オタク漫画の二様態

0 はじめに

 近年、オタクを主題としたオタク向けの漫画が散見されるようになった。これを「オタク漫画」と名づけておこう。しかし、その位置づけについては、いまだ議論が深まっているとは言いがたい。本稿は、オタク漫画の存在様態について、一定の見解を提示することを試みるものである。

1 オタク漫画の二つの様態

 結論から言おう。オタク漫画には二つの方向性がある。それを区別しなければならない。
 一つは、オタクの生態を描いた漫画である。オタクという存在が、どのような生を送っているのかを描くものだ。これを「オタクライフ漫画」と呼ぼう。もう一つは、オタク的なネタを描くことを目的とした漫画である。これは、オタクが読んで面白いテーマを描くものだ。こちらは、「オタクネタ漫画」と呼ぶことにする。
 この二つはまったく異なるものである。
 具体例に即して論じていこう。
 オタクライフ漫画の典型は、木尾士目『げんしけん』であろう。
 一方、オタクネタ漫画の典型は、堂高しげる『全日本妹選手権!!』である。
 本稿の主張するところは、この二作は、異なった読み方をされるべきだ、ということである。

2 オタクライフ漫画

 木尾士目『げんしけん』。現代のオタクの生態を描いた作品である。すなわち、作品の中のキャラクターがオタクなのである。
 これの読み方については、あまり語ることはない。オタクが読むと、我が事のように読めてしまって、痛いやら痒いやら、という楽しみを味わえる、というわけだ。自分の同類が描かれているのだから。
 しかし、だ。私は、オタクライフ漫画には、致命的な欠陥が原理的に伴う、と考える。純粋なオタクライフ漫画は、その本性からして失敗を運命づけられているのだ。
 どういうことか。理屈は簡単だ。オタクの生態など眺めても面白くもなんともないのである。
 スポーツ選手の人生は面白い。恋する乙女の人生は面白い。だから漫画のテーマになりうる。しかし、オタク的な人生を眺めても、面白くない。少なくとも、オタクにとっては面白くない。オタクはオタク的な人生に燃えも萌えもしないのである。
 オタクを漫画のキャラにしても、それほど面白くならないのだ。これが、オタクライフ漫画の根本的欠陥である。
 このため、オタクライフ漫画は、純粋なオタクライフ漫画としては成立しえない。必ず不純物を含まねばならない。そうでなければ、面白くならない。では、不純物とは何か。
 『げんしけん』においては、明白に、大野さんである。(もちろん他にも不純物の要素はあるが。)大野さんの存在は、現実のオタクの生態の忠実な描写からは生まれえない。しかし、大野さんという萌え補助支柱を一本入れることなしには、リアルなオタクライフなぞつまらなくて読んでられないのである。せいぜい小ネタにしかならんのだ。それなら、くじびきアンバランスそのものをやったほうがなんぼかマシだろう。
 さて、不純物の入れ方には別の方策がある。それは、キャラをオタクというより異常者にしてしまう方向である。
 この方策を採用しているものとして、小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』および田丸浩史『ラブやん』などが挙げられよう。どちらもオタクを描いているというよりは、オタクな異常者を描いている。注意すべきは、オタク度を誇張しているわけではない、という点だ。サッカー漫画であれば、サッカー能力をデフォルメする。料理漫画であれば、料理能力をデフォルメする。これは普通だ。しかし、上の二作はオタク能力をデフォルメしているのではない。カズフサもヤマモトもオタクとしてのスキルの高さとは別の次元で、奇人なのである。だからこそ、面白い。オタクは見ていてつまらないが、変態は見ていて面白いからだ。

2 オタクネタ漫画

 オタクライフ漫画について概観した。ここで強調したいのは、『全日本妹選手権!!』を上述の論理で解釈することはできない、ということである。
 『全日本妹選手権!!』はオタクの生態を描いているのではない。登場するキャラの口を借りて、作者がオタクなネタを展開しているのだ。ネタこそが主眼なのである。いってみれば、オタクネタ漫画とは、物語ではなくエッセイなのである。これがオタクネタ漫画の特徴である。
 それゆえ、『全日本妹選手権!!』に登場するキャラたちが、オタクの描写としてリアルか否か、などを議論することに何も意味はない。それらのキャラは、第一には、ネタを語らせるための媒介、手段として登場している。そして、第二には、そのようなキャラとして設定されていることそれ自体がネタとして機能しているのである。最初からリアルなオタクライフの描写など求められていないのだ。
 この系統として挙げられるのが、久米田康治『かってに改蔵』(ネタはオタクに限定されていないが)、平野耕太『進め!!聖学電脳研究部』などである。
 さて、オタクネタ漫画の弱点とは何か。単純である。面白さがネタに完全に依存してしまうのだ。オタクライフ漫画であれば、立ったキャラを転がしていれば、なんとか話はできる。しかし、ネタ漫画はそうはいかない。作者のオタクネタが切れた時点で、オタクネタ漫画は終わる。徳光康之『濃爆おたく先生』がよい例だ。最初はたしかに面白かった、素晴らしかった、しかし…。あとは武士の情けで飲み込んでおく。その他、叩きになるので作品名を挙げるのは避けるが、私にとっては端的にネタが浅く薄すぎてつまらんものも多い。え、ソレがアナタにとっての濃いオタクなの、と作者を問い詰めたくなる。

3 まとめ

 このように、オタクライフ漫画とオタクネタ漫画は区別して扱われるべきである。もちろん、この区別は概念上のものであり、すべての作品が完全にどちらかに分類されうる、などと主張するつもりはない。当然のことながら、個別具体的な作品には、オタクライフ漫画としての性格とオタクネタ漫画としての性格が混在している。本稿でこれまで挙げてきた作品についても、もちろんそうである。しかし、これは、両契機を混同してよい、ということを意味しない。逆に、両契機の区別を明確にし、その比率を適切に見て取ることにより、解釈が初めて可能になるのである。
 最後に、ひとつだけ残された問題を指摘しておこう。
 我々の議論には見落としがある、と思われるかもしれない。漫画を創作する、ということのドラマを描いた作品は多く存在する。これらはオタクの人生そのものを面白く描きうる、という実例ではないのか、と。漫画やらアニメやらを一括してオタク文化と総称してしまうような発想からは、こういう間違いが生まれてしまう。この点については、まず、拙論「オタク道」、とりわけ「5 オタクとは何でないか」を読んでいただきたい。我々の定義では、一次創作者はオタクではない。ゆえに、漫画家の創作のドラマを描いた作品は、定義上オタク漫画ではないのである。日本橋ヨヲコの快作『G戦場ヘブンズドア』を想起されたい。一次創作漫画、漫画家漫画はかくも熱く激しくなるのだ。オタク漫画と一緒にしてもらっては困る。
 しかしながら、だ。それでもなお、一つの可能性が残る。二次創作のアツいドラマを描くことがまだ残っているのだ。ここが、純粋なオタクライフ漫画の物語の面白さが成立しうる最後の砦だと思われる。
 慧眼な読者は既にお気づきであろう。これは、まさに平野耕太『大同人物語』が描こうとしたものなのである。ここにオタク漫画の可能性の一つが未だに眠っている、というわけだ。

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