「必殺技」考

はじめに

 少なからぬヒーローがその必殺技とともに語られる。そうであるならば、必殺技について明らかにすることは、ヒーローを論じることにおいて重要なのではないか。このような目論見のもと、本稿では必殺技の位置づけについて考えてみたい。
 ところで、そもそもこの問題はパンダマン氏により提起されたものである。さらに、ワタボー氏と毒舌隠者氏にも多くの示唆を頂いている。それらのご意見なくして本稿はなかった。心から感謝したい。
 ただし、もちろん本稿のすべての論述の責任は私にある。

1 必殺技とはなにか

 そもそも必殺技とはなにか。文字通りにとれば、二つの条件が必要となるだろう。第一に、技であること。第二に、必殺であること。これらの条件を満たしたものが、必殺技とされる。当たり前といえば当たり前である。

2 技とはなにか

(1)能力と武器は技ではない

 技である、ということはなにを意味するのか。いくつか対比をしてみる。
 能力は技ではないので、必殺技にはならない。十万馬力のパワーをもっているとか、超高速で運動できるとかいった能力をもっているとしよう。これらの能力の単純な発揮が必殺の結果を生んだとしても、あまり必殺技とは言えない気がする。
 さらに武器や兵器などの通常の使用も技ではないので、必殺技にならない。日本刀で斬ればまあ必ず死ぬし、拳銃で撃てばまあ必ず死ぬ。しかし、日本刀を振る一撃のすべてを、拳銃の引き金を引く行為のすべてを必殺技とは呼ばない気がする。
 やはり、必殺技は、技でなければならない。

(2)技とはなにか

 では、改めて、技とはなにか。「後天的に習得される一定の行為の型」と言えるかもしれない。
 たとえば能力の単純な発揮は技ではない。ゴジラだのガメラだのが火を吹いたとしよう。これは技ではない。それはゴジラが先天的にもっている能力の自然な発露だからだ。後天的に、しかも努力して習得しなければできないような、複雑な行為であって初めて技になる。
 また、武器の使用も引き金を引くだけでは駄目だ。単純すぎて技ではない。誰にでもできるのではないような斬り方、撃ち方をして初めて技になる。東映戦隊でバズーカ一発撃つのにも五人でスクラム組まねばならないことを想起されたい。スーパーロボットの必殺技も同様である。必ず操縦者の技が要求される。そうではなくては必殺技にならない。誰が乗っても使える兵器は必殺技にはなりえないのである。

(3)必殺能力および必殺武器の位置づけ

 このように、必殺技は技でなければならない。もう一歩踏み込んで言えば、必殺能力や必殺武器は基本的にあってはならない。
 理由は酷く単純だ。発動すれば必ず殺す能力や、使えば必ず殺す武器がもしあったとすれば、すぐバトルが終わってしまうので面白くないのだ。もし強引にバトルを長引かせたとしても、「どうして最初から使わないのか」という醒めたツッコミがすべてを台無しにしてしまう。
 たとえば、実はウルトラマンのスペシウム光線は必殺技の典型ではない。手を組めば自然にビャーと出る感じがしてしまう。デフォルトの能力っぽくて、技っぽくないのだ。そのため、ウルトラマンの光線については「どうして最初から使わないのか」というツッコミが湧きやすいのである。メビウスなんかは光線を放つ前のアクションが結構複雑で溜めを利かせる仕様になっていて、技っぽいのだが。
 一方、技については事情が異なる。後天的に習得される技は、自然に「使うのが難しい」という含意をもちうる。だから、「バトルの流れのなかで「ここぞ」というときに放っているんだ」という読み込みがしやすい。これが可能なのは技についてだけである。
 それゆえ、必殺能力と必殺武器は基本的にはありえない。

3 必殺とはなにか

(1)必殺技と反復

 第二の条件、必ず殺す、ということを考えよう。まず言えるのは、必殺技が「必殺」であるためには、複数回使われねばならない、ということである。
 理由は簡単だ。ある局面で、ある技が敵を「殺」したとしよう。しかし、それが偶然殺せてしまっただけの場合には、その技は「必殺」ではないだろう。敵を「殺」したという結果が、偶然ではなく「必」然であることを示すためには、何度も成功を反復するほかない。たとえば、一度しか使われなかった技は、必殺技と認知されにくいわけだ。
 ちなみに、最近の東映戦隊のロボはバージョンアップの頻度が異常に早いので、必殺技の印象が薄れてしまっているような気がする。十分な反復がなされていないということだ。

(2)なぜ必殺技の名前を叫ぶのか

 反復ということから一つ理解できることがある。必殺技にはなぜ名前があるのか、そして、しばしばその行使において、その名前を叫ばなくてはならないのか、ということである。
 それは、同一の技を反復しているということを明示するためと考えられる。
 「必殺」の「必」を言うためには、技を反復しなければならない。その際に、同じ技が使われているということが明確にされていなければ、反復の意味がない。そのためにも、行使のたびごとに名前を叫ぶことは有効なのだ。

(3)必殺技と設定

 別の方策もあるのではないか。その技が必殺であることを、設定の位相できっちりと詰めて、それを作品中で説明すればよいのではないか。こう思われるかもしれない。
 しかし、必殺技を設定に位置づけようとする試みは、上手くいかないと思われる。ただし、これについては必殺技の役割を考えなければ論じることができないので、後に論じることにしたい。

4 必殺技の役割

(1)必殺技のリスク

 そもそも、なぜある作品において必殺技が登場するのだろうか。
 作品に必殺技を持ち込むことにはいくつかの明白なリスクがある。現実の戦闘には文字どおりの意味での必殺技などないので、戦闘描写のリアリティが欠けがちである。また、戦闘描写において、同じような結末を反復することになるので、退屈なワンパターンに陥りやすい。
 それでもなお必殺技が求められるとしれば、利点はなにか。ある技を「必殺」とすることにおいて、なにが達成されるのだろうか。

(2)手抜きとしての必殺技

 まず指摘するべきは、演出上のコストの削減であろう。
 真面目に戦闘を描いて、どちらがどうして勝ったのかを説得的に読者視聴者に示すのは、労力を要する作業である。そこで必殺技だ。戦闘の過程をいいかげんに描いたとしても、適当に大技を交互に撃ち合って最後に必殺技の炸裂をもってくれば、なんとなくわかったような気になってくる。さらに、ちょっと前までのアニメや特撮であれば、必殺技には当然のようにバンクを使えたわけで、コスト削減効果はかなりのものがあっただろう。皮肉な見方をすれば、これが近代必殺技の出発点なのかもしれない。

(3)必殺技のカタルシス

 しかしもちろん、必殺技の効果はそれだけではない。必殺技は、非常に強い「待ってました」のカタルシスを与えることができる。こちらのほうが語るに面白い論点であろう。
 では、「待ってました」のカタルシスはどのように生起するのだろうか。
 ここで注目すべきは、必殺技の「待ってました」は、物語のストーリーの流れから期待される「待ってました」ではない、ということだ。
 必殺技の「待ってました」は、パターンの反復から期待される「待ってました」である。ストーリーがどうであろうがまったく関係なしに、『仮面ライダー』であればライダーキックが、『水戸黄門』であれば印籠が期待される。なぜならば、これがパターンだから。パターンということは、個々のストーリー展開の特殊性が断ち切られることを意味する。
 もう一歩踏み込んで言えば、必殺技は、ストーリーの流れをある意味でぶち壊す非合理なものなのである。
 しかし、この非合理性、滅茶苦茶で破天荒で辻褄が合わなくて出鱈目であること、これがまさに必殺技の妙なる魅力の核心をなしていると思われる。
 そもそも、クライマックス前までのヒーローもののストーリーとは、「そのままいけば悪が勝ち、善良な人々が泣く」というものであるはずだ。その流れがヒーローによってぶち壊されるところにカタルシスがある。そして、そのぶち壊しが非合理で破天荒であればあるほど、ヒーローはヒーローとして輝くであろう。これは、「「ヒーローになる」とはどういうことか」で強調した、「奇跡としてのヒーロー」という論点にも繋がるものである。
 つまり、必殺技は非合理であるべきなのだ。それがヒーローのヒーロー性を高めるのである。

(4)必殺技と設定の後付け

 これでやっと必殺技と設定の話ができる。
 私は、必殺技を設定に組み入れるべきではない、と考える。なぜならば、それは必殺技の合理化を意味するからだ。
 合理化された必殺技は、そのカタルシス効果を失うであろう。また、細かい設定をつけることは、それだけ「どうしてここで使わないのか」「どうして敵はこの欠陥に気づかないのか」などといった、無用なツッコミを招いてしまうであろう。
 必殺技は、ただただ反復の演出によってのみ支えられるべきである。必殺技についての設定は、必要に応じての後付け程度、最低限にとどめるべきなのだ。『勇者王ガオガイガー』などを想起されたい。「ロボットにデカいハンマーやらドライバーやらをもたせたら面白いよなー」という「演出上の面白さ狙い」が先立っており、すべての設定は後付けだ。それでいいのだ。

5 必殺技以外のギミック

(1)設定が先行するとどうなるか

 必殺技の設定は後付けであるべきだ、と述べた。では、設定を先行させるとどうなるのか。
 そこでは、いわゆる「必殺技系ヒーローもの」は不可能になると思われる。そのかわり、「能力系バトルもの」や「最後の切り札系ドラマ」が展開されることになる。

(2)特殊能力と設定

 現代のバトル系作品、それもとりわけ漫画のバトルものにおいては、必殺技よりも「特殊能力」が核になる場合が多いと思われる。
 最初にかっちりとキャラクターの能力や世界観の設定を決めておく。そして、種々の能力を世界観の制約のうちでどのように使って勝利するかをお話の軸にするわけだ。これが「能力系バトルもの」の基本的な骨格である。このとき、バトルはルールの枠内でのゲームやパズルのようなかたちで描かれることになる。
 一方、「必殺技系バトルもの」はこうならない。必殺技には設定がないので、ルールのなかでのゲームという構図がつくれない。こちらでバトルの帰趨を決定するのは、正義とか勇気とか根性とかいった要素になる。
 この対比は重要である。
 「能力系バトルもの」は設定がしっかりしているため、理屈にあったバトルの展開を楽しむことができる。しかし、一方で、勝敗がゲームやパズルの要領で説明されてしまうため、正義やら愛やらといった理念を置き去りにした、バトルのためのバトルになりやすい。
 「必殺技系バトルもの」は設定が雑で、バトルの展開もノリ重視だ。そのため、「誰が最強か」などといった考証はほとんど無理だったりする。しかし、設定云々ではなく、お話の流れが勝敗を決めているわけで、ドラマとしての燃えは盛り上がりやすいかもしれない。
 どうして現代において必殺技から特殊能力への移行が起こったのかは、一つの問題である。キャラクターの重視とか、ゲーム的なステータス表現の流行が原因なのかもしれない。

(3)最後の切り札と設定

 特殊能力以外にも、必殺技と似て非なるものはある。「最後の切り札」がそうだ。
 必殺技は反復に基づかねばならず、設定で説明されてはならない、と強調してきた。最後の切り札の場合は、まったく逆となる。最後の切り札は「最後」の切り札なのだから、反復されてはならない。ラストにただ一度だけ使われるのでなければならない。また、最後の切り札がまさに「切り札」であることは、お話のなかで設定が語られていくことにより暗示されねばならない。具体的には、『天空の城ラピュタ』の「滅びの言葉」などを思い浮かべてもらいたい。
 このような最後の切り札のカタルシスは、必殺技のカタルシスとは少々異なる。先に、必殺技のカタルシスを、パターンによってお話の流れをぶち壊す非合理性から捉えた。一方、最後の切り札は設定に基づくがゆえに、このようなカタルシスはもちえない。最後の切り札のカタルシスは、「これまでちりばめられてきた伏線が一つに鮮やかにまとまる」という論理的一貫性のカタルシスであると思われる。
 この観点からすると、『Fate/ stay night』の二つのシナリオ、「Fate」と「Unlimited Blade Works」の位置づけは面白い。「Fate」の最後のセイバーのアレと、「Unlimited Blade Works」の最後の衛宮士郎のアレは、最後の切り札の典型例と言える。これらを必殺技と解すべきではないのだ。どちらも、反復に基づく「待ってました」のカタルシスではなく、伏線の解消に基づく「そうだったのか」のカタルシスを与える、最後の切り札だからだ。

6 必殺技の演出論

(1)反復と濫用との均衡

 必殺技を「待ってました」のカタルシスから捉えた。では、このカタルシスの成立のためにはなにが必要なのだろうか。
 一つ指摘すれば、「待ってました」のカタルシスを生むためには、必殺技は基本的に濫用されるべきではない。濫用されてしまえば、当然「待ってました」感は出ないだろうから。
 しかし、ここで注意したいのは、あくまで必殺技は反復されねばならないということである。つまり、必殺技は、濫用にならないかぎりで反復されねばならない。これがポイントになる。

(2)必殺技とシリーズもの

 反復と濫用との均衡という観点に着目すると、いくつかの興味深いことが見えてくる。
 たとえば、必殺技はシリーズものと親和すると思われる。テレビシリーズのロボットアニメや特撮などの必殺技は、毎週毎週使われるのだが一話に一回しか使われない、というリズムを保つことができる。このリズムは、「反復されるけれども濫用ではない」絶妙なところにある。必殺技はテレビシリーズなどに向いているのだ。
 他の媒体では、このようなリズムがつくりにくいと思われる。そのため、必殺技を効果的に演出するには、なんらかの工夫が必要とされるであろう。テレビシリーズの必殺技のノリをそのままゲームやらノベルやらに持ち込もうとしてもあまり上手くいかないのはそのためである。また、先に扱った「能力系バトルもの」が多く見られるのが漫画においてであって、テレビシリーズの特撮では未だに必殺技が活躍していることも、ここに由来するのだろう。

(3)必殺技と伝承

 濫用されることなき反復を描く別の方式として、技の伝承を強調するものがある。典型的には武術である。
 たとえば、武術の奥義や絶招は、お話のうちで反復されることがなくても必殺技としての説得力をもちうる。なぜなら、それがある流派の技であるかぎり、先人が何度も使ってきた有効なものであることは折り込み済みと見なされるからだ。そのため、「どうしてそれが必殺なのか」を詰めて設定しなくても、「ナニナニ流奥義ナニナニ斬り」とか名前さえつければ、なんとなく凄そうな雰囲気が出てしまったりするのである。
 これならシリーズものでなくても使える。実際、剣豪小説は長編短編連作を問わず必殺技の宝庫である。

(4)必殺技と特訓

 もう一つ別に、特訓を強調するという方向がある。
 先に、技について習得の契機を指摘した。技は習得されねばならないのであった。
 さて、必殺技は技である、それも必殺の技である。習得が難しくなければ釣り合わない。それゆえ、しばしばその習得には特訓が要求される。
 この特訓という営みが面白い。
 よく考えてみると、特訓を描くということは、必殺技を失敗する描写を反復するということである。つまり、特訓において、必殺技はある意味で反復されるが、ある意味では一度も使われていない、すなわち濫用されていないということになるのだ。ここにも反復と濫用の微妙な均衡が成立しうる。
 具体的には、スポ根のノリを思い浮かべてもらえばいいだろう。スポ根もまた媒体を問わず必殺技の宝庫である。特訓の、つまりは度重なる失敗の過程を経ての必殺技の成功が強力なカタルシスを生むことは、もはや言うまでもないだろう。これもまた、反復と濫用との均衡という観点から説明ができるのである。
 もう一つ論点を付け加えておこう。これまで失敗されてきた必殺技は、なぜ最後に成功するのだろうか。もちろん、愛や勇気や努力や根性が奇跡を起こすからだ。特訓は「できるはずのないものをできるようにする」という非合理性のカタマリのような行為である。それゆえ、必殺技と非常に相性がいいのだろう。

おわりに

 いやはや存外に長文になってしまった。
 掲示板のレスを考えているうちに、だんだん面白くなってきてテンションが暴走しはじめて、最終的にここまで膨れ上がってしまった。問題提起および議論の道筋を示してくださった皆さんにもう一度最後に感謝したい。どうもありがとうございました。

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