「途中で批評する文化」について

 古式ゆかしい推理小説では、探偵が関係者全員を一堂に集めて謎解きをする場面がたいていあるのだが、そこでのお決まりの台詞に以下の二つのものがある。「そうです、事件の発端ははるか以前のあのときにまで遡るのです」、そして「いや、犯人の真の目的は別のところにあります、事件はまだ終わっていないのです」、これらである。その事件がどこで始まってどこで終わるのかを正しく見て取らなければ、事件の真相などわかるはずもない、というわけだ。

 さて、芸術作品というものは、一部の例外を除くと、その作品が時間的にも空間的にもどこで始まってどこで終わるのかがはっきりしている場合が多い。絵画、音楽、詩、映画などを思い浮かべられたい。そして、範囲がはっきりしているからこそ、その作品を評価するためには、まず全体を把握しなければならない、とされるわけだ。一部だけしか見ずに作品を評価する、というのは、基本的に芸術鑑賞や批評においてはルール違反であろう。

 ところが、面白いことに、オタク文化圏においては、明らかに完結していない作品にたいしてなんらかの評価を下すことが要求される場合が多い。これは、まずは作品の発表形式によるところが大きいと思われる。基本的に、オタクジャンルの作品はある程度の長い期間をかけて連続的に発表されることが多い。漫画であれば連載、アニメであればTVシリーズといったものを想起されたい。ライトノベルなども、人気作は必ずシリーズ化され、長々と続いていくことになる。そうなると、完結以前の途中の段階でいろいろ語りたいことが出てきてしまうのは、理の当然ということになるだろう。そこに、オタクジャンル独特の「途中で批評する文化」が成立する、というわけだ。ところで、連作的な発表形式がオタク的な妄想を誘発するものであることは、別稿ですでに指摘した。(「オタク道」「連作可能性」を参照。)しかし、本稿では、妄想ではなく批評のほうに注目している。こういった発表形式は、妄想のみならず、批評においてもオタク的なありかたと親和的である、というわけだ。

 さらに、発表形式が連作的である、ということに、オタクジャンルの作品が基本的に娯楽のために消費されるものである、という事情が加わる。漫画であれアニメであれ、たいていは連載中あるいは放映中こそが盛り上がりの真っ最中であって、そこで語っておかないと、誰も話を聞いてくれない。完結したころにはもう次の新しい作品が始まっているので、見る側も創る側も、そちらに集中力を向けなければいけないのである。作品の旬は、まさにそれが発表されつつあるあいだであって、最終回を迎えて三日も経つと、もう古くなってしまうのだ。個人のウェブログの感想から、マンガ大賞のような売り上げにかかわる大きなイベントまでが、この論理に強く支配されている。もちろん、作品が完結したあとにじっくりと語る、という営みの余地がないわけではないのだが、これは我々の文化においては周辺的なものに留まっているのが実情である。よほどの話題作についてか、よほどのファンによってか、どちらかでないかぎり、消費の論理を超えて完結したあとまでも批評が盛り上がることはない。オタク文化圏においては、途中で評価する、ということがルール違反ではないばかりか、評価の営みの主流になっているのである。

 注意しておけば、オタク文化圏においてこういった批評がメインになっていること自体は悪いことではない。もちろん、途中で批評することしかできない、というのはまずい。しかし、完結した段階で評価を与えることと、途中の段階で評価を与えること、両方できたうえで適切に使い分けているのであれば、とりたてて問題は生じないであろう。肝心なのは、途中で批評するということの特殊性を自覚すること、そして、二つの批評の使いどころを間違えないことである。このあたり、たまにきちんとできていない人がいる。たとえば、途中の段階でも十分に根拠をもって指摘できる長所や短所というのはあるわけで、それにたいして脊髄反射で「最後まで見ないとわからないじゃないか」と反論するのは筋違いであろう。このあたりさえ気をつけていればいいのである。

 ところで、オタクジャンルにおける批評(っぽい)活動の特徴として、信者およびアンチの存在が挙げられる。どちらも、作品の出来不出来について非合理かつ極端な信念を抱いてしまっている困った人、ということになる。さて、こういったタイプがしばしば登場するのは、オタクジャンルにおいて、途中で批評する、ということが要求されるからではないか。途中で批評するためには、掴みの部分を鑑賞した段階で、とりあえず作品にたいする態度決定をする必要がある。これはあくまで「とりあえず」の仮説的な態度決定であって、その後の作品の展開によって漸次的に修正していけばいいわけだが、これがなかなか難しい。一度決めてしまった解釈方針を覆すのは、ある意味過去の自分の過ちを認めることであり、人間の心理からして、かなりのストレスになるからである。かくして、信者はアバタもエクボの語りかたに傾斜し、アンチはエクボもアバタの語りかたに傾斜する、というわけだ。オタクジャンルにおいて、困った言説や議論にならない議論がそこここで現出してしまう原因には、馬鹿な子が多い、とか、騒ぐのが面白い、とかいうことだけでなく、こういった事情もあるのではないか。

ページ上部へ