探偵はいつ登場するのか

 なんだか私は自分が思っていたよりもアニメ版『氷菓』が好きであったみたいである。終盤のあたり、けっこう文句をつけたいところが多かったのだが、たぶん、ミステリ仕立てであるがゆえに、エピソードごとに比較的完結したつくりになっているのがよかったのかもしれない。これは駄目という話をスパッと切って、いいとこどりで記憶を再構成することができた。ということで、『氷菓』を話のオチに据えて、漫画やアニメのミステリについてちょっと思いついたことを記しておきたい。

 『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』の金田一一や江戸川コナンは名探偵と呼ばれている。しかし、彼らの行く先々で殺人事件が起きすぎているではないか、彼らこそが死神、疫病神ではないか、という揶揄がしばしばなされる。まあ、笑い話の一種なのであるが、よく考えると不思議である。他の名探偵にたいしては、あまりこのようなことが言われないように思うからだ。それはなぜか。長期連載で事件をたくさん扱っているからか。それだけではないように思われる。

 私はあまり熱心に読んだり見たりしていないので印象論なのであるが、基本的にこの二作は、事後に探偵が事件の解決を依頼される、というパターンを意識的に採用していないようである。もうすでに殺人事件が発生してしまったあとに、困り果てた関係者が探偵に解決を依頼する、そこではじめて探偵が事件に介入する、というパターンは、多くの推理小説に見られる典型の一つである。しかし、このパターンが徹底的に排除されているのだ。

 もしもこのパターンを採用するのであれば、探偵は死神呼ばわりされることはなくなるだろう。彼女あるいは彼が事件を呼び寄せているのではなく、彼女あるいは彼はわざわざ招かれて登場しているだけなのだから。しかし、これらの二作はそうしない。あくまで事件は、金田一やコナンが出かけていった先で、まさに彼らの目の前で発生するのである。これでは死神扱いされても仕方がない。では、どうしてこうなっているのか。

 いくつかの理由が考えられるであろうが、私が指摘したいのは以下のものである。それは、これらの作品が、漫画やアニメというメディアに親和的なかたちで制作されているからではないか。(*1)(*2)

 事後的に探偵が登場するパターンでは、これまでの事件の概要は、探偵が容疑者たちの証言を聴くシーンを重ねることによって説明されることになる。これは、小説ではまったく問題ない手法である。しかし、この手法は、漫画やアニメにはあまり適していないように思われる。延々と語りが続くだけのシーンは、これらのメディアでは退屈なだけなのである。回想シーンを映像で描けばいいのではないか、と思われるかもしれないが、それもなかなか上手くいかなそうだ。たとえば、証言を語っているのは容疑者であり、そのなかにいるはずの真犯人は確実に嘘をついているはずだ。嘘の証言内容は、通常の回想シーンと同じようには映像にしにくいだろう。(*3)

 このようなわけで、金田一もコナンも、事件発生の過程にリアルタイムで立ち合い、自らもまた目撃者の一人になることを強いられてしまうのである。そのため、彼らは殺人事件を招きよせる死神のようになってしまったのである。(*4)

 さて、以上の議論を踏まえて注目してみたいのが、アニメ版の『氷菓』の「愚者のエンドロール」である。このエピソードは興味深い。このエピソードの構造は、一見すると探偵が事後的に登場するパターンになっているようになっているのだが、実のところは、折木奉太郎は真の陰謀に現在進行形で巻き込まれている。二重構造になっているというわけだ。というわけで、アニメ版は、いろいろ工夫していたにもかかわらず、さすがに証言が続くあたりは米澤穂信の原作小説を読むよりもモッサリとしてしまったのであるし、また、そうでありつつも、大枠の構造が現在進行形パターンになっているので、全体としてはなかなか上手にアニメに収まったのである。これまで指摘してきた事情がそのまま見てとれる、というわけだ。 (*5)(*6)

註)

(*1) しろねこまさんより、職業探偵と素人探偵の区別が重要ではないか、との指摘をいただいた。まったく異論はない。そのあたり、「いくつかの理由が考えられるであろうが」に乱暴に放り込んでしまったのがよくなかった。このテキストはちょっと書き方が悪くて、この問題の規定的な原因を究明しているような感じになってしまっているのであるが、基本的には相関の話しかしていない。しろねこまさんの指摘も絡めて、「小説では職業探偵も素人探偵も書けるのだが、漫画やアニメには素人探偵のほうが相性がいい」としてしたほうが明快であるように思う。

(*2)これまたしろねこまさんより、事後的に登場する職業探偵ものには、すでにミステリというジャンルから外れて、「『謎』というラベルが貼られた敵と戦っている」ような作品が多いのではないか、との指摘をいただいた。たしかに漫画やアニメではそのような名ばかり探偵名が多いような気がする。これらのジャンル以外で、私がまず思いついたのは、実写の『西部警察』である。最初からもう犯人はバレバレで、あとは見敵必殺するだけ。捜査も、路地裏でチンピラを数発殴ると情報が得られるというお手軽さ。これはこれで素晴らしい。

(*3) ところが、実写映像にかんしては事情が異なるようである。『相棒』が大当たりしていることを思えば、実写においては「事後的に出てきて説明する探偵」がきちんと機能するようだ。たぶん、「人間がなにかを語るシーン」は、実写だと上手くやれば見応えが出るのだが、漫画やアニメだと物足りなくなってしまうからであろう。ところで、事後に登場する系統の探偵像の極北が安楽椅子探偵なのであるが、『氷菓』の「心あたりのある者は」がまさにこの形式を扱っていた。アニメ版のこのエピソードが度を越してイチャイチャを盛った回になったのは、語りによる謎解きだけではアニメとしての面白みに欠けるからではないか。元ネタのハリィ・ケメルマン『9マイルでは遠すぎる』はオッサン二人が会話するだけなので、アニメ化したら(一部の趣味の人以外には)さぞかし退屈になるであろう。

(*4) いちのせさんより、拙論「対象年齢別ヒーロー論」と組み合わせたうえで、事件に立ちむかう動機の観点に着目してみたらどうか、との提案をいただいた。いちのせさんの指摘を取り込みつつ、少々展開しておきたい。基本的に、「社会人向け」「中高年向け」には職業探偵が対応し、「子ども向け」「学生向け」には素人探偵が対応するだろう。職業探偵は、職業なのだから、自分に無関係な事件にもかかわらなければならない。そういうわけで、職業探偵が事件にかかわる動機はさまざまなものでありうる。いちのせさんが指摘された、社会や組織を守るため、という動機もある。シャーロック・ホームズは、自分の知的好奇心を満たすため、という動機を強調する。ハードボイルドなどでの、ただたんに金のため、という動機もかっこいい。他方、「子ども向け」「学生向け」の探偵ものは、基本的に素人探偵ものになるので、そこで扱われる事件は、探偵本人にとって普段の日常を捨てて取り組む価値があるものでなければならない。自分に無関係の事件であれば、警察などの職業探偵に任せればいいわけなのだから。そういうわけで、こちらの場合は、なにか自分と関係がある人間にたいして事件が生じないといけなくなるのである。

(*5)そういえば『UN-GO』の結城新十郎もまた、結局は他人の事件を解決するのではなく、自分自身が事件にズブズブに巻き込まれていった。そのあたりのノリは坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』とやはり違う。ここでもアニメの探偵は当事者にならないといけなかったというわけだ。

(*6)このテキストはウェブログに挙げたものが元になっている。有益なコメントをいただいたしろねこまさん(S猫)、いちのせさん(DANGO茶屋)に感謝したい。ご指摘いただいた諸々の論点は、註のかたちで反映させていただいた。ありがとうございました。

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