無自覚な関係シリーズ 第五章

思 惑

― 前 ―




 冷房のきいた書店から出ると、外はめまいがするほど暑かった。
 あつ、と思わず呟いて、平次は眩しさに目を細めた。梅雨が明けたとたん、季節はいきなり真夏になった。じりじりと焼かれたアスファルトが柔らかくなっているような気がする。
 本の入った袋を小脇に抱え、平次は食料品の買い出しに向かった。今日の午前中で前期試験が終わった平次が夕飯の当番だ。新一と快斗は明日も試験が残っている。そして、彼らはまだ大学で机に向かっているはずだ。

「服部くん」
 呼び止められた平次が振り返ると、そこには昔なじみの姿があった。歩道脇には運転手付きの黒い高級車が彼の装飾品のように止まっている。
「白馬」
 平次の上げた声に、白馬探がにっこりと笑った。
「相変わらず元気そうですね」
 日本人離れした色素の薄い容姿に、年齢不相応の妙に落ち着いた物腰と、嫌みなほどの丁寧な言葉遣い。一度会ったら忘れられない個性的な男がそこにいた。
「アフタヌーンティでもいかがですか」
 ゆったりとした足取りで近づきながら、探が近くの喫茶店を指し示す。
「別にええけど。待ち伏せでもしとったようなタイミングやな」
 平次が探に最後に会ったのは、中学に上がる直前だった。彼はホームズの生まれた地で学ぶのだと平次に語って海を渡ったのだ。
「ええ。まぁちょっと君に話があったので」
 悪びれる様子もなく、あっさりと探が頷く。
 昔と変わらないマイペースぶりに平次は「さよけ」と投げやりに答えた。



「帰ってきたゆうんは聞いとったけど」
 アイスコーヒーを前にして平次は探を見た。
「黒羽くんからですか」
 ミルクティを飲んでいた探が聞く。夏場だというのに汗ひとつかいていない彼に季節感はない。
「いや、本庁で耳に挟んだ」
 警視総監の息子にして世界的な怪盗を追いかけている探偵。探の動向は警察内部ではすぐに噂になる。
「なんで黒羽から聞かなならんのや」
「彼は高校の同級生なんですよ。一緒に暮らしているというのに聞いていないのですか」
 平次が首を振ると彼は残念そうにため息をついた。
「ところで服部くん、工藤くんたちとの共同生活には慣れましたか」
 平次はわざとらしく肩を落とした。探が無駄なことをしない性格だというのは、短いつきあいだった平次にもわかっている。その彼が待ち伏せまでしていたのだから、重大な話があることは見当がついていた。

「はよ本題に入ってくれや。今日の晩飯の当番俺やねん。材料買って帰らなならんし、のんびりしとる暇はないんや」
 平次が工藤邸で生活していることを探が知っているのは特におかしなことではない。だが、快斗も共に暮らしていることまでなぜ彼が知っているのか、平次は少し気になった。
 探が平次をまっすぐ見て笑った。
「そうですね」
 彼はテーブルの上に身を乗り出すと、平次を目顔で呼んだ。
 顔を寄せた平次に探がささやいた。
「怪盗キッドの正体は、黒羽くんです」
「はぁ?」
 平次の思わず上げた大声に店内の視線がふたりに集中した。
 苦笑を浮かべて席に座り直した探がもう一度言った。
「正体は彼なんです」
 平次は眉をひそめたまま探の顔をじっと見つめた。自分の発言に自信を持った男の顔がそこにある。

 平次は彼の言葉を嘘や冗談と笑い飛ばすことが出来なかった。
 数ヶ月の同居の間に感じていた快斗に対するかすかな違和感が、平次の反論を押さえ込んでしまう。
 平次の視線を気にすることなく探は落ち着いて紅茶を飲んでいる。
「信じられへんな」
 正直な気持ちを平次は吐露した。
 平次も快斗がただの高校生だったとは思っていない。コナンであった新一の正体を知り、彼の復活を助けた快斗が普通の高校生であるはずがない。だからといって、彼がキッドだとはにわかには信じられなかった。

「根拠はなんやねん」
 アイスコーヒーを一気に飲み干し、平次は口を開いた。
「現場に残されていた毛髪を叔父の研究室で分析しまして」
 すべて言わずに探が微笑む。平次は無言のまま彼の顔を見つめた。探もまたなにも言わない。息の詰まるような沈黙がしばらく続いた。
「そこまでわかっとってなんで捕まえんのや、警察は」
「警察は知りません。知っているのは僕と君。おそらく工藤くんも知っているでしょうね」
 思いがけない言葉に平次は眉をひそめた。
「工藤も?」
「正体を知った上での同居だと考えていますよ。僕は」
 探が紅茶をすする。
 平然とした彼の態度からは、話していることが重大なことだとは見えないだろう。

 平次はそばを通りがかったウエイトレスにアイスコーヒーのお代わりを頼んだ。
「おまえが握っとる証拠をなんで使わん」
「僕のわがままです」
 にっこりと笑う探に平次の緊張感がそがれる。彼が非常にマイペースな男だと言うことを平次はうっかりと失念していた。
「あほくさ。なんちゅう理由やねん」
「僕は彼を捕まえたい。僕の立場から言うのもなんですが、ひとりで捕まえたいんです。現行犯で」

 平次のアイスコーヒーが運ばれてきて、ふたりの会話はいったん中断した。
 平次はストローで氷をかき混ぜながら、探に聞いた。
「そこまでこだわる理由はなんやねん」
 高校時代から追い続け、ひとりで捕らえたいという、その理由。
「彼の行動の理由が知りたい。それだけです」
 探の声に不思議な優しさがこもった。
「以前対峙したときに聞いたら、それを調べるのが探偵だろうと言われましたけど、やはり僕は直接彼から聞きたいんですよ」
 なぜ盗むのか。
 探がぐっと声を抑えた。
「なぜ、か」
 考えたことのない理由に平次は快斗の顔を思い浮かべた。新一のことを気に掛ける笑顔の快斗しか平次は知らない。

「狙うものの大半は宝石。しかも盗みに成功しても、それはその後必ず持ち主の元に返される。スリルを求める行動にしてはやりすぎでしょう。最近はなくなりましたが、一時期彼は警察以外の組織からも狙われていたようです」
「海外の警察関係者ちゃうんか」
「違うでしょうね。非合法的な組織でしょう。彼の身柄ではなく、命を狙っていたのですから」
 探の顔から笑みが消える。
 平次は口元に手をやり、アイスコーヒーのグラスを睨んだ。殺人もいとわない組織にはひとつ心当たりがある。すでに崩壊した、あの黒の組織。
「いつ頃からその組織は出てこんようになった?」
「一昨年の秋頃からです。でも、そのころは彼の活動もしばらくなかったようです。僕は海外にいましたから、日本からその情報を得たときには心配しました。姿を現さないのは、殺されたせいではないかと思って」
 平次の考えをよそに探が自嘲気味に笑う。
「おかしいでしょう。探偵が怪盗の心配をするなんて」
「別にええんちゃうか。おまえにしてみたら因縁の相手みたいなもんなんやし」
 自分の発言に、平次は目を見開いた。

 『あいつは因縁の相手なんだよ』
 新一は確かに快斗を因縁の相手と呼んだ。
 コナンの頃、彼は何度かキッドと相対している。捕り逃したことを悔しそうな声で話す彼の表情が楽しげだったことまで平次は思い出した。
 やはり快斗はキッドなのか。
 一昨年の秋と言えば、黒の組織がつぶれた頃に重なる。
 これは偶然か、否か。
「そんで、なんでそれを俺に話すん」
「彼にプレッシャーを掛けようと思いまして」
 人を食ったような笑顔を探が浮かべる。
「彼は君になにも話していないようでしたから。隠していたはずの君に知られたとなれば、彼は少なからず動揺するでしょう。それが夜の彼に影響を与えるのではないかと思いましてね」
「そない繊細か。あいつは」
 平次には快斗がつかみ切れていない。つきあいの長さが問題なのではなく、彼の飄々とした態度が本質を隠しているような気がする。
「だいたいそんくらいで隙を作るようなやつやったら、警察かて苦労せんやろ」
 爆弾発言しおって。
 平次は探を睨んで腕を組んだ。
「君の生活を乱すとは思ったんですが、手段を選んでいられなかったんです。すみません」
 探に悪びれた様子はない。
「悪い思うてないのに謝るなや。白々しい」
 平次の悪態にも探の表情は変わらない。平次は諦めてため息をついた。元々何かあるだろうと思っていた快斗の裏を知っただけだ。だが、やるせない疎外感を抱えることにもなってしまった。

「彼の大学生活は順調そうですか?」
「会うてるんやないのか」
「僕が彼に会うのは現場でだけですよ。待ち伏せをしても逃げられますし、訪ねていっても工藤くんがいい顔をしないでしょう。ホストに嫌われては訪ねづらい」
「おまえがそない繊細なたまかい」
「心外ですね」
 目を見張っての探の答えに、平次は脱力した。思い出したようにアイスコーヒーに口を付ける。氷が溶けきって水っぽくなっていた。
「黒羽は上手いこと学生生活を送っとると思うで。友達も多いようやし、女にももてとるようや。勉強でも苦労しとる様子はない」
「そうですか。それは良かった」
 嬉しそうに探が笑う。

 プレッシャーを掛けて動揺を誘うと言っていたくせに、快斗の日常生活が順調なことを喜んでいる。探の矛盾を平次は突っ込まなかった。おそらく彼は気づいていないに違いない。指摘したところでまた脱力するような答えが返ってくるだろうと思ったのだ。
「そろそろ俺は帰るで。飯の支度があるさかいな」
 代金を置いて立ち上がった平次を探が見上げる。
「話しますか?」
「聞かれたらな」
 自分からわざわざ快斗に探の話をする気はない。だが、隠す気もない。
「君まで取り込まれないことを願ってますよ」
「工藤はただ単に取り込まれたんちゃうと思うで。たぶんな」
 あの新一が快斗の正体を知りながら黙認しているなら、それにはそれなりの理由があると平次は踏んでいた。キッドの命を狙っていた組織と、新一の追っていた組織の消滅時期が重なるのも気にかかる。
「自信があるようですね」
「工藤とはつきあいが長いもんでな」
 ほな、と言い置いて、平次は探に背を向けた。
 振り返らずにそのまま喫茶店を出る。
 傾いたとはいえ夏の日差しはまだ強く、平次は眩しさに目を細めた。黒の高級車の姿は見えない。帰るときにまた探が呼び出すのだろう。
「贅沢なやっちゃなぁ」
 ぼそりと呟いて、平次は食料品の買い出しに向かった。



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