ベタの正戦論

 やっぱりさ、妄想のなかで弄ぶ題材として、もっとも面白いものの一つが戦争であるってのは動かないと思うのだ。
 人類の歴史がはじまって以来、文化というものは、とにかく戦争の描写を面白おかしく燃えるエンタメに仕上げる、ということに精力を注いできたわけだ。その蓄積は侮れない。変身ヒーローや巨大ロボットなどは、ごく最近の発明にすぎない。燃えエンタメのジャンルとしては、戦争のドンパチこそ最古の形式なのである。
 この妙なる面白さは危険を孕む、という指摘は正しい。馬鹿どもはしばしば妄想上の戦争の燃えを現実と勘違いするからだ。しかし、現実の戦争を怖れるあまり、これほど楽しい燃えエンタメのテーマを拒否してしまうのも惰弱にすぎる態度だろう。戦争という危険な表象をも、妄想のなかで縦横に弄んでこそのオタクではないか。

 もちろん縦横に弄ぶべきだ、ということは、なにをやってもいい、ということを意味しない。逆である。やっぱりヤバい題材であることには違いないのだから、戦争モノにおける妄想の自由を手に入れるためには、それなりの方法論が必要になる。
 ポイントは、「戦争は基本的に悪いもの」と思われているのをどうするか、ということだ。虚構の戦争に安んじて燃えるためには、この常識に対抗して、その戦争を意味あるものとして正当化しなければならない。
 オタク向きの戦争モノの多くは、それぞれがそれぞれなりの工夫をこらしている。最近の作品をいくつか眺めてみる。

 まずアニメから。『ゾイドジェネシス』は面白い。真面目に戦争をやっている。方法論はいちばん堅実だ。悪辣な支配者権力を蹴飛ばしてキャンと鳴かせる戦争にしているわけだ。こういう戦争ならば、視聴者みんなが支持するだろう。アニメにはやはりこういうわかりやすい路線が似合う。
 一方、リメイク版『ガイキング』は微妙だ。敵地に侵略して解放戦争をやってしまっている。これも悪辣な支配者権力をキャンと鳴かせる堅実路線の戦争…と言いたいところなのだが、駄目だ、こちらは失敗だ。
 何が悪いのか。時代が読めていない、と言わざるをえない。アメリカがイラクに侵略して解放戦争を演出しようとして、結局大失敗した直後に同じことをやられても、新聞とか読んでいる大きいお友達は引いてしまう。「ベタな正義」はベタだからといって不変なわけではない。時代によって移り変わるのだ。そのへんの機微に鈍感では困る。『ガイキング』には、そのへんの「わかってなさ」がつきまとう。70年代のリメイクだからこそ余計に「今」への気配りが要求されるはずなのだが。主人公やヒロインの造形や役割も旧式のステロタイプなジェンダー観そのままで、これまた現代人である私の目からすると、どうにも不自然に感じられる。倫理的に悪いと批判しているのではない。それは別の問題だ。古さに引っかかって素直に楽しめない、と言いたいのだ。好きな人も多いようだが、正直私は今ひとつ苦手だ。

 漫画と小説にいこう。こちらはお子さまの目をあまり気にしなくていいので、もう少し別のアプローチが可能だ。
 岩永亮太郎『パンプキン・シザーズ』は、場面を戦争ではなく戦後の混乱期に置いた。帰還兵モノの変り種といっていいかと思う。ベトナム戦争後にさんざん消費された形式であるが、上手い具合に再活用している。水戸黄門の印籠的な、待ってましたの零距離射撃のカタルシスがたまらない。
 佐藤大輔『皇国の守護者』、面白いなあ。これは戦争を正当化しようとはしていない。戦争を状況として前提したうえで、そのなかでいかに漢ぶりを見せるか、で勝負している。これまた基本中の基本の形式である。
 この形式の戦争モノは、泥にまみれて前線で戦っているうちがいちばん面白い。連戦連勝して階級がインフレしてくると、結局ただの立身出世物語になってしまうのよね。『皇国の守護者』も頑張って新城直衛のキャラクターを工夫して、「課長島耕作戦争版」に見えないようにしているわけだ。美女の愛人を二人両脇に侍らせて大軍を指揮するという、下らないにも程がある妄想(褒めている)を、どれだけシリアスな見かけで演出できるか、これからこそが勝負である。
 ちなみに「泥にまみれて前線で戦っているうちがいちばん面白い」としたときに私の念頭にあったのは、少し前の作品であるが、宮崎駿『泥まみれの虎』である。戦争大好き宮崎駿の危なさが全開だ。ジブリアニメで見せるPTA好みの善良さがすべて虚飾であることが丸見えである。

 ここまで来たら富野由悠季にも触れておこう。富野作品の基本的な雰囲気は、「戦争は悪いものなんだけど、もうすでに巻き込まれちゃっているから戦うのも仕方がない」である。つまりは、悲しいけどこれ、戦争なのよね、である。これで、「正義の戦争物語」にも「立身出世物語」にもならないようにしている。この雰囲気をどう実現しているかについては、「『ブレンパワード』からの富野由悠季小論」で私見を述べておいた。
 この「戦争は悪いものなんだけど、もうすでに巻き込まれちゃっているから戦うのも仕方がない」図式はけっこう難易度が高い。よくある失敗は、「戦争は悪いものなんだけど」部分や「戦うのも仕方がない」部分を強調しすぎて説教臭くなってしまうというものだ。これらの部分は、まずもってヴァイオレンスで楽しむためのアリバイ工作のためにあることを忘れてはならない。
 ところが、創作側にも批評側にも、戦争モノの娯楽作品を戦争論の教材かなにかと勘違いしている連中が少なくないようだ。社会派を気どりたいのかもしれないが、それは知的誠実さに欠ける態度でしかない。真面目に戦争論をやっている倫理学者や政治学者に失礼である。
 娯楽作品のやるべきことは、嘘の戦争をなるべく面白く描くことだ。現実の戦争を論じることはやるべきではないし、そもそもできはしない。

 ところで、オタク一般向け戦争モノは、世界観から創造するタイプが多い。その一方で、いわゆる軍事オタクは、おもに現実の軍制や兵器に向かうと思われる。この辺の対照には、戦争という複雑な現象の、どこにどのように面白さを見出すか、という観点の違いがあるのだろう。
 どうやら、一般的なオタクは、本来戦争にはあまり馴染まない類の面白さをも過剰に求めてしまうようだ。たとえば、個人的英雄の活躍や、劣勢からの大逆転のカタルシスなどが挙げられようか。このあたりは、現実の戦争を変形していく方向では、なかなか存分には味わい難い。そのために世界観からの創造に向かうのであろう。(註*)
 その極端なものとして、戦争モノにも萌えが欲しい、という贅沢な欲望を指摘できようか。ファンタジーやらSFやらのノリを持ち込んで、世界観からご都合主義に組み立てなければ、コトナさんやアリス少尉や天霧冴香の活躍する場所がつくりにくいのである。なんともオタクとは欲張りなものである。

 というわけで、工夫をこらしつつ、バンバン戦争モノをやってほしいものである。まだちょっと真価が見えてこない作品としては、福島聡『機動旅団八福神』あたりが挙げられようか。わりと戦争論の教材風レヴューをされがちであるが、私の見立てでは、そんな詰まらぬ読み方に収まる代物とは思えない。どこに向かっていくのか気になる。
 他にも注目すべき作品はあるかもしれないが、議論が拡散しすぎてしまうので、ここらでシメとしたい。本稿では、娯楽の観点に徹した日本製の作品のみを扱ったが、ハリウッドの戦争映画とかまで視野に入れるとまったく違う話をしなければならないだろう。オタク論からすると、「ネタの宝庫としての『フルメタル・ジャケット』」なんて論点も興味深いのであるが。

(註*) ここの論点は私の発想によるものではない。基本的な方向性は、Poisonousの毒舌隠者氏の議論から借りさせていただいた。たいへん重要な指摘をありがとうございました。

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