南條範夫『駿河城御前試合』の愉しみ

 南條範夫『駿河城御前試合』が徳間文庫から復刊である。
 ご存知、山口貴由『シグルイ』の原作。漫画版もいいかげんイカれているが、こちらも負けず劣らず死狂っている。
 いい機会なので、時代小説の愉しみの肝について、「オタク的視点から読む山田風太郎と隆慶一郎」で述べたことをまとめなおしておきたい。

 我々の「燃え」においては、多くの場合、人類の平和と正義のために戦うヒーローが縦横無尽に飛び交っている。
 ここに慣れた目からすると、時代小説の世界観、とりわけ倫理観は、かなり窮屈なものに思えてしまう。
 主君には忠義を尽くせ、とか、お国やお家の存続こそが大事だ、とか言われても、いまひとつピンとこない。普段制約のない馬鹿燃えに浸っているオタクであるがゆえに、このへんに引っかかってチャンバラ活劇を素直に愉しめなくなってしまうのだ。もちろん、テレビ時代劇の『水戸黄門』くらい突き抜けて能天気に権力を肯定できれば、それはそれで楽しめるのだが、残念なことに、時代小説はそういう調子の作品ばかりではない。

 私の解釈では、基本的にオタクは歴史モノとファンタジーを同じ論理で読む。オタクにとっては、どちらも現実の現代を舞台にしては不可能な「オモシロ」を描くために特殊な世界観に訴えるジャンルである。つまり、時代小説に描かれている「歴史」が正しいかどうかなどにオタクは関心をもたない。『水戸黄門』や和月伸宏『るろうに剣心』のような、考証デタラメのマカロニ時代劇でまったく構わないのだ。『キャッ党忍伝てやんでえ』でいいのだ。
 ところが、時代小説というのはけっこう生真面目で、何人斬っても刃毀れしないとかいったお約束以外のトンデモをいやに嫌う。トンデモを描きたいならば、正史を壊さぬよう裏歴史を構築しろ、などと要求してくる。私などには、そのあたりの秀才っぷりが少々喰い足りなく思えてしまうわけだ。

 こう考えてみると、「オタク的視点から読む山田風太郎と隆慶一郎」で挙げた二人のビッグネーム、山田風太郎と隆慶一郎が、どうして我々にとって読みやすい作家なのかがあらためて理解できる。
 山田風太朗は、封建制世界観の外部に存する「忍者」の一本通った生き様を描く。隆慶一郎も、封建制世界観の外部の者たち、たとえば「傾奇者」の一本通った生き様を描く。とくに『死ぬことと見つけたり』における隆慶一郎の『葉隠』の読み替えなどは面白い。不条理な拘束の塊のような『葉隠』を、究極の自由への通路へと読み替えている。
 そのため、どちらも窮屈な時代の倫理観や社会制度への違和感に引っかからずに、ド直球の燃え活劇として読めるわけだ。

 さて、オタクでも素直に読める時代小説のタイプとして、別のものがある。
 それは、「剣鬼」ものである。
 仁義も礼も智も信も、忠孝悌もすべて捨てた。ただ求めるは、剣の道のみ。いや、いかに人を斬るか、ただこれのみ。
 この方向を突き詰めたイカレポンチなチャンバラものはたいへんに楽しい。もはや時代の倫理観の描写の精確さなどは問題にならない。さらには、我々のよく知る正義や勇気や愛といった価値すらも問題にならない。目的は一つ。ひとたび斬ろうと決意したヒトやらモノやらを斬ることができるか。ここにすべてが収斂する。単純明快であり、引っかかるところなど、どこにもない。
 こういうタイプの作品においては、主人公はもはやキャラではなく剣技そのものになっていく。キャラの立ちなど不要。劇中の剣技が立っていれば面白い。あとはただただヴァイオレンスに特化することになる。
 津本陽の多くの短編などはもっと酷い。あの域にまで至ると、小説の見掛けをした剣術オタクのエッセイでしかない。物語もキャラもクソもない。

 さて、南條範夫『駿河城御前試合』である。
 この作品がとんでもなく面白いのは、ゴリゴリの剣鬼ものに「女性」(ここはやはり「にょしょう」と読んでいただきたい)への煩悩をブチ込んで劇薬へと化学変化させているからだ。煩悩のおかげで、剣技だけでなくキャラのほうも立ってくる仕掛けになっている。
 剣鬼もののギリギリまで研ぎ澄まされた暴力性は、それだけで破滅の淵にある。南條範夫はそこに剣鬼であっても断ち難い女性への執着を絡ませる。その結果、登場人物は否応なしに、ことごとく破滅へと転落していくことになる。
 逆から読めばこうなる。破滅へ至る混沌のなか、揺らがずに貫かれるものがただ二つのみある。すなわち、研ぎ澄まされた超絶の剣技と恋焦がれた女性への渇望。ヴァイオレンスとエロス。
 駿河城主徳川忠長を象徴に頂いて、ヴァイオレンスとエロスに骨の髄まで囚われた狂気の殺戮劇がただただ展開されるのだ。
 もうね、時代の倫理観への違和感とかなんとか、小賢しい理屈はもはやまったく必要ない。ヴァイオレンスとエロスは人類普遍の原理だからだ。
 かてて加えて、十一番の勝負すべてが倫理無用の嘘と裏切りに満ちている。というよりも、ヴァイオレンスとエロスを縦軸とする『駿河城御前試合』の横軸が、まさに嘘と裏切りなのだ。
 どの勝負においても、必ず誰かが誰かに嘘をつき、誰かが誰かを裏切る。その一方、誠実さは生き残る力を与えはしない。嘘と裏切りの毒に当てられて、皆ことごとく犬のように破滅する。ここに倫理なぞはじめから存在する余地がない。
 我々はただただヴァイオレンスとエロスと嘘と裏切りとが織り成す残酷に酔いしれるだけでいい。
 いやはや、こんなに楽しいものはない。

 一方、山口貴由『シグルイ』であるが、実は原作と雰囲気がかなり異なる。
 イカれ漫画と評される『シグルイ』であるが、イカれ度合いは『駿河城御前試合』のほうが数段上なのだ。
 これまで述べてきたように、原作『駿河城御前試合』を貫く論理は、ヴァイオレンスとエロス、嘘と裏切りのみである。南條版においては、残酷こそが主人公。登場人物はすべて駒にすぎない。
 一方、『シグルイ』にはきちんと青春ドラマの要素が盛り込まれている。ちゃんと人間が主人公になっている、と言ってもいい。ここに山口貴由の工夫を見て取らねばならない。徹底したハードボイルドの原作版を、メロドラマの漫画版へと料理している、ということになろうか。
 二つを読み比べ、このあたりのアレンジのあり方を考えるのも愉しいものである。『シグルイ』好きは『駿河城御前試合』も読め、と言っておこう。

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