安倍吉俊+gK『NieA_7』における笑いと文芸と姉萌え

 地球人と宇宙人が共存することになった近未来、幸薄い極貧予備校生茅ヶ崎まゆ子と居候のダメ宇宙人ニアのヘッポコな日常を描いた漫画である。アニメ版もあるので知っている方も多いかと思う。でもやっぱり漫画版だな。私のこよなく愛する作品の一つである。

 そもそも、笑いを語るのは本当に難しい。一歩間違うと「みんなコレを面白がるべきだ」という主張になってしまう。他人に笑いを押しつけることほど、野暮で無粋な振る舞いはないだろう。
 それはわかっているのだが、論の運びの都合上、以下、危険を承知で、私自身のオモシロのツボについて少しだけ語ることを試みたい。

 基本的に、笑いは笑いだけでいい、というのが私の趣味である。ハイテンションやら珍妙なセンスやらが、常識の枠組みに回収できない位相で炸裂するのがいいのだ。常識の枠組みに回収されえないということは、そこに意味など不要ということだ。純粋にただただ下らなくただただ馬鹿らしいものこそが、ギャグまんがの王道ではないか。
 岡田あーみんとか『余の名はズシオ』時代の木村太彦とか、田丸浩史や古賀亮一のような芸風を思い浮かべていただきたい。読後になにひとつ価値あるものが残らないからこそ、オモシロいのだ。
 ただし、先ほど強調したように、あくまでこれはたんなる私の趣味でしかない。そしてさらにその趣味の主観的な基盤を探ってみれば、私の漫画の読み方の癖に由来すると思われる。なにか意味が読み込めてしまうと、どうしてもその意味を軸にして物語を読んでしまうのである。そうすると、ギャグまんがとして純粋に読めなくなってしまうのだ。永野のりこ作品がまさにそれで、「永野のりこ論」で示したような文芸読みしかもうできない。そうすると、なんか笑えなくなってしまったりするのである。他の人はどうだか知らないが、これが読み方の癖なのだから仕方がない。

 とはいえ、例外もある。その一つがこの『ニアアンダーセブン』である。
 この作品、一面では、ハイテンションと珍妙なセンスが弾けた馬鹿漫画なのだが、同時に青春な日常の切なくて愛おしいところを繊細に切り取ることにも成功してしている。それも、私のような半端なひねくれちゃんにたいしても成功している。
 先に述べたような私の読みの癖からいくと、この系統の作品は文芸読みしかできなくなってしまいがちなのだが、なぜか『ニアアンダーセブン』だけは、文芸読みをしつつも、馬鹿漫画としても楽しめるのだ。とくに ホラココにコソっとビニ本が、というような偽インドネタの暴走っぷりなど、素晴らしいの一言に尽きる。
 どうやら以下のような事情のようだ。そもそも私はいわゆる青春モノ日常モノが少々苦手である。よっぽど上手く描かれていないと、なにか独特の視野の狭さとか、なんとはなしの閉塞感とかいったものが感じられてしまうのだが、それがあまり好きではないのだ。ところが、『ニアアンダーセブン』の場合、馬鹿きわまりない酷い笑いが、そのあたりの気になる臭みを上手く打ち消してくれている。あたかも青魚に添えられたしょうがのように。そのため、私のような趣味が偏った人間でも大丈夫な味つけになっているのかもしれない。
 暴走する馬鹿さと繊細さとが、互いの良さを相殺せずに、絶妙なブレンドを保っているわけだ。なるほどこういう味つけもあるのか、と勉強になった。

 さて、ここまでは実は前置きにすぎない。着目すべきは、『ニアアンダーセブン』が良質の姉漫画である、という点にある。
 この作品、まゆ子のひと夏の小さな成長の物語になっているわけだが、その描写の鍵になっているのが「田舎の弟との電話」なのである。
 実家にいる弟、知也は生来病弱で学校を休みがちだったのだが、そのため学校にあまり馴染めないでいる。そんな弟との電話が劇中に二度組み込まれている。前半部の電話の後では、まゆ子は「いいお姉さん」でなければならないことの重さに悩む。しかし、ラストシーンの電話では、まゆ子は心からの言葉を弟にかけることができるようになっているのだ。
 弟との電話が、まゆ子のささやかな成長を示すものになっているわけだ。まさに姉漫画である。弟が電話の声だけでしか登場しないあたり、かなりの変化球ではあるのだが、核心はまったく外していない。上手いものである。

 ついでに言えば、小松ちあ紀の眼鏡っ娘っぷりもいい。カーナのチャイナは偽だけれども。

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