「萌え漫画」は本当に存在するのか

 2005年も終わりそうなので部屋に転がっている漫画のいくつかを読み直してみようと思う。ただし、ただ感想を書き連ねてもつまらないので、それでもって漫画における「萌え」概念の位置づけについて考えてみたい。
 ということで、2005年に単行本の最新刊が発売された作品のうち、「萌える漫画」として言及されたことがあるものを扱う。
 どうでもいいが、私は「萌え」概念をオタク的活動に有効な専門用語として鍛え上げることを試みていたわけだが、どうも現実に負けつつあるようだ。久米田康治が指摘するように、今、この概念は、知的誠実さに欠ける一般大衆の間で流通する浅薄な「流行語」になってしまった。なんかもう嫌なのだが、さすがに「惚れ」に全部置き換えるわけにもいかないので、これからも使っていくことにする。

 「萌え」概念は作品批評の道具としてはあまり使えない、というのが私の前々からの主張である。萌えは妄想の論理にそくして理解されるべきであり、作品を読み解くための手がかりにはなりえないのである。
 簡単に言えば、キャラクターに萌えるかどうかと作品が評価できるかどうかは基本的に独立である、ということだ。
 もちろん、作品が萌えを狙うことはできる。
 私は以前、萌えの論理として「エピソード至上主義」というものを提案した。「萌えの主観説」などを参照されたい。萌えるためにはエピソードだけを拾い読みすればよく、萌やすためにはエピソードだけを書き連ねればよい、というものである。とにかく個々のエピソードの魅力に力を注ぐことで、萌えを狙うことが可能になるわけだ。
 しかし、当たり前のことだが、萌えそうなエピソードを散漫に描き連ねただけで、漫画そのものが面白くなるはずもない。萌えだけで一つの作品の骨組みをつくるのには無理があるのだ。どうしてもお話の構造の強度が不足してしまう。
 すなわち、萌えだけに着目しても、作品の骨組みは見えてこない。その意味で、萌えるかどうかと作品が評価できるかどうかは独立なのだ。
 このあたりの仮説を検証してみたい。

 「エピソード至上主義」だけで出来ていて、かつ、評価されている漫画もあるのではないか、と思われるかもしれない。
 しかし、見かけはそうでも、実際はそうはなっていない。
 萌えエピソードをまったり繋いでいく手法の先駆としてしばしば名前が出るのが、あずまきよひこである。なるほど、たとえば『あずまんが大王』ならば、そんな感じがするかもしれない。
 ところが、『よつばと!』となると、「エピソード至上主義」を超える繋ぎの過剰において評価されていると言ったほうがよいのではないだろうか。他愛のないエピソードを描く際のなんともいえない間の使い方だとか、舞台となる街や自然の丁寧な描き込みだとか、エピソードがのっかる時間や空間描写の上手さでも、あずまきよひこは評価されているのである。そして、読み返してみれば、『あずまんが大王』からそうだったのだ。
 エピソード至上主義漫画においても、いや、エピソード至上主義漫画においてこそ、エピソードを配置する時間の流れや空間の広がりの描写について、かなりの漫画の上手さが要求されてくるのだ。やはり、たんにエピソードを垂れ流すだけでは、萌え狙い以前に漫画にならないのだ。
 このような観点から、ばらスィー『苺ましまろ』とか桜場コハル『みなみけ』とかを読んでみるのも面白いかもしれない。これらの作品は、オタク用の萌えキャラエピソード集ではなく、漫画として成立しえているのだろうか。検討することで、なにか見えてくるものがあるかもしれない。『苺ましまろ』などは、巻を重ねるごとに、珍妙なリズムや空気を醸しだして読み手の頬を緩ませるのが上手くなっている気がする。

 萌え狙いは、萌えなしでも成立する漫画に織り込むかたちで行われないと成功しない、と私は考えている。
 古き良きラブコメをベースにしているものを考えてみよう。
 もちろん今年最初に挙がるのは、畑健次郎『ハヤテのごとく!』であろう。やはり面白い。そして「古き良き」と書いた直後でなんだが、やはり新しい。
 この作品を読むと、ラブコメの文法の変化に気づかされる。
 近代少年漫画のラブコメは、男性主人公の煩悩が物語の軸になっていたような気がする。それゆえ、主人公は無能でなければならなかった。異性に好かれるような有能な主人公だと、物語がすぐに終わってしまうのである。こういうわけで、赤松健ですら、『ラブひな』までは煩悩に満ちた無能な男性主人公を中心にお話を描いていた。
 ところが、『ハヤテのごとく!』においては、男性主人公は煩悩をほとんどもたない。恋愛の論理で動くのは女性たちのほうなのである。
 これは、昔から存在した、男性主人公の「ニブさ」「鈍感さ」とは異なる。そもそもハヤテ君は恋愛の論理で行動していないのである。それゆえ彼は突き抜けて有能でありうるのだ。少女漫画ではなく少年漫画において、このような男性主人公が登場したことは興味深い。
 これまで、しばしば「ラブコメは、描かれる恋愛に感情移入させるために、凡庸な男性主人公を中心に据えるべきだ」という主張がなされてきた。もはやこれは通用しないのである。
 さらに言えば、渡辺航『制服ぬいだら♪』は、少年漫画のラブコメでありながらも女性が主人公なのだから、更に徹底しているといえばしているが、ここでは扱わないでおこう。
 先の事態を支えているのが、萌え狙いの論理であることは確かである。
 恋愛ドラマに感情移入させることよりも、キャラを、とりわけ女性キャラを魅力的に描くことが優先される。その結果、感情移入しやすい凡庸な男の子よりも、魅力的な萌えエピソードを導きうるほどには有能な男の子が求められた、というのは分析としてそこそこの説得力をもつ。
 しかし、注意しなければならないのは、ここで短絡的に、ああキャラ萌え中心だポストモダンだ、とよく考えもしないで喚くべきではない、ということだ。
 先ほど強調したように、萌え狙いだけでは漫画は漫画として成立しない。『ハヤテのごとく!』にしろ『制服ぬいだら♪』にしろ、ラブコメのコメディ部分については、かなり保守的である。現代的なエッジを効かせつつも、基本的には古典的なラブコメのラインを押さえた路線を堅実に狙っているのである。一見乱雑に思えるほど狙ったキャラを出しておきながら混乱しないのは、この骨組みの堅さが作品を支えているからだ、ということを見落としてはならないだろう。
 井上和郎『あいこら』にも少し触れておこう。これの主人公も煩悩主人公に見えてそうではない。彼はパーツフェチであって、通常の恋愛の論理には微妙に乗っていない。ここがあるので、古典的なラブコメの論理に基本的には乗りつつも、ところどころで好き放題な展開に走ってアクセントをつける、ということがやりやすい仕組みになっている。ベタ路線を技巧的に改変しているわけで、なかなかに高度な狙いである。
 ちなみに、私が注目しているのは、脚の魅力をどのように描きうるのか、というところである。大根脚の美学と言えば、すぐに桑田乃梨子が思い浮かぶわけだが、その域にまで至れるかどうか。

 ギャグ漫画をベースにして、萌え狙いを織り込む方向性もあってる。
 連載が終わってしまって残念だが、やぎさわ景一『ロボこみ』には結構楽しませてもらった。かなり露骨な萌え狙いを見せつつも、一貫してきちんとギャグ漫画であり続けたことに、気骨を感じたのだが、どうだろう。
 氏家卜全『女子大生家庭教師濱中アイ』にはオゲレツの効用というものに気づかされた。エロ萌え狙いの駄作は多い。しかし、たんにきわどい描写を垂れ流すだけでは、AVと変わらない。それでは面白くない。だが、この作品は、エロ萌えをオゲレツにずらすことで、きちんとギャグ漫画を成立させている。それゆえ、なかなかに楽しく読めました。本当に下らないけど好きなんだよなあ。
 あと、あさりよしとお『るくるく』は、ベテランがなにを狙って見かけだけでもこの路線を採ったのかわからないところを含め、なんとも黒い。警戒しながらでしか読めない。

 あとはいくつか思いつくままに作品を挙げつつ、萌えを抜いたその骨格を見ていきたい。
 椎名高志『絶対可憐チルドレン』は、王道の少年漫画、それもサンデーの少年漫画で、非常に楽しい。やっぱりこの人漫画上手いや。でもこれ今現在の若い読者には受けているのだろうか。少なくとも昭和生まれ向けだ。
 Peach-Pit『ローゼンメイデン』、意外に真面目な「引きこもり少年の成長物語」のようだ。そうでなければ桜田ジュンのあの設定は『ラブやん』的ギャグ漫画になってしまう。少々重めな彼の抱えた問題をどこまで描ききれるか、楽しみである。(追記、描ききれませんでした。)
 私屋カヲル『こどものじかん』も、やるべきところはきちんと「新米教師の教育奮闘記」をやっているので、ダレずに読めるのである。
 相田裕『Gunslinger Girl』は、重い題材を扱いながら、未だにそれを一つの説得力ある物語に纏めあげられていない。萌えキャラ萌えエピソードを描くのは上手いので、そのコントラストで物語の散漫さがよけい気になる。読者が共感できるテーマを最初から軸として一本通していれば、どうにでもなったと思うのだが。
 ちなみに、この作品にたいして、題材が不道徳的だとか悪趣味だとか怒る人を見かけるが、これはちょっとポイントを外している。たんに素材を料理するのが上手くないだけである。そもそも、PTA風の苦情は批評の要件を満たしていない。物語の力が弱いので、不道徳的かつ悪趣味な話にしか見えない、という主張であれば、私も同意するのだが。
 一方、題材やテーマの重さだけに目を取られて高評価を与えるのも愚かな態度だ。どんな大きな問題でも、挑戦するだけなら誰でもできる。私だって四色問題に挑戦できる。一歩も前進できないが。どう扱うか、どこまで内実に踏み込めるかが勝負なのだ。ネットの感想などで、『Gunslinger Girl』にかぎらず、過激な題材を扱って失敗した作品を「これで問題提起をしているんだ」と擁護する言説をしばしば目にするが、そんな屁理屈は通らない。まあ、漫画評論家レベルでも『Gunslinger Girl』の批評性の高さだかなんだかを云々していたりするので、困ってしまうのだが。

 以上、よく「萌える漫画」として挙げられた漫画を、萌え要素を抜いたところで読むことを試みた。まだ言及すべき作品は多いのだが、収拾がつかなくなるので、このあたりで止めておく。それなりに漫画を読みつけている人たちにそれなりに評価されているような作品は、キャラクターにたいする萌え以外にもなんらかの漫画としての骨格をもっている、ということは、なんとなく示せたのではないだろうか。
 ところで、その骨格は、読み手に萌えを喚起させるための手段でしかないのかもしれない。そういった場合に、骨格だけを取り出して文学性だの芸術性だのを云々することは的外れであろう。頓珍漢な批評ごっこにしかならない。私はそのようなお遊戯に組するものではない。私の主張は、たとえ手段であるとしても、その骨格があるからこそ萌え描写が生きるのであり、骨格なしには萌えは成立しない、というものである。ここは強調しておきたい。
 私はあまり漫画批評には興味がない。しかし、「萌え」概念の扱いの混乱は少し気になっていた。いまだに、毛嫌いする人、過大評価しすぎておかしな理論を立ててしまう人、どちらも少なくないようだ。 私としては、以上のような具合に整理すれば問題は起こらないのでは、と思うのであるが。
 まとめよう。よい「萌え漫画」はたしかに存在する。しかし、よい「萌えだけ漫画」は存在しえない。これが結論である。

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