妄想の系譜

0 はじめに

 オタクという存在についての基本的見解を「オタク道」で述べておいた。
 その際、私の主張の核となっていた道具立てが、「妄想」であった。
 当然のことながら、この「妄想」という発想は、私が真空中から創り出したものではない。多くの先達の業績をもとに定式化したものである。
 というわけで、本稿では、「妄想」という発想の由来を確認してみたい。
 まあ、本格的に妄想論をやるならグリーンゲイブルスのアン・シャーリーとかも射程に入れて嘘歴史をデッチあげたいのだが、そこまで気力がない。私のグダグダの個人的なルーツを思いつくままに示すだけで勘弁していただきたい。

1 私的三大オタク論

 オタクを論じたテキストは巷に溢れている。しかし、つまらないもの、的を外したものが多い。そんなものをいくら読んでみてもダメだ。私がオタクを考えるにあたり、多大な影響を受けたのは、以下の三つの漫画である。本物の思想とはこういうものを指して言うのである。

 徳光康之『濃爆おたく先生』。
 小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』。

 この二作品は、私の妄想論の直系の先行者である。妄想行為を核に置いてオタクを定式化する、という明確な立場が両者から読み取れる。私の仕事は、両氏が漫画で表現した思想を理論的に整理定式化した、ということに過ぎないのかもしれない。

 平野耕太『進め!!聖学電脳研究部』。

 妄想論というよりはオタク論の文脈においてであるが、これも私にとって重要な作品である。ヌルさにたいする厳格さ、自己の視点を確立することの重要性、そして「本当の糞人間」であることの不安と恍惚。これらの論点は、寺門部長に改めて教えていただいた。
 オタクを論じるための必読文献を問われたら、私は迷わずこれら三作の漫画を挙げる。しょーもないヒョーロンカどもの主張などは一切顧慮する必要なし、と思うね。

2 岡田斗司夫の読み替え

 ここで、ちょっと別の角度から妄想論の位置づけをしておきたい。「妄想」を中心にオタクを定式化する、という私の発想は、岡田斗司夫のオタク論と明確に方向性を異にする。
 しかし、まったく折り合わないのか、というと、そうでもない。たとえば岡田は以下のようなことを述べている。

 「これ書いちゃっていいのかと悩んだけれど、やはり書いてしまおう。例の9・11テロについてもニュースや世間と、僕の周りの話はまるで食い違う。「ゆるせない」「悲しい」とニュースが報じられる中、映像オタクたちは「もっとクリアな衝突画像はないのか」「別アングルは」などと大騒ぎだった。もちろん被害者や遺族・関係者は気の毒だと思うし、痛ましく思う気持ちもある。個人としてのオタクたちは立小便ひとつできない善良な小市民ばかりだ。しかし、こと話が「映像」になるとね、こうなっちゃうのはしかたないんだよ。ぶっちゃけた話、9・11テロに関して「悲しくて許せない」しか語らない映像作家がいたら、僕はそういつを人間としては尊敬するけどクリエイターとしては二流以下だと思う。」(『オタクの迷い道』48についてのテキストコメンタリー。)

 ここには「オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートする」という「妄想」の前段階ともいうべきオタクの営みがみてとれる。
 岡田的な「オタク」も、9・11テロという「物語」の一場面を、「許せない」とか「悲しい」とかいった当たり前のコンテクストで見ることをしないわけだ。さらに言えば、政治や宗教や経済といったコンテクストで見ることもしないだろう。衝突の情景を、「映像としてのカッコよさ」という、勝手にもちこんだ自分なりのコンテクストで見ているのである。
 この「正統的なコンテクストの無視」という契機は、私の定式化する「妄想」の本質的な特徴をなしている。
 もっともわかりやすいのが「萌え」であろう。どんなストーリーが展開されていても、それをまったく無視してキャラだけに着目し「萌えー」と言うわけだ。「正統的なコンテクストの無視」の典型である。
 「萌え」は、表面的には9・11の衝突シーンを楽しむ営みと無関係なように見える。しかし、「妄想」という観点から構造を考えるならば、同型性が成立しているとも言えるのである。
 岡田は「萌え」がわからない、わからない、とそこここで述べている。しかし、岡田自身のテキストのなかに、すでに「萌え」を理解する手がかりは含まれているのである。

3 野田昌宏のアンデルセン批判

 私の「燃え」論にも、先行者がいる。誰あろう、野田昌宏大元帥である。これはもう、彼の言葉をそのまま読んでいただくのが一番であろう。

 「のっけから変なことを書くけれども、私は子供の頃からアンデルセン童話というやつが大嫌いだった。いらだたしくて我慢ならないのだ。これは今でもそうだ。
 雪の中で飢えに泣きながら悲しい声をはりあげてマッチを売っている少女がいるのなら、街角でそっとその痛ましい姿を見守る乞食諜報員が居て、その通報一下、おいしい食べものと暖かな服を満載したロケット艇を操縦して、通称サンタクロースと呼ばれる正義の殺し屋が女中をやといになぜすッ飛んでこないのか?
 人魚のお姫様が王子様(だっけか?船乗りだったか?)に惚れたのなら、あんな悲しい筋道を追って人魚姫が海の泡になってしまう前に、なんでそのイロ男をひっ捉え、「やイ!人魚のお姫様はてめェを愛してるんだ。四の五の言わず、今すぐ彼女を愛さなけりゃ、生かしちゃおかねェ!さァ、今すぐ愛せ!」とたんかを切る海賊が現れてもいいではないか。
 (中略)
 この思いは、としを取るに従ってますます強くなってきた。現実の世の中がこんなに悲しく、みじめさに充ちているというのに、そのうえわざわざ本を読んでまで涙を流そうとする人は、よほど現実の人生が幸せな人なのだろうか……。(以下略)」 (『銀河乞食軍団』第一巻、「著者の御挨拶」より抜粋。ただし強調の傍点は省略した。)

 これは、私の定式化した「燃え妄想」に基づいたアンデルセン批判ということになろうか。
 まだたぶん十代だった私がこの一文を読んでどれだけ感動したか。常々ぼんやりと考えていたことを、熱く明快に語ってくれたのだ。以来、自信をもって、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」が不幸になるお話には「否」を突きつけている。愛や正義や友情が勝利しない話になど、これッぽっちも興味はない。このあたりが私の「燃え」論のルーツとなろうか。

4 おわりに

 最後に私にとって最も重要な作品を挙げておこう。ああなつかしい、桂正和『ウイングマン』である。
 『ウイングマン』の構造は興味深い。『ウイングマン』という作品そのものが「作者桂正和にとっての理想のヒーローの提示」という、いわば妄想の産物である。そして、物語内のウイングマンというヒーローがまた「主人公広野ケン太にとっての理想のヒーローの現実化」という、妄想の産物である。
 妄想が二重の入れ子になっているわけだ。まさに妄想漫画である。
 この作品で、私ははじめて「ヒーローについて妄想している奴がこの世の中にオレの他にもいる」ということに気づいた。「オタク」なんて言葉を知るずっと前だ。
 私の出発点はここのような気がする。すべて『ウイングマン』のせい…というか、『ウイングマン』のおかげである。

 以上、ネタばらしであった。

追記

 完全に失念していた。長谷川裕一の『すごい科学で守ります!』と『もっとすごい科学で守ります!』について触れていなかった。
 あれは素晴らしい。
 不愉快さのあまり吐き気をもよおすような下劣きわまりない自称考証本が巷でもてはやされていたちょっと前。泥の中に咲く一輪の蓮の花のごとく出現したこの名作に私がどれだけ勇気づけられたか。
 「妄想」というものが、ここまで人を楽しませ感動させることができるのか、と心の底からシビれた。
 私にとっては、あれが「妄想」の理想型だね。

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