『咲-Saki-』シリーズ雑感

はじめに

  本家の小林立『咲-Saki-』に引き続き、五十嵐あぐり作画の『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』までアニメ化されて、なかなかに盛り上がりを見せつつある……となるかと思いきや、『阿知賀編』の出来が今一つ物足りない状況でもどかしい『咲-Saki-』シリーズ。ただし、いろいろと物足りない点はあるにしろ、『阿知賀編』も肝心なポイントのいくつかはそれなりに押さえてはいる。このテキストでは、『咲-Saki-』シリーズ全体を視野に入れて、その特色について思いつくままに論じてみたい。

1 欠点回収システム

 すでに述べたように、『阿知賀編』の、とくにアニメ版の出来はどうもよろしくない。尺の都合もあって、そもそも物語がなにを軸にしているのかがわからないようなものになっている。しかし、である。興味深いのは、そうであるにもかかわらず、このアニメをけっこう面白く観ることができてしまう、ということである。アニメ版『阿知賀編』にかぎらず『咲-Saki-』シリーズの物語展開には、あれっ、と思うところが多いのだが、その駄目なところが目立たないような仕組みが上手くできているのである。以下、二つ指摘しておこう。

 一つめの仕組みは、物語の出来を、そこで描かれている試合の出来にすり替える、というものである。全体の物語として方向性が迷走してしまっていたとしても、そこで描かれている試合が熱を帯びたものであれば、読者や視聴者としては満足できてしまう、というわけだ。たとえば、主人公校が途中で変わったかのようになってしまったら物語としてはおかしいわけだが、その試合だけを切り取って注目してしまえばそれも気にならなくなる。『咲-Saki-』シリーズは、最初からそのような受容をしやすいようなつくりになっているのである。

 二つめの仕組みは、物語の出来を、物語内のキャラの振る舞いの問題にすり替える、というものである。ある物語が微妙な展開になったのはなぜかと言えば、そのように作者あるいは制作者が描いたからのはずである。しかし、オタクには、そう捉えない態度も可能である。その責任を物語内のキャラに負わせればよいのだ。たとえば、ある試合展開が物語的に据わりの悪いものになってしまったとしよう。これを、作品の出来が悪い、という方向にもっていかずに、あのキャラが駄目なプレイをしたから、こんな試合展開になってしまったのだ、あいつが悪い、という方向にもっていくのである。このとき、作品そのものの出来の悪さには、あまり注目がいかなくなるだろう。それどころか、この場合、キャラについてあれこれ語る余地が多くなっているわけだから、つまりは、オタク的に遊ぶ余地が多くなっているわけだから、作品はある意味で成功したとさえ言えてしまうのだ。そして、『咲-Saki-』シリーズは、このような受容にたいしてもまた、適合したつくりになっているのである。

 これらは、オタクがキャラに注目して物語を受容するからこそ成立する仕組みである。このように、意識的なのか無意識になのかはわからないが、『咲-Saki-』シリーズはオタク的な物語受容の特徴を上手くついて、物語の出来の悪さが作品の評価の低下に直接的に響かないようにしているのである。

2 フラグ機能の特殊性

 『咲-Saki-』シリーズにおける回想シーンの使い方について確認をしておこう。

 『咲-Saki-』世界の麻雀競技は、なにをどうしたら勝てるのかがよくわからないものになっている。そもそも麻雀が偶然の要素が強いゲームであるうえに、その偶然の要素を好き放題に支配するオカルトな能力が乱れ飛んでいるからだ。

 そのため、この作品での麻雀の勝敗は、麻雀というゲームの論理の内部で決まるのではなく、物語の進行上の要請、つまりはフラグによって決まっているように見えてくる。そして、そのフラグを担っているのが、回想シーンなのである。かくかくの回想シーンがあったがゆえにしかじかの結果となった、というように、読者や視聴者は自分を納得させている。回想がフラグとなって、勝負の進行を読者や視聴者に合理的なものと解釈させている、というわけだ。

 さて、私はかつてフラグに二種類あることを指摘しておいた。(「フラグ概念の二義性」を参照。)その議論を利用するならば、『咲-Saki-』におけるフラグは、物語の説得力ではなく、演出効果にかかわるフラグということになる。過去にどんなエピソードがあろうが、それが現在の麻雀の勝敗にたいして実効的な因果的効果をもつとは考えにくいからである。

 そのため、『咲-Saki-』の回想シーンは、たしかにフラグなのだが、なんのフラグなのかは物語が先に進むまでわからない仕組みになっている。これが面白い。あるキャラクターが仲間に信頼されているシーンが回想に描かれたとしよう。そのシーンは、そのキャラの勝利のフラグなのだろうか、敗北のフラグなのだろうか。どちらでもありうる。勝ったときには、これだけの友情があるから勝てた、という勝利のフラグとなり、負けたときには、これだけの友情は負けても揺らがないから無問題、という敗北のフラグになるからである。どのような結末にしようが、読者や視聴者が勝手に解釈してくれるので、問題ないというわけだ。このような融通無碍なフラグの使いかたが、『咲-Saki-』の独特なリズムをつくりだしているのであろう。

 ところで、このように考えていくと、『咲-Saki-』シリーズの一つの難点が浮き彫りになる。もうすでに描写が十分に重ねられている主人公チームについてだけは、回想シーンを挟みづらいので、使い勝手のよい後でどうにでもとれるフラグを適切に配置することがしにくいのである。そのため、主人公チームのキャラの活躍にかんしては、いまひとつ上手に捌けていない感じが出てしまう。この問題は、『阿知賀編』でかなり露骨に出てしまっているのだが、本家『咲-Saki-』も共通に抱えているものであると言えよう。

3 『咲-Saki-』のサはサディズムのサ

 ついで、『咲-Saki-』シリーズの魅力の一つについて指摘をしておきたい。

 一連の『咲-Saki-』シリーズの魅力の一つは、可愛い女の子が完膚無きまでに叩きのめされて心が折れて目から光が消えてしまうさまを観賞できる、という点にある。サディスティックな嗜好のない人間にはなかなか理解できない趣味であるが、これがなかなかよいものなのだ。このようなサディストの視点からすると、『咲-Saki-』シリーズは設定の段階からなかなかによくできている、と評価できる。劇中の麻雀競技が、サディスティックな嗜好を満たすようなかたちに上手に設定されているのである。以下、要点ごとに確認していきたい。

(1) ダメージが精神的なものに特化していること

 麻雀なので、精神のみにダメージを負うのがいい。

 心の折れを伴わない肉体的ダメージは、ここで言うサディズム的には面白くない。たとえばスポーツものなどでは、キャラたちは勝っても負けても肉体的ダメージを負うだろう。しかし、こんなものは爽やかなだけであって、サディストの興味の対象にはならない。たいていの肉体的ダメージは精神的ダメージを伴うので誤解されがちであるが、実は、サディストにとっての価値を生むのはまずは精神的なダメージなのであり、肉体的なダメージはある意味不純物なのである。

 このように考えると、劇中の麻雀競技は理想的である。敗北に肉体的ダメージは当然伴わないし、金銭を賭けてもいないので経済的なダメージもない。キャラたちは、ただただ負けて心が折れるのである。麻雀は、混ぜ物を排して精神的ダメージのみを純化して描くことができる、サディストにとって実に美味しい舞台装置なのである。

(2) 責任がない罪科を背負いこませていること

 麻雀がランダム要素を含むゲームであるのがいい。

 将棋やチェスなどのゲームにおける敗北は、普通に考えれば、その十割がプレイヤーの責任である。プレイヤーがその結果を自分で背負うのは当然のことであり、それに苦しんでいたとしても、サディストにとってはいまひとつ面白くない。

 さて、麻雀である。このゲームにかんしては事情が違う。麻雀は、たんに運が悪かっただけで負けることもあるゲームである。(そのうえ、『咲-Saki-』シリーズには運を運とも思わないチートな能力者が多数登場するのだ。連中の相手になったということ自体、運が悪かったとしか言いようがない。)つまり、麻雀における敗北は、すべてがプレイヤーの責任とは言い切れないものである。本人の腕ももちろん必要ではあるが、基本的には麻雀はギャンブルなのであり、勝敗の大部分は運任せなのである。

 ところが、『咲-Saki-』シリーズの世界での麻雀は、その運まじりの性格にはほとんど注意が払われず、あたかも純粋な競技であるかのように扱われている。よく考えれば、これは世界観としては不合理なものであるが、これがよく効いている。『咲-Saki-』世界での敗北した麻雀プレイヤーは、読者や視聴者からすればあまり責任がないのにもかかわらず、自分がなにか悪かったのかもしれない、自分のせいだ、と自らを罰さずにはいられない。このような不合理な自虐のインフレほど、サディストにとって美味しいものはない。

 その筋では有名な思考実験をもじってみよう。極悪サディストが二人の子どもをもつ母親に、「一人だけ子どもを殺すから、どちらを殺すか選べ、選ばなければ両方を殺す」と迫ったとしよう。この母親は、どちらかの子どもを選ばざるをえない。そして、悪いのはすべてこの極悪サディストで自分にはまったく非がないのにもかかわらず、以降の人生で、自分の選択にたいする罪の意識に苛まれるであろう。このように、罪がまったくないのに自責して苦悩する、というところに、最大限に残酷な精神的ダメージが成立するのである。

 そして、『咲-Saki-』世界での敗者もまた、読者あるいは視聴者から見ると、まさに不合理な自虐に囚われて苦しんでいるわけで、これがサディストにとっては絶好のおかずとなりうるのである。

(3) 敗北が他人を巻き込むようになっていること

 ここまでの流れを踏まえればもはや説明は不要かと思うが、『咲-Saki-』シリーズの麻雀が、よくわからない団体戦であることも実にいい。自分の失敗が、自分一人の不幸を招くのであれば、まだ耐えられる。しかし、これは団体戦。仲間全員の不幸が結果してしまうのである。これは心が折れる。

(4) 戦犯がはっきりと定まる仕組みになっていること

 さらに、団体戦の点数持ち越し制というシステムがまたよくできている。このシステムは、敗北チームの敗北の責任の所在がはっきり決まりやすい仕様になっている。これは酷い。たとえば、星の数を競う総当たり戦や勝ち抜き戦は、敗北の責任が一人にいかないようになっている。だから教育の現場などでよく使われるのだろう。ところが、『咲-Saki-』シリーズはあえてそのような一般的なシステムを避けて、わざわざこんな非人道的システムを採用したのである。これこそ残虐趣味の極みである、と評価できよう。

 このように、『咲-Saki-』シリーズは、悪趣味なサディズムの快楽を効果的に満たすような上手いつくりになっている。私の友人でもっとも『咲-Saki-』が好きな人物は、自他ともに認めるドMであるのだが、彼がこの快楽抜きで『咲-Saki-』を楽しんでいる、というのが不思議になるくらいである。

4 二校抜け設定の可否

 最後に細かいが少々気になる点を指摘しておく。

 『咲-Saki-』シリーズであるが、インターハイの準決勝を四校が戦って一校だけではなく二校が勝ち抜く形式にしている。しかし、この形式は、先ほども論じた回想シーンで物語を動かしていく方式との相性があまりよくないのではないか。

 回想シーンで物語を駆動させる作品として私がまず思いつくのが、柳生新陰流最強妄想の基本文献のひとつ、五味康祐の『柳生武芸帳』である。徳川の世の太平を一発で引っくり返す危険を孕んだ超機密文書、柳生武芸帳を巡って剣術使いやら忍者やらお姫さまやらが入り乱れてくんずほぐれつする未完の大長編時代小説であるが、名前くらいは聞いたことがある方が多いのではないか。

 さて、この『柳生武芸帳』であるが、徹頭徹尾、回想でキャラを立てる方式を使いたおしている。基本的な流れは次のような感じだ。まず、新キャラが唐突に登場する。登場したと思ったら、回想シーンにいきなり突入、そいつの半生が延々語られる。なるほどなるほど、さてどうなる、と思った次の瞬間に、別の新キャラに斬られてさっくり死ぬ。このような展開が幾重にも折り畳まれ、容赦なく話の筋が入り乱れていくのである。最初はなんだこれは、と思うのだが、読んでいくうちにこの引き回され感がキモチよくなってくる、という寸法だ。他にもいろいろ語りがいのあるところはあるが、これ以上立ち入るのは目的から外れるので止めておく。

 ここで考えるべきは、『柳生武芸帳』がなぜこの方式を使うのか、ということである。私の考えはこうだ。キャラどうしがガチンコ真剣で秘術を尽くした殺し合いをしているので、出会った直後にどちらかが死んでしまうのである。そのため、物語の本筋のなかで、複数のキャラをいろいろと組み合わせて関係づけて、各々のキャラを立てていくことがやりにくい。そのため、キャラ立ては、物語の本筋とはかかわりないエピソード頼みに、つまりは回想頼みになるのである。

 さて、『咲-Saki-』シリーズであるが、回想でキャラ立てをするのであれば、『柳生武芸帳』のように、この一戦が終わったらもう負けた連中には出番なし、というようなシビアな条件を貫徹すべきだろう。どうせ次もあるじゃないか、な含みが残るバトルには、回想方式は馴染まない。他にもいくらでも使いやすいキャラの立て方があるのだ。この問題、本家『咲-Saki-』でも『阿知賀編』出てしまったようで、どちらも準決勝の物語上のポイントが少し見えづらくなってしまっているのである。

おわりに

 指摘するまでもないので本文では触れなかったが、小林立のキャラ創造能力の優秀さにはやはり脱帽せざるをえない。長野県大会決勝四校、ほぼすべての出場選手のキャラを立てきった手腕は伊達ではない。愛宕洋榎とか姉帯豊音とか花田煌とか、既存の属性の定跡を外れたところで、力技でキャラを魅力的にまとめてしまう技には驚嘆しきりである。

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