『あずまんが大王』第二巻一五九頁「わかりません」についての一考察

 漫画原作つきアニメというものをあまり観ない。たぶん私がアニメより漫画好きなのだろう。お気に入りの作品であれば、たいてい、原作のほうが面白かった、となってしまうのだ。逆に原作の段階で嫌いなものは、どう料理しても喰えないので、これもパスとなる。
 そんな私が久々に通覧した原作つきアニメが、あずまんが大王である。その意味で、私はこのアニメ版に一定の評価を与えたい、いや、与えたかった、しかし。
 アニメ版あずまんが大王には、少なくとも一つ、決定的に許容しえない瑕疵がある。それゆえ、私はこのアニメ版を否定せざるをえない。

 毎年夏休みにちよすけの別荘へ行くエピソードがある。この二年目に、日本酒を飲みすぎたにゃもが「えろえろよー」な状態になった。エロトークを開陳するにゃも。ちよすけにはもちろん何が何だかわからない。大阪と智は興味津々。
 さて、問題は、ここでエロトークに少々引いてしまったのは誰なのか、という点である原作では、神楽である。しかし、アニメ版では、これが榊に改変されているのだ。
 私はこの入れ替えはやるべきではない、やってはならないことだ、と考える。

 もちろん、漫画をアニメ化するにあたり、一定の改変がなされることは仕方がない、いや、必須である。
 しかし、改変には何か意味があるべきだ。無意味な改変をするならば、原作つきの意味がなかろう。逆に、意味さえあれば、大幅な改変も理解できる。つまり、改変が、原作の面白さの本質についての一つの解釈として明確に一貫性をもっているならば、少なくとも理解はできるのである。
 これは、原作つきモノ制作のもっとも基本的なマナーであろう。

 ところが、上述のあずまんが大王における入れ替えには、このような解釈の契機がまったく感じられない。まったく何の理由もなく、ただ入れ替わっているだけ。これは、やってはならないことである。原作つきを制作するマナーに違反しているのだ。

 このような一エピソードにどうしてそれほどこだわらねばならないのか、と疑問をもつ方もあろう。一つの四コマ漫画のネタとしては、神楽でも榊でもあまり変わらないように思えるかもしれない。
 しかし、拙論「オタク道」とくに「妄想とは何か」でも論じたように、エピソードをキャラの規定と読み替えることによって、オタク的な読解は成立する。すなわち、エピソードを入れ替ることにより、キャラの規定は変わってしまう。そして、アニメ版の改変は、原作版のキャラの魅力のツボを毀損しているのである。

 神楽から解釈しよう。あずまんが大王にエロネタは少ない。前半には散見されるが、後半にはほぼ皆無となる。その少ないエロネタを拾っていけば明白なのだが、エロが苦手なのは神楽であって榊ではない。
 胸のデカさネタが前半にいくつかある。デカいのは榊と神楽であるが、その状況と反応が異なることに注意すべきである。第一巻20頁「爆走100m」および第二巻38頁f.「素直な感想」「どーん」「比率」を参照されたい。榊の場合、アホな智や大阪への対応に困っているわけだ。これはごく普通の反応である。しかし、神楽の場合は事情が異なる。第二巻「大阪の半日」101頁および117頁「スケベ」を見よ。明らかに智にからかわれているのだ。エロネタに過剰反応する神楽、それを面白がる智、という構図がこの段階で既に読み取れるのである。繰り返そう。エロが苦手なのは神楽であって榊ではない。智はそれを判っていて神楽をイジっているのだ。
 「えろえろよー」エピソードは、これと呼応しつつ、「バカでガサツであるにもかかわらずエロネタにからっきし駄目な神楽」という一貫した解釈を支持するものである。神楽というキャラの解釈にとって、非常に重要なエピソードなのだ。

 榊についても適切な解釈が要求される。にゃものエロネタに榊は引いてはいけないのである。
 榊の場合、「ルックスと口下手ゆえに恐そうに見えて実は違う」わけだが、問題は、「実は違う」の内実である。ここに「動物好きで温厚」が入るのは当然として、では、「エロが苦手」は入るのだろうか。
 私は入ってはならない、と考える。
 これには決定的な根拠がないので雰囲気だけに頼った論証になってしまうのだが、原作を読むかぎり、榊は「本当は普通の女の子」なのであって、「本当は普通より純情な女の子」ではない。動物大好き、という一点を除いて、榊はごく普通の女の子なのである。
 榊は、「ルックスと中身が正反対キャラ」ではなく、「ルックスはともかく中身は普通キャラ」なのだ。「正反対」というキャラ造形はあまりにお約束で狙いすぎであり、あずまきよひこのマターリとした芸風にそぐわない。
 こう考えると、「えろえろよー」エピソードの適切な解釈は以下のようになる。大阪と智にはかたずを飲んで聞き入っている描写がある。神楽には引いている描写がある。この構図からすると、ちよちゃんを除いたメンバーのうち、引いていたのは神楽だけ、と解釈すべきであろう。
 つまり、榊は大阪や智と同じように、一生懸命にゃものエロ話を聞いているのだ。榊はそれくらい普通の女の子なのである。そのほうが魅力的ではないか。
 榊に、無駄な純情さを属性づけるべきではない。それはステロタイプなキャラ造形に汚染された、浅薄で不正確な解釈であると私は考える。

 このように、あずまんが大王アニメ版は、少なくとも一点において、マナー違反を犯し、その結果、キャラの規定に無用の混乱を持ち込んでしまったのである。

 以上、アニメ版を批判してきた。
 これはもちろん、つまらない、という批判ではない。アニメ版は一定の水準に達している。近年の糞アニメ群と比較すれば、快作と言ってもいいくらいだ。では、その糞アニメどもを批判すべきではないか、と思われるかもしれない。しかし、私の方針は、糞は叩くな、無視しろ、というものなので、ご容赦願いたい。
 細部を疎かにするとオタクが怒る、という実例であった。

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