オタク的視点から読む山田風太郎と隆慶一郎

はじめに

 ライトノベルというジャンルが定着したが、本来オタクとはジャンルに依存しない存在である、と私は考えている。オタクが読むのはラノベ、としてしまうのは、他の面白い小説への目配りを妨げかねない。
 ということで、本稿では時代小説についてちょっとだけ触れてみたい。
 山田風太郎と隆慶一郎という二人の大作家を、オタク的な視点から読んでみることにする。
 つまりは、燃えるかもしくは萌えるかで勝負、ということだ。
 もちろん既にいろいろと論じられている彼らであるが、わりとブンガク的でお上品な解説が多い。極めて馬鹿馬鹿しい角度からのみ語ることも意義なしとは言えないのではないか、というわけだ。
 ちなみに私は二人の小説を全部読んだわけではない。所詮、半可通のヨタ話なんで、おかしな点はご容赦を。

なぜこの二人か

 山田風太郎と隆慶一郎、両者とも作品が漫画化されている。
 山田風太郎の漫画化はいくつかあるが、ここは『甲賀忍法帖』の漫画化、せがわまさき『バジリスク』を挙げておこう。また、隆慶一郎の漫画化としては、『一夢庵風流記』の漫画化、原哲夫『花の慶次』がある。
 漫画化されるのは、彼らの作品が、狭い時代小説という領域のなかでの面白さにとどまらない魅力を備えているからであろう。
 そもそも時代小説一般には、以下のようなイメージがあると思われる。というか、私には、ある。
 第一に、燃えない。そもそも価値観が合わない。封建時代の古臭い道徳意識のなかで動く連中に感情移入できない。さらに、話のスケールが小さい。東洋の島国の一角でのセコい事件に一喜一憂している様を見てもつまらない。第二に、萌えない。女性キャラのセンスが端的にオヤジ臭くて読めたもんじゃない。
 もちろん以上はイメージにすぎない。よい作品については、これは当てはまらない。
 そして、このような一般的イメージを非常に高いレベルで裏切っているからこそ、山田風太郎や隆慶一郎はオタク的にも面白いのだ。
 そのへんをもう少し具体的に語ってみよう。

山田風太郎の連作可能性の欠如

 山田風太郎の燃えは、しばしばジャンプ的バトルの元祖として語られる。とんでもない能力をもった戦士たちが死闘を繰り広げ潰し合っていく。この図式を創ったのは誰あろう山田風太郎である。
 こうなると、山田風太郎は素直に我々を燃やしてくれるように思える。しかし、それは早計である。
 私は、オタクの燃えの観点から山田風太郎を読むことは、実はちょっと難しいのではないか、と考えている。
 ここで私が「オタク道」における「3 オタク的物語とは何か」で提唱した、連作可能性という概念を思い出していただきたい。
 オタクが燃えるためには、キャラについて妄想ができなければならない。そして、妄想するためには「あるオリジナルの物語があったとして、それについて同一キャラクターが登場する続編ないしは外伝をつくる可能性が開かれていなければならない」、これが連作可能性ということであった。これがなければ、我々はオタクとして燃えることができない。
 山田風太郎作品は、この連作可能性がかなり低い。
 忍法帖などを並べて読んでみるとわかるが、山田風太郎作品にはハッピーエンドはない。とにかく戦士は死ぬ。戦って、死ぬ。燃えキャラを生かしておかないのだ。多くの作品の読後感は、「燃えたゼ」というものではなく、「みんな死んで静かになったなあ」という、なんともいえない虚無感と寂寥感と一抹の清涼感なのである。ここで妄想して燃えるのは結構難しい。これが悪いってわけではない。山田風太郎の非情さは、オタク的な燃えとは違うベクトルを向いている、ということだ。
 山田風太郎、キャラ中心に燃える話を転がすことよりも、非情の世界の描出のほうを優先させているのである。エログロバカ超絶バトルの面白さに目を奪われて、ここを見失ってはいけない。登場人物たちは、非情な風太郎世界にきっちり組み込まれて、そこから出ることはできない。キャラについての自由な妄想の可能性、連作可能性が閉ざされているのである。
 作品の部分部分は、我々の燃えの論理の原型となったものである。しかし、作品の全体像は、必ずしも燃えの観点からの素直な読みを許すものではない。実はそれこそが山田風太郎の魅力だ、と私などは思うのだ。
 例外があるとすれば、『魔界転生』である。ここでは、柳生十兵衛がヒーロー役として前面に出ている。素直に燃えやすいのだ。だから、せがわまさき以前は、『魔界転生』ばかり映画化されたり漫画化されたりしていたのではないか。

隆慶一郎の萌えキャラ創作のセンス

 山田風太郎との対比でいえば、隆慶一郎のほうがはるかにオタク的な燃えからの読みがしやすいと思われる。
 隆慶一郎は燃えるヒーローを立てる。そして、ヒーローのとにかく自由闊達な生き様を描く。キャラ中心に話を転がしていくわけだ。だから、オタク的な妄想によく馴染むのである。素直に読んで、燃えることができる。漢の友情には泣かされるぞ。莫逆の友のためには莞爾として死ぬぞ。バトル描写も極上だ。時代小説はチャンバラと短絡しがちだが、『見知らぬ海へ』の海戦シーンなんて圧巻だ。残念ながら未完だが。
 ただまあ、燃えについては、これくらいにしておこう。実際に読んでもらえばわかることだ。
 萌えについて語ってみたい。
 山田風太郎の萌えは実は微妙だ。あんまり女性キャラを立てて描くことをしない。お姫様がよく出るが、男たちがそのために死ぬ理由としての役割に徹していて、個性はあまりない。戦う女性キャラがいっぱい出てきても、特殊能力でしか区別がつかなかったりする。女性キャラの立ちは、実は『ロミオとジュリエット』をパクったロマンティックな『甲賀忍法帖』が随一であって、それに目をつけて萌えキャラを練り上げたのが、せがわまさきなのである。
 その一方、隆慶一郎は萌え萌えだ。フランス文学科の出だからだろうか。現代的な萌えセンスが光っている。
 たとえば『吉原御免状』のおしゃぶは超能力ロリータ。『鬼麿斬人剣』のおりんは典型的ツンデレである。『死ぬことと見つけたり』の斎藤静香も素晴らしい。正統派戦闘美少女だ。それほど多くはないが、アクセントとして組み込まれている萌えがなかなかに良質なのだ。このあたりも隆慶一郎の読みどころである。
 ところで、ダメなオタク評論家は、戦闘美少女の萌えをオタクに固有のものと思い込んでいたりする。まったく浅薄だ。これは隆慶一郎にも共通する普遍的な萌えポイントである。思いつきでものを言ってもらっては困る。

おわりに

 山田風太郎と隆慶一郎について、時代小説門外漢の一オタクの立場から論じてみた。
 最後に有名どころを外してオレ的この一作を挙げておこう。
 山田風太郎では『忍法剣士伝』か。あれは実在の剣豪を妄想の対象にしたオタク的二次小説として読めて面白い。ただし、それだけに、日本剣術について一定の予備知識がないと楽しめないかもしれない。
 隆慶一郎であるが、『柳生非情剣』とりわけ「跛行の剣」が好きでねえ。別に寝取られが好みというわけではない。剣は生涯かけて磨いて磨いて磨いて磨いていくのがロマンだと思うのだ。漫画やアニメやラノベだと、どうしても若者が主人公になっちゃうからね。風雪を経た絶技の燃えってのがたまに欲しくなると、これを読んだりするのである。

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