彼の目が光ったことにまで気づかなかった。
「馬鹿にしていると痛い目にあうぞ」
 普段どれほどぼけた言動をしようとも、探偵としての平次を新一は信用している。推理の過程を説明する必要がないのは、彼だけだ。
「あいつは俺の正体を二度目で見抜いた男だ。見くびるなよ」
 軽く睨んだ新一を見て、おもしろそうに快斗が笑う。

「なんだよ。快斗」
「なんでもないよ。ただ、新一って可愛いなぁと」
 新一は思いきり顔をしかめた。男に可愛いという表現はない。その上、言っているのはよりによって快斗だ。
「よく似た顔のおまえにいわれたくねぇ」
「顔じゃないって。中身だよ。中身。コナンの頃はなんて可愛くないやつだと思っていたけど」
 笑いながら快斗が新一の頭に手を伸ばす。くしゃりと髪をかき混ぜて「ほんとは可愛かったんだねぇ」と言った。
「どこがだ」
 新一はその手を払いのけ、悪態をついた。
 快斗の笑みが人の悪いものに変わる。
「だってさ。俺が平次の悪口言うと、ムキになって否定するでしょ? 新一。自分じゃ言いたい放題に言うのに」
「それのどこが可愛いんだよ」
 新一も本気で快斗が平次を馬鹿にしているとは思っていない。思ってはいないが、けなされるとおもしろくない。
「そりゃもう、全部」
 快斗は上機嫌だ。先ほどまで暑さにへばっていたというのに、今では足取りまで軽くなっている。

「わけわかんねぇぞ、おまえ。もともと変なやつだったのが、ますますおかしくなったな。暑さのせいか?」
「ひどいな、新ちゃん」
 快斗の傷ついたそぶりを新一は冷ややかに見た。
「この先どんなことになっても、俺は新一の味方だっていうのに」
「味方じゃなくて、共犯だろ」
 快斗の夜の仕事を知っていながら、目を瞑っている自分は犯罪に荷担しているようなものだと新一は思う。
「そう言う意味じゃないよ」
「じゃ、どういう意味だ?」
 突っ込む新一を快斗が笑顔でかわす。
「内緒。じゃ、俺が共犯なら、平次は?」
「相棒」
 即答した新一に、快斗が目を細めた。
「それだけ?」
 軽い問いかけの割に、快斗の目は意味深な色をしている。新一は警戒しつつ、言葉を継いだ。

「まぁ、親友と言っていいと思う。それに、あいつにだけは負けたくないから、ライバルと言ってもいいかもな」
 探偵として平次に後れを取ることだけはしたくない。
「複雑なようでいて単純だね。要するに無二の相手なわけだ」
 新一は曖昧に頷いた。
 確かに平次は得難い相手だ。
 平次に出会うまで、新一の隣に立てる人間はいなかった。父は目標のようなものであり、警察関係者は導く相手でしかなかった。
 自分にしか見いだせなかった真実へ続く道を、彼もまた見つけ、共に歩いてくれる。こんな相手はそうそういるものではない。
「なんか、納得」
 なにを納得したというのか、快斗はしきりに頷いている。
「やっぱりおまえ、わかんねぇ」
 ぼやいた新一の髪をまた快斗がかき混ぜた。





 赤く染まった空の下、ふたりは工藤邸に帰り着いた。
「ただいま!」
 快斗が声を上げて玄関を開ける。奥から「おかえり」と平次の声がした。どこにいるのか、彼の出迎えはない。
 新一は腕を伸ばして暗い玄関の電気をつけた。快斗は暗さを苦にすることことなく、すでに靴を脱いでスリッパに履き替えている。
 その快斗が天井を見て声を上げた。
「ひとつ切れているよ」
 新一は快斗の指さす先を見た。吹き抜けになっている玄関の天井からぶら下がっている照明のひとつが暗いままだ。
「替えある? 新一」
「あると思う。ちょっと待ってろ」
 新一はスリッパに履き替えると、階段の下にある大きな物置を開けた。消耗品の在庫はそこに収納してあるはずだ。普段使わないものも一緒にしまわれているため、はっきりいってなにがどこにあるのかわからない。

 新一が物置に入り込んで電球を探していると平次の声が聞こえた。
「おまえら、なにしとるん?」
「玄関の灯りが切れててさ」
 快斗が答えている。
「あ、ほんまや。けどあない高いところのどうやって替えるんや?」
「今新一がこもっている物置に脚立があったと思うんだよね。それを使えば届くでしょ。新一、あった?」
 快斗が物置を覗き込む。新一は振り返って扉の脇を指した。庭木の手入れにも使えるような七段の脚立が寝かせてある。はっきりいってなぜ家の中の物置にあるのか謎だ。庭の物置に置くべきだろう。
「脚立はそこだ。けど、電球が……」
「工藤、右の奥の棚の上、青い袋の。あれちゃう?」
 快斗の顔の横に平次の顔が覗く。
「重い。平次、ちょっと手伝って」
 快斗と平次がふたりがかりで脚立を抱えて出ていった。
 新一は平次の言う袋を開けて、目当てのものを見つけた。

「あったぞ、快斗」
 電球を持って廊下に出てみると、すでに快斗は玄関マットの上に脚立を置いて待っていた。
「届くんか。これで」
 平次が照明と脚立を見比べて言う。
 平次の言うとおり、一番上に立っても手が届くかどうか微妙だ。新一も首を傾げた。今までどうやって替えていたのか、一度両親に聞いてみる必要がある。
「大丈夫。大丈夫」
 快斗が新一の手から電球を取り上げ、スリッパを脱いで脚立に足をかける。手を使わずに危なげなく一番上に立つと、彼は下で見上げるふたりを振り返った。
「平次、電気消して」
「届かないだろ」
 快斗が手を伸ばしても、わずかに届かないように見える。
「まぁ、見ててって」

 ふっと電気が消えた。平次がスイッチの脇に立っている。
 リビングからもれる光で、玄関はぼんやりと明るい。照明に向かって手を伸ばす快斗が濃い影となる。
 見守る新一の前で、つま先立って快斗がぐっと伸び上がる。指先が照明に届いた。
「うわ、今度この辺も掃除しようよ。埃って言うか、砂埃かぶってる」
「そういや、いつから掃除してないんだろうな。ついでに掃除もおまえに任す。快斗」
「新一、それはないでしょ」
 嘆きながらも快斗は電球を取り替えた。
「平次、つけていいよ」
「おう」
 声と共に灯りがつく。
 新一の視界の端で、その平次が息を飲んだ。
 快斗を見上げる平次の横顔は、新一の見慣れたもの。彼は探偵の顔をしていた。
 新一の身体に緊張が走る。
 彼が快斗を探偵の眼差しで見る理由は、ひとつしかない。

「ああ、手が真っ黒になった」
 のほほんとした快斗の声に答えたのは、平次だった。
「汚れついでや、掃除もしたらええのに」
 普段とまったく変わらない声で、平次は話しかけている。表情もまた普段通りだ。先ほど見た横顔が思い過ごしに思えてくる。
「今度やるよ。今度。天気のいい休みの日にね。平次にも手伝ってもらうから」
「大掃除やな。朝の涼しいうちからやらんときっついで」
 笑顔を交わしながら、彼らは脚立を畳んでいる。いつのまにか古い電球は平次の手に渡っていた。
「新一、どうした? 呆けちゃって」
「工藤?」
 無言のままふたりを見つめていた新一に、本人たちが心配そうな眼差しを向ける。
「まさか、今日暑かったから?」
「熱中症か? ちゃんと水分とっとるんか」
「だからアイス食べて帰ろうっていったのに」
「あほ、アイスは喉乾くやろ」
 答えない新一を置いて、彼らはいつものようにぽんぽんと会話してる。

 平次は快斗の姿にキッドを見てしまったのだろうか。
 快斗はそのことに気づいてないのだろうか。
 新一の思いをよそに、彼らはまったくいつもと変わらない。
「おまえら、いい加減にしろ。腹減ってちょっとぼんやりしていただけだろ」
「食欲があるゆうことはええことや」
「新一って暑くなったら食べなくなりそうで心配してたんだ」
 笑顔で頷いてふたりは脚立を持ち上げた。そのまま物置に向かう。
「そうだ。平次、アイス買って帰ってくれたんだって?」
「買うてあるで。ちゃんと冷凍庫に入っとります」
「やった!」
「こら、夕飯前に食うたらあかんで」
「わかってるって」
 子供のようなやりとりをしながら、ふたりが物置に消えた。

 新一は大きく息を吐き出した。
 おそらく平次は快斗の正体に疑いを持った。もしかすると、気づいてしまったのかも知れない。
 ポーカーフェイスが得意の快斗と、コナンの正体を二度目で見抜いた目を持つ平次と。ふたりとも一筋縄でいくような相手ではない。
 この先どのような腹のさぐり合いがあるのか、想像するだけで新一の頭は痛くなる。
 波乱含みの夏休みになりそうで、新一は物置から出てきたふたりを思わず睨んだ。



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