「オタク道」の余録と補遺

はじめに

 私の基本的な考えかたは「オタク道」にまとめてあるのだが、このテキストが書かれたのは2002年。さすがにいろいろと不十分なところも見えてきた。そこで、とくに掲示板やメールなどでご指摘いただいた問題点のうちいくつかをまとめておきたい。いろいろなかたから重なる話をもらっていることもあり、いちいちお名前を挙げることは控えるが、有益な対話についてここでお礼を述べておきたい。ありがとうございました。

補論(1):オタク道とはいかなるプロジェクトなのか

 「オタク道」において私は、単純化すれば、「オタクは妄想者である」という表現で自らの主張を述べていた。しかし、ここには独立の二つの主張が区別されないままに混在していた。それは以下の二つである。

(1)オタクと呼ばれている集合のうちに、妄想者という部分集合があって、これは趣味論において特別な注目をするに値するものである。

(2)これまで曖昧に使用されてきた「オタク」という概念は、とくにこの妄想者を指すものとして再定義すべきである。

 どちらかと言えば、私の問題関心は(1)を主張することにあったし、今もそうである。すなわち、「オタク」という概念の含みを十分に引きだすことを目指したというよりは、アニメや漫画やゲームなどの領域にとくにかかわる特殊な趣味のありかたを取り出して論理的な表現を与えることを目指していたわけである。この主張は、(2)とは独立に成立するものである。しかし、「オタク論」では、この区別ははっきりと認識されていなかった。

 「オタク道」が(1)だけではなく(2)にもこだわったのは、そもそもの議論が「オタクとはなにか」という、いわゆるオタク論の文脈から出発していたからである。しかし、今はオタク論そのものが流行らなくなっている。オタクに関連する諸々の趣味が世間一般にきわめて広範に受容されてしまい、それにともなって「オタク」概念もまたかつてよりもさらに拡散してしまったからである。いまさら「オタク」の再定義など提案してみても、生産性はないだろう。そういうわけで、(2)については、極論を言うならば、現在の私は譲ることもやぶさかではない。つまり、私の定義する趣味のスタイルこそを「オタク」と呼ぶべきである、という主張を留保することもやぶさかではない。そのときには、「オタク」という語のかわりに、たとえば「文化的妄想実践への参加者」という語をなにか省略して使うことにでもなるだろうか。ただし、そうなれば私は、自分の定義から外れた「オタク」概念には関心がない、なぜならば、趣味論において興味深いカテゴリーにならないと思うから、と言うことになるであろう。

補論(2):オタクとマニアの区別について

 「オタク道」において私は、趣味のありかたの様式として、オタクとマニアのあいだに先鋭な区別を引いた。ここまでは問題なかったのであるが、さらに私は、個別具体的な対象領域を例にとり、こちらの領域にはオタクが親和し、あちらの領域にはマニアが親和する、というような主張をも行った。しかし、どうやらこれは勇み足だったようである。

 「オタク道」の段階での私は、物語と実在の対象を区別したうえで、物語にオタクを、実在の対象にマニアを割り振った。しかし、あらためて考えてみれば、趣味の対象になるようなものごとは、ほとんどが文化的な背景をもつものであるからして、なんらかの物語を伴っているはずである。物語をまったく欠いた素の実在の対象などは、理論的な想定のうえでしかありえない。そうであるならば、マニア的な態度で向かうことができるようなものは、たいてい同時にオタク的な態度で向かうことも許すことになるだろう。

 この点にかんしては、趣味の現場にそくした具体的な指摘を複数いただいた。たとえば、鉄道をめぐる趣味には、自分で虚構のダイヤグラムを組んで喜ぶような遊戯もあるとのこと。これを妄想であり、ある種の二次創作である、と位置づけることは十分にできそうであり、もしそうだとすれば、私の定義からして鉄道趣味にはまさにオタクが成立しうる、ということになるだろう。また、ロケットをめぐる趣味にも、ロケットという人工物そのものに向かうものから、それを介して宇宙の浪漫に向かうものまで、さまざまな幅があり、そのうちの後者は明らかに物語にかかわっている。つまり、個々の趣味の対象を挙げて、こちらはオタク、こちらはマニア、と実例を挙げて説明しようとするのは方法として不適切だったのである。

 まとめよう。オタクとマニアの区別そのものについては問題はない。ただし、この区別はあくまで趣味の対象に向かう態度にかんするものであり、趣味の対象にかんするものではない。この点は徹底させるべきであるようだ。

補論(3):オタクと倫理

 オタクと倫理とのかかわりは複層的なものになっており、さまざまな問題状況の違いに注意しないと混乱をきたしてしまう。この点にかんしては、これまで整理が不十分であった。さしあたり、主要な場面を三つに区別して論じておきたい。

 第一に、オタク趣味に内在的な倫理の問題がある。これはすなわち、オタクがオタク趣味をするさいに、どのような態度で臨むべきか、ということである。たとえば私は、妄想にかんしては快楽主義的な立場を採用する。オタク的な妄想の範囲内では、常識的な倫理観にどれだけ反してもかまわない、楽しければなんでもいい、というわけだ。オタク的な作品批評もこの線にそって行うべきだと私は考えている。

 第二に、人がオタク趣味に向かうさいの態度にかかわる倫理の問題がある。これはすなわち、ある人がオタクという趣味活動を行うさいに、どのような態度であるべきか、ということである。この点にかんしては、たとえば私は自覚を強調する。上で述べたように、あくまで妄想のなかではあるが、オタクは常識的な倫理を侵犯する。暴力や性にかかわる場面が典型であろう。そのため、私はオタクにたいして、自分がどのような常識的な倫理をどのように侵犯しているのか、ということについて、最低限の知識をもつことを推奨する。これはたとえば以下のようなことである。野放図な暴力が展開される娯楽作品を楽しむのであれば、現実社会において暴力がいかなる場合にいかなる論理をもって正当化されるのか、ということについて、ちょっとでも知っていたほうがよい。また、至極適当に性を弄ぶ娯楽作品を楽しむのであれば、現実社会によって性差にかんする差別がどのようなかたちで現出するのか、ということについて、ちょっとでも知っていたほうがよい。これは、オタク趣味に外在的な、いわば社会人としての倫理の問題である。

 このあたりの事情には、文化的な趣味の面白さと難しさの両方を見てとることができる。たとえば、野球の試合において、選手は自分のチームの得点が相手のチームの得点よりも大きくなるように努力しなければならない。これがいわば野球の倫理である。先に挙げた、快楽主義を貫いて妄想せよ、という第一のオタクの倫理は、野球におけるこれに当たる。ただし、野球とオタクには、趣味として大きな違いがある。野球の倫理は、よほど特殊な場合を想定しないかぎり、第二の常識的な倫理と対立することはない。しかし、オタクの倫理は、常識的な倫理ときわどくせめぎあっている。それがオタクという趣味の魅力でもあり危険性でもあるのだ。この事情は、次の論点をも導く。

 第三に、オタク趣味を社会においていかに位置づけるべきか、という倫理の問題がある。こちらは狭義の倫理というよりは、法、社会、政治にかかわるものである。たとえば以下のようなものである。オタク趣味は暴力や性にかかわる表象を扱う。このような表象の社会的な流通について、そもそもなんらかの規制が必要なのか、必要だとすれば、いかなる規制がどこまで許されるのか。また、私はオタク趣味の本質に二次創作が属すると考えるものであるが、これと著作権との折り合いをどうつけるのか。これらの諸問題は、最初に挙げた二つとは独立に論じられるべきものであろう。

 論の途中で私自身の見解にも触れたが、ここで強調したいのは、冒頭で述べたとおり、それぞれの問題を混同してはならない、ということである。たとえば、第一の意味でオタクが徹底的に快楽主義的であるべきだとしても、このことは必ずしも第二第三の問題にも快楽主義的に答えるべきだ、ということを導かない。無自覚な快楽主義者にたいして「オタクとしては問題ないが、人としてその態度は未熟すぎる」という倫理的批判を向けることは十分に意味をもつだろう。また、オタクは快楽主義者であるべきだ、と主張する一方で、諸々の社会的規制にあるしかたで賛成する、という立場も十分に整合的であろう。

 これらは根本的な問題設定からして別々の倫理的な問いであり、別々の考察を要求する。オタク趣味にかかわる者であり、また、ある程度の年齢に達しているのであれば、これらのそれぞれについて一定の見解をもっているのが望ましい、と言えるだろう。

おわりに

 「オタク道」は、以上のものを含めさまざまな問題を含む古いテキストであるが、それなりに完結しているのでそのものの改訂が難しい。以降、問題が見つかったときには、このテキストに内容を付け加えるかたちで対応していくこととしたい。

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