続編寝取られ問題にみるオタクの世代

 本稿の目的は、ギャルゲーおよびエロゲーの続編制作に伴う問題を考察することにより、オタクの世代論を展開することにある。
 ただし、本稿の議論は、「エロゲーは本当にオタク文化なのか」を受けて展開されているので、まずはそちらを参照してから読んでいただきたい。

 萌えの論理と抜きの論理を区別した。その二つが先鋭に対立する場面がある。続編をつくる場合だ。
 エロゲーが萌えと抜きのハイブリッドとしてあるとしよう。では、エロゲーの続編はどちらの論理で制作されるべきなのだろうか。また、ギャルゲーにかんしては、どうか。

 萌えの論理に従って続編をつくると、第一作目での人気キャラが再登場することになるだろう。これは当たり前だ。漫画であれアニメであれ、普通の続編というものは、同じキャラが出てくる違う話なのだから。メディアミックス展開やファンディスクなどが、この路線での続編の典型例である。

 一方、抜きの論理に従って続編をつくるとしよう。このとき、続編は、同じシチュエーションのエロがある作品、ということになる。シリーズもののAVを考えてもらえばわかる。同じテーマで、違うキャラ(女優)。これが、抜きの論理の続編のつくり方である。同じようなエロでもう一回楽しく抜きたい、というわけだ。これは、いわゆる同メーカー同テーマの第二弾第三弾、ということになる。柳の下の二匹目のドジョウを狙うものだ。

 さて、問題は、この両方の論理に同時に従って続編をつくると、ほとんどの場合、いわゆる「寝取られエロ」になってしまう、という点に存する。
 第一作目の人気キャラが再登場する。しかし、多くの場合、第一作目のエンディングをそのまま引き継ぐと、同じシチュエーションのエロがつくれなくなってしまう。こうなるとエンディングをリセットし、もう一度エロを描くほかない。第一作目に思い入れのある人間からすれば、これは端的に寝取られに他ならないだろう。結果、せっかく続編をつくったのに、第一作目の支持者には不評、という事態が生まれるわけだ。これ全て萌えの論理と抜きの論理の相克によるものである。
 具体例としては、古典的ではあるが「『同級生』と『同級生2』における田中美沙」を想起していただきたい。(最近のエロゲー事情にはいまひとつ疎いので他の例があまり思いつかない。『妻みぐい』と『妻みぐい2』における蓮間香苗などか。2が出た直後に文句を言っていた連中がいたのを記憶している。)キャラ萌えにのっかって続編に登場させたはいいが、寝取られかよ、と、当のキャラ萌えを支えてきた、まさにその層に拒否されてしまうわけだ。続編のつくり方に一貫性を欠いたが故のことである。

 さて、面白いのは、実はこのタイプの最大の失敗例は、エロゲーではなく、ギャルゲーにおいて存在している、ということだ。
 もうお判りだろう。『センチメンタルグラフィティ』から『センチメンタルグラフィティ2』への展開こそが、二つの続編形態の相克による失敗のもっとも典型的な例なのである。
 もちろん『センチメンタルグラフィティ』はエロゲーではない。ただし、本稿の考察の流れでは、「寝取られ」概念が有効であるかぎりで、ギャルゲーとエロゲーの差異は無視できることになる。
 『センチメンタルグラフィティ』の場合、第一作目のほぼ壊滅的な失敗のゆえに、同じキャラで同じエロを再度描く形態の続編を制作しなければならなくなってしまった、と考えられる。それは、寝取られとして、失敗を約束されたものなのにもかかわらず。まさに喜劇、いや悲劇である。

 まとめよう。萌えの論理と抜きの論理は、二種類の続編のつくり方に対応する。二種類の続編のつくり方が混じりあうと、ほぼ必然的に寝取られ状況が成立する。寝取られを好む人間は少ない。ゆえに、そのような続編は失敗する。

 しかし、議論は終わらない。実は、以上の考察をすべて破壊するような、掟破りの続編が一つ存在するのだ。
 全年齢対応エロゲー、『シスタープリンセス』から『シスタープリンセス2』への展開がそれだ。
 普通に考えると、第一作目と第二作目の繋がりは理解不可能である。前作のエンディングが完全にリセットされ、同じ妹たちが登場し、再度エンディングに到達する。この場合、寝取られになるはずだ。しかし、同時に、兄は兄なのだから正編続編通じて同一人物であるはずだ。では、第一作目と第二作目をどのように整合させることができるのか。
 ほぼ唯一の可能性は、一作目のいわゆる血縁エンドから二作目が連結している、とする場合である。*普通のエロゲー、ギャルゲーにおける個別エンドは、他のキャラとの関係の破綻を意味する。ましてやバッドエンドともなれば、正統な物語の結論とは当然見なされないであろう。しかし、シスプリの血縁エンドは特殊で、ある角度からすれば、結論の先送りと読めるわけだ。かくして、兄妹という枠組みに依存すれば、いくらでもシスプリネタは反復可能となる。
 しかし、これは可能な解釈ではあるが、事実オタクたちが採用した解釈というわけではない。ここが問題だ。
 シスプリオタは、正編との整合性などにはまったく関心をもたず、ただそのまま前作などあたかもなかったかのように続編に萌えただけだったのだ。
 そして、またここも問題なのだが、シスプリの制作者たちも、二作品間の整合性などにはまったく気を遣わず、ただ単純に前作などあたかもなかったかのように続編をつくっているのである。
 1998年の『センチメンタルグラフィティ』、そして、2000年のその『2』にかかわった制作者にとっては、シスプリ的続編の方法論など、はなから考慮の範囲外だったと思われる。それゆえ、制作者は愚直に整合的な続編をつくり、オタクはそれに傷ついたわけだ。当時においては、未だ、一作目との整合性を完全に無視して続編を出すなどということが、現実的な選択肢のうちになかったのである。
 他方、2001年の『シスタープリンセス』および2003年のその『2』は、まさにそれを実行しているわけだ。ここには、かなり決定的なオタクおよび制作者の態度の変化があるように思われる。一言で表現するならば、理解しようとするな、ただ萌えろ、という思想の肯定、となろうか。
 同じ萌えオタとみなされがちであるが、センチオタとシスプリオタとの間には世代の断絶ないしは思想の転換が確実に存在するのである。
 萌えについての新思想の是非については本稿では論じない。世紀の変わり目を跨いだほんの数年の間に、この新しい思想がオタク内で市民権をもつようになり、その象徴が、シスプリおよびシスプリ2である、という事実のみを指摘し筆を置くことにしたい。

* ほぼ、としたのは、以下の解釈も一応可能だからだ。
 兄は二人いたのかもしれない。妹が十二人いるのだから二人くらいいてもいいだろう。そう、シスプリの兄は交通事故で死亡して、シスプリ2では別の兄が登場したのだ。我々が気づいていないだけで、シスプリからシスプリ2への移行に伴い、兄は別人になってたのだ。
 それとも。
 妹は十二人ではなく二十四人いるのかもしれない。それも、姿形も名前も同じ十二組の一卵性双生児として。シスプリの鞠絵とシスプリ2の鞠絵は同一人物ではないかもしれない。
 では、僕は誰を愛していたのだろうか。僕は誰なのだろうか。

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