フラグ概念の二義性

 事典の項目が書いていたら肥大化してしまったのでコラムにしてみた。それほどたいした話ではない。
 オタクがある物語の展開を分析するさいに、「フラグ」という概念を道具として使うことがある。このフラグ概念について、簡単に位置づけを確認しておきたい。結論から述べるならば、この概念には使われる文脈に応じて二種類の意味が負わされている。
 この点にちょっと注意を喚起しておきたいのだ。

 プログラミングの位相でのフラグ概念が物語展開の分析に転用されたわけだが、そもそも、そこでフラグの意味に変化が起こっている。後論に役立つかぎりで雑に規定すれば、プログラミングの位相におけるフラグは、ある結果を成立させるかどうかの条件のことを言う。
 さて、このことが意味をもつためには、そもそも当該の結果が成立したり成立しなかったりするものでなければならない。また、そのフラグが立ったり立たなかったりするものでなければならない。そのうえではじめて、その結果とフラグとのあいだの条件関係を云々することが意味をもつ。当然のことだ。この場合のフラグは、あるシステムに実在し特定の機能として実現する構造に支えられているのだから。

 ところが、物語展開の分析で言われるフラグには、この基本的な前提が通用しない。
 単純な話だ。我々は、小説や漫画など、一本道の物語の展開を分析するさいにもフラグ概念を使用している。しかし、当たり前のことであるが、ある一本道の物語は、そういう一本道の物語でしかないのであって、その部分的要素が成立したり成立しなかったりしはしないのである。
 この場合、フラグと結果の関係は、物語に実在する構造に支えられているわけではない。我々が物語を解釈するさいに読み込む枠組みに支えられているのである。
 このようなフラグを、物語論的フラグと名づけておこう。

 ここまではごく当たり前の話で、当たり前すぎてあらためて説明するのが難しいほどだ。しかし、問題はこの先にある。
 物語論的フラグは、我々の物語解釈の枠組みとして機能するものである。このとき、物語解釈の態度に応じて、フラグ概念の機能が変化する場合があるのだ。
 二つのまったく別種の物語論的フラグの捉え方を挙げてみたい。

 ひとつめの物語論的フラグは、物語の説得力にかかわるものだ。もしもそのフラグがなかったら、物語は説得力を失ってしまう、という場合である。
 物語においてある結果が起きたことを、それ以前に提示されていたフラグが合理的なものとして説明するのである。これはミステリ等で言われる伏線に近い機能を果たすものである。このようなフラグと結果の関係を見出すことにより、我々は、ある物語をつじつまのあった説得力のあるものとして解釈することができるだろう。
 ひとつ注意しておけば、別に合理化といっても、現実にも妥当する科学的な因果関係が必要なわけではない。彼が呪い殺されたのは墓を暴いたからだ、でもいいわけだ。あくまで物語の内部で我々に理解可能な秩序が成立し、説得力を生んでいればいいのである。

 もうひとつの物語論的フラグは、物語の演出効果にかかわる。もしもそのフラグがなかったら、物語は強い印象を与え損ねてしまうのである。
 物語においてある結果が起きたことを、それ以前に提示されていたフラグがより印象的なものとして演出する、ということだ。
 注意すべきは、このときのフラグは、物語の合理性とはまったく無関係であってよい、ということだ。家族の写真を戦友に見せた兵士が直後に死んだとしよう。「家族の写真を戦友に見せる」というフラグは、「その兵士が直後に死んだ」という結果をいかなる意味でも合理化しない。合理化しないからこそ、このフラグは続く兵士の死を印象深いものとするのである。
 ここでありがちな誤解を指摘しておけば、このフラグは、物語展開の先読みとは基本的に無関係である。もちろん、演出効果にかかわるフラグが類型化し陳腐なものとなると、そのフラグから結果を類推することが可能になる。しかし、これはあくまで陳腐化したがゆえの事態でしかない。
 他方、物語の説得力にかかわるフラグは、合理性に基づき、たしかにある結果を導く。このことと、演出の陳腐化による先読みの可能性とは、まったく別のことがらであり、区別されねばならない。
 (ただし、概念成立の実際の経緯はもっと複雑かもしれない。演出が陳腐化して先読みできるようになったとき、これが合理性に基づく先読みと混同され、その混同に基づいて特定の演出が「フラグ」と呼ばれるようになったのだろうから。)

 まとめよう。物語論的フラグに二種類がある。我々が物語の説得力に着目するさいに言及するフラグと、我々が物語の演出効果に着目するさいに言及するフラグである。前者は、その物語を説得的にしたプロットやストーリーの構造を説明する。後者は、その物語を印象的にした技巧の要点を説明する。つまり、これらはまったく別のものである。

 ところが、多くのオタクによるフラグ概念の使用は、これらのフラグの種類の区別には無頓着な仕方でなされている。途中で意味がズレてしまっている場合が少なくないのだ。というよりも、オタクが現実に使っているフラグ概念はそもそも曖昧で多義的なものである、と言ったほうが正確だろうか。もちろん、別にそれで楽しく会話するというだけならば、少々の多義性はどうということもない。ただし、批評や評論をフラグ概念を利用してやろう、ということになると、ちょっとばかりの注意が必要であろう。

 なんだか整理だけで、なんら積極的な主張をしていないテキストになってしまったが、たまには仕方がないな。

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